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瞬きの窓

 悪魔が歩いてくる。


 焼け焦げた左腕をだらりと下げたまま、氷の荒野を一歩、また一歩。急ぐ様子はない。散歩でもするかのように、まっすぐに北門へ。


「射てえッ!!」


 城壁の上で、外壁警備隊の隊長が叫んだ。


 弓弦が一斉に鳴った。


 ヒュヒュヒュヒュヒュッ――!!


 数十本の矢が夕焼けの空を覆い、雨のように悪魔へ降り注ぐ。


 カン。


 カカカカカカカンッ!!


 全て弾かれた。


 見えない壁に当たった矢が、次々と折れ、跳ね、悪魔の足元の氷に散らばっていく。悪魔は歩みを緩めることすらしなかった。頭上から降る矢を、雨粒ほどにも気にしていない。


「止まらない……止まらない……!」


 警備隊の若者が、震える声で呟いた。


 当たり前だった。窓は閉じている。誰も触れていない悪魔に、届くものなどこの世に一つもない。


「――特務班!!」


 キネシスの声が響いた。


 次の瞬間、蓮の視界が歪んだ。


 城壁の石畳が消え、足元に冷たい氷の感触がある。北門の前。悪魔と門との、ちょうど真ん中。フィールがいる。ヴァイスがいる。ロイがいる。オルトが、ユーリが、リアムがいる。城壁の上にはミラだけが残り、弓を引き絞ったまま、じっとこちらを見下ろしていた。


 七人が、悪魔の行く手に一列に並んでいた。


 悪魔が足を止めた。


 二十歩の距離。


「おや」


 アスモデウスは、不思議そうに首を傾げた。


「武をお持ちの方々が、道を塞がれる。……私が用があるのは、あちらの方なのですが」


 赤い瞳が、蓮たちの肩越しに北門の奥を見ていた。


 サナトスを。


 フィールが一歩、前へ出た。


「――礼を!!」


 その声に、全員が弾かれたように動いた。


 拳を掌に打ちつける。


 パン。パン。パンパンパン。


 七つの音が、ばらばらに荒野に響いた。揃ってなどいなかった。震えていた。それでも、全員が頭を下げていた。


 悪魔の目が、嬉しそうに細められた。


「ああ……これは、これは。ご丁寧に」


 アスモデウスは、右の拳だけを胸の前に掲げ、深く頭を下げた。焼けた左腕が、その動きに合わせて力なく揺れた。


「お願いがあります」


 フィールが剣を抜いた。


「あの方は、この街の人々を癒やす方です。……私たちの仲間の傷も、癒やしてくださった方です。お相手は、私たちが」


 蓮は、隣のフィールの横顔を見た。震えていた。唇も、剣先も。北の丘であの掌を見て、トーレとネロの死を見て、蓮の胸が砕かれるのを見たのだ。それでも彼女は、剣を下ろさなかった。


「……そうですか」


 アスモデウスは顔を上げた。


 少しだけ、寂しそうだった。


「では、手合わせですね」


 悪魔は構えた。


 右の掌を前に。焼けた左腕は、脇に垂らしたまま。


「七名さま。まとめて、どうぞ」


 最初に飛び出したのは、ヴァイスだった。


「うおおおおおおッ!!」


 氷を蹴る。低く、速く。剣を下段から跳ね上げる。狙いは悪魔の焼けた左腕。動かない側。守れない側。そこなら――


 ヒュン。


 悪魔が半歩だけ、体を回した。


 それだけで、ヴァイスの剣は何もない空を切っていた。


「弱い方を狙うのは、良い判断です」


 穏やかな声が、ヴァイスの真横から聞こえた。


「けれど、弱い方をお見せしているのは、こちらなのですよ」


 トン。


 悪魔の右の指先が、ヴァイスの手首に軽く触れた。


 それだけだった。


 ヴァイスの剣が、手から離れて宙を舞った。


「――ッ!?」


 握力を奪われたのではない。痛みもない。ただ、手首の骨の継ぎ目を、ほんのわずかにずらされた。それだけで指が勝手に開いたのだ。


 ヴァイスの体が氷の上を転がる。


 同時に、左右からオルトとリアムが挟み込んでいた。


 右からオルトの槍。左からリアムの短剣。


 完璧な同時攻撃だった。


 悪魔は動かなかった。


 ガキィン!! ガキィン!!


 槍の穂先も、短剣の刃も、悪魔の体の手前で見えない壁に弾かれた。当然だ。触れていない。窓は開いていない。いくら同時に突こうと、いくら速く斬ろうと、届かない。


「無駄だ……! 窓がなけりゃ、何をやっても――」


 ロイが叫びかけた、その時。


 城壁の上から、一本の矢が飛んだ。


 ミラだった。


 矢は悪魔ではなく、悪魔の足元の氷を撃ち抜いた。


 パキィン。


 テルモが残した氷の大地に、蜘蛛の巣のような亀裂が走る。悪魔の立つ足場が、わずかに傾いた。


 ほんのわずか。


 指一本分。


 アスモデウスの重心が、ほんの一瞬、揺らいだ。


 その一瞬。


「――今だ!!」


 キネシスが消えた。


 現れた。


 悪魔の左側。焼けた腕のすぐ横。


 青年の右手が、悪魔の炭化した左の前腕を、上から叩きつけるように掴んだ。


 見えない壁。接触の瞬間は阻まれる。


 だが、掴んだ手は離さない。


 触れた。


 そして。


 悪魔の左手は、動かなかった。


 焼けているからだ。指の一本も、もう動かせないからだ。タイタンの握りをほどいたあの関節の技は、使えない。テルモが焼いた腕だからこそ、掴み返されることがない。


 テルモの炎は、無駄ではなかったのだ。


 窓が、開き始めた。


「突けえええええッ!!」


 フィールが吠えた。


 全員が走った。


 フィール。ロイ。オルト。ユーリ。リアム。蓮。


 一呼吸。二呼吸。


 駆け寄る数歩の間に、窓は、掴まれた腕から胴へ、脚へと、回っていた。


 剣が、槍が、短剣が、四方から悪魔の体へと殺到する。


 ドスッ。


 フィールの剣が、悪魔の右の太腿に突き刺さった。


 ザシュッ。


 リアムの短剣が、脇腹を抉った。


 ブシュッ。


 黒い血が噴き出した。


 通った。


 蓮の剣も、悪魔の背中へ――


「――離れろッ!!」


 その叫びは、キネシスのものだった。


 悪魔の右の掌が、持ち上がっていた。


 キネシスの胸へ。


 ドン、と。


 音が鳴る、その寸前。


 キネシスが消えた。


 悪魔の右掌が、何もない空間を打った。


 ブワッ。


 空気が破裂した。キネシスが一瞬前までいた場所の空気が、掌の一撃で弾け飛び、衝撃波となって氷の上を走った。蓮の頬を、切り裂くような風が撫でていった。


 キネシスは、十歩離れた場所に片膝をついて現れていた。


 無傷だった。


 そして窓は。


 閉じた。


 ガキン!!


 蓮の剣は、悪魔の背中の手前で弾き返された。


 あと一瞬。


 あと一瞬、早ければ。


「全員下がれ!!」


 フィールの号令で、特務班は一斉に距離を取った。


 アスモデウスは、太腿に刺さったままのフィールの剣を見下ろしていた。


 それから、脇腹の傷に触れた。


 指先に、黒い血がついていた。


「……ほう」


 悪魔は、感心したように呟いた。


「触れて、突かせて、打たれる前に消える」


 赤い瞳が、キネシスを見た。


「窓を開けて、窓の内側からは逃げる。……瞬きの間だけ開く窓。なるほど。これは、よく考えられている」


 悪魔は、太腿の剣を右手で引き抜いた。


 そして、それを丁寧に、刃を自分に向けて、フィールの足元へと放った。


 カラン。


「お返しします。良い突きでした」


 フィールは剣を拾わなかった。拾えなかった。膝が笑っていた。


 蓮は、自分の心臓がうるさいほど鳴っているのを感じていた。


 これだ。


 これなら、いける。


 タイタンの窓は、握っている間ずっと開き続けた。だから悪魔に反撃の時間を与えた。テルモの窓は、枷で釘づけにした。だから逃げられなかった。


 だがキネシスは違う。


 触れて、窓が回る間だけ開けて、打たれる前に「移動」で消える。窓の内側に留まらない。悪魔に反撃の時間を与えない。


 瞬きの窓。


 繰り返せばいい。何度でも。何十度でも。悪魔が倒れるまで。


「もう一度だ」


 キネシスが立ち上がった。


 その額に、汗が浮かんでいた。


「同じ呼吸で行く。ミラ、足場を」


 城壁の上で、ミラが頷いた。


 矢が飛ぶ。氷が割れる。悪魔の足場が、わずかに傾く。


 キネシスが消えた。


 現れた。


 悪魔の左側。焼けた腕の真横。


 掴む――


 その手が、空を掴んだ。


「……え?」


 悪魔が、いなかった。


 いや。


 いた。


 キネシスの、真後ろに。


「目が」


 穏やかな声が、青年の耳元で囁いた。


「跳ぶ前に、行き先を見ておられます」


 蓮の全身の血が、凍りついた。


 ――見える場所なら、どこへでも一瞬で移れる。裏を返せば、見えない場所へは跳べない。


 だから、跳ぶ前に必ずその場所を見る。


 見なければ、跳べない。


 一度目で、悪魔は気づいたのだ。キネシスが跳ぶ直前、その目が必ず、行き先の一点を見つめていることに。


 たった一度で。


「それさえ分かれば、あなたが現れる場所に、先に立っていればよい」


 悪魔の右の掌が、キネシスの背中に添えられた。


 接触の瞬間。見えない壁が、掌を阻む。


 阻む。


 一撃目は、阻まれる。


 だが。


 掌は、離れなかった。


 青年の背中に、ぴたりと吸いついたまま。


 触れている。


 今度は、悪魔の方から触れている。


 窓が開いた。


 キネシスの加護が、消えた。


「跳べ……跳べッ、キネシス様!!」


 蓮は叫んでいた。


 跳べばいい。跳べば離れられる。窓の外へ出られる。


 だがキネシスは、跳ばなかった。


 跳べなかった。


 青年の目が、見開かれたまま、どこも見ていなかった。背中に掌を添えられた瞬間、体の内側に何かを流し込まれたように、その全身が硬直していた。


 跳ぶには、行き先を見なければならない。


 見る前に、体の自由を奪われた。


「二撃目は」


 悪魔は囁いた。


「少し、重いですよ」


 ――間に合わない。


 フィールも、ヴァイスも、ロイも、オルトも、ユーリも、リアムも、全員が十歩以上離れていた。窓を突くために距離を取っていた。今この瞬間、キネシスの傍にいる者は誰もいない。


 誰も。


 蓮の足が、氷を蹴っていた。


 考えていなかった。


 考える前に、体が動いていた。


 北の丘の夜と同じだった。国境の集落の夜と同じだった。誰かが死ぬ。目の前で死ぬ。それを見ていることだけは、もう、できなかった。


 ダインが死んだ。


 イライザが死んだ。


 クレベスが死んだ。


 ムーヴが死んだ。


 トーレが死んだ。


 ネロが死んだ。


 もう、嫌だ。


 もう、一人も――!!


 十歩。


 届かない距離のはずだった。


 だが、蓮の体は、届いていた。


 自分でも信じられない速さだった。氷の上を滑るように、いや、氷を砕きながら、蓮はキネシスと悪魔の間へ飛び込んでいた。


 青年の体を、肩で突き飛ばす。


 キネシスの背中から、悪魔の掌が離れた。


 その掌の真正面に。


 蓮の胸があった。


 ドン。


 衝撃が、胸の真ん中を貫いた。


 痛い。


 痛い痛い痛い痛い痛い――!!


 骨が鳴った。一本ではない。何本も。胸の内側で、乾いた枝をまとめて踏み折ったような音がした。肺の中の空気が、全て押し出された。視界が白く弾けた。北の丘の夜と同じ。同じ場所。同じ掌。同じ一撃。


 体が宙を舞い、氷の上に叩きつけられる。


 転がる。転がる。転がる。


 止まった。


 夕焼けの空が見えた。


 息が。


 できない。


 口の中に、鉄の味が広がった。咳き込もうとして、咳き込むことすらできなかった。胸が動かない。動かそうとすると、砕けた骨の破片が内側から肉を刺した。


 ――ああ。


 また、これか。


 北の丘の夜と同じだ。あの時も、こうして夜空を見上げていた。息もできずに。何もできずに。フィールの悲鳴だけを聞いていた。


 視界の端で、キネシスが立ち上がろうとしていた。


 フィールとロイが、その体を両脇から支えている。三人が、こちらを見ていた。フィールの顔が、くしゃくしゃに歪んでいた。何かを叫んでいる。聞こえない。


 そしてその向こうに。


 北門が見えた。


 開いたままの門の奥で、白い長衣の老人が、倒れた二人の貴族の手を握っていた。老人の傍らに、白い前掛けの少女がいた。こちらを見て、両手で口を覆っていた。


 レミエル。


 あの子は、従士の傷にさえ心を痛める。


 今、自分が倒れたままでいたら。


 悪魔は、あの門へ向かう。


 ――立て。


 蓮は、自分に命じた。


 立て。


 胸が砕けていようが知ったことか。息ができなかろうが知ったことか。


 立て。


 ダインは立てなかった。イライザは立てなかった。クレベスも、ムーヴも、トーレも、ネロも、誰一人として、もう二度と立つことはできない。


 だったら。


 まだ立てる自分が、寝ていていい理由がどこにある。


 立て。


 立て立て立て立て立て――!!


 指が、氷を掻いた。


 爪が割れた。


 構わなかった。


 肘をつく。胸の奥で骨が軋んだ。視界が赤く明滅した。


 構わなかった。


 膝を立てる。吐いた血が、氷の上に散った。


 構わなかった。


 剣はどこだ。


 あった。


 三歩先に、転がっていた。


 這った。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 柄を握った。


 その剣を氷に突き立てて、杖にして、蓮は。


 立ち上がった。


 膝が笑っていた。胸は焼けるように痛かった。一呼吸ごとに、意識が遠のきかけた。剣先は、みっともないほど震えていた。


 それでも、立っていた。


 悪魔と北門の、ちょうど真ん中に。


「……通さ、ない」


 声になっていたかどうか、分からなかった。


「ここは……通さない……ッ!!」


 城壁の上で、誰かが息を呑む音がした。


 アスモデウスは、蓮を見ていた。


 キネシスには目もくれなかった。北門の奥にも、もう目を向けていなかった。


 ただ、自分の右の掌を見つめていた。


 それから、蓮を見た。


 掌を見た。


 蓮を見た。


「……立ちますか」


 悪魔は、静かに呟いた。


「その胸で。その息で」


 その声から、初めて穏やかさが消えていた。


 代わりにそこにあったのは、驚きだった。長い長い年月を生きてきた者が、久しく忘れていたものに、不意に出会ってしまったような。


「私の掌を二度受けて、なお立った人間は、あなたが初めてです」


 アスモデウスが、一歩、蓮へ近づいた。


「武とは、技のことだと思っておりました。触れ方、崩し方、打ち方。長い長い時をかけて、磨き上げるものだと」


 もう一歩。


「けれど今、あなたが立ち上がったそれは、技ではない」


 蓮には、悪魔が何を言っているのか分からなかった。耳鳴りがひどかった。ただ、剣を構え続けることだけで精一杯だった。


「あなたは、何者ですか」


 悪魔はもう、サナトスを見ていなかった。


 北門のことも。糧のことも。この戦場の全てを忘れたように、ただ蓮だけを見ていた。


「興味が湧きました」


 アスモデウスは、右の拳を胸の前に掲げた。


 そして、深く、深く頭を下げた。


 これまでのどの礼よりも、深く。


「改めて。アスモデウスと申します。……あなたを、客人としてお相手いたします」


 顔を上げた悪魔の右の掌が、ゆっくりと持ち上がった。


「最後まで」


 夕日が、地平線に沈んだ。


 荒野が、一瞬で夜に呑まれた。


 その闇の中で、悪魔の赤い瞳だけが、二つの火のように燃えていた。


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