氷の枷
最初に動いたのは、キネシスだった。
音もなく消え、次の瞬間には、膝をついたタイタンの傍らに現れていた。青年の手が巨漢の肩を掴む。その一瞬の手間さえ惜しむように、キネシスはもう一方の手でロイの襟首を掴んだ。
三人の姿が消えた。
北門の内側に現れた時、そこにはすでにサナトスが待っていた。
「横にしてください。……剣はまだ抜かずに」
老人の声は静かだった。だが、蓮の立つ場所からでも、その皺だらけの手が小さく震えているのが見えた。
サナトスは、血に濡れたタイタンの手を両手でしっかりと握った。
触れている。
貴族と貴族が触れ合って、初めて癒やしが届く。
淡い光が、タイタンの体を包み込んだ。
「ぐ……ッ」
巨漢が呻いた。肩に刺さったままのロイの剣が、光に押されるようにゆっくりと押し出され、カラン、と石畳に落ちた。傷口が塞がっていく。だが、胸は違った。光は胸の上で何度も明滅を繰り返し、それでもなかなか収まらなかった。
「……内側が、ひどく砕けています」
サナトスが、目を閉じたまま言った。
「貴族の御体は、人の何倍も癒やしを食います。……一度では、命を繋ぐのがやっとです。あとは、御身の力で癒えていくのを待つしかありません」
光が、ようやく静まった。
「時がかかります。しばらくは動かさないでください」
キネシスはすぐに跳び戻り、残る特務班を城壁の上へ運んでいた。蓮は城壁の上から、その光景を見下ろしていた。
あと三度。
今、一度目が使われた。
残りは二度。
この戦いは、まだ始まったばかりだというのに。
荒野の上で、アスモデウスはその様子を黙って眺めていた。追おうとはしなかった。北門へ歩み寄ろうともしなかった。ただ胸の前で拳を合わせたまま、治療の光が明滅するのを、どこか感心したように見つめていた。
「癒やしの方がいらっしゃるのですね。よろしい。どうぞ、お時間は差し上げます」
穏やかな声だった。
「手合わせのお相手は、万全である方がよろしいので」
その言葉に、蓮の背筋が冷えた。
待っている。この悪魔は、本当に待っている。
客の支度が整うまでは、いくらでも待つ。北の丘で聞いた、あの決まりの通りだった。
北門から、一人の男が歩み出た。
テルモだった。
炎氷の貴族は、悪魔の十歩手前で足を止めた。そして、胸の前で拳を掌に打ちつけた。
パンッ。
タイタンのそれより、ずっと静かな音だった。
「『炎氷』の貴族テルモ」
声には何の感情もなかった。
「……手合わせ願う」
テルモは深く頭を下げた。タイタンよりも深く、長く。その礼があまりにも完璧だったので、城壁の上の誰もが息を呑んだ。
アスモデウスの瞳が、嬉しそうに細められた。
「これは、見事な礼を。アスモデウスと申します」
悪魔は構えた。
テルモは構えなかった。
両腕をだらりと下げたまま、ただそこに立っていた。
「特務班」
テルモが、振り返りもせずに言った。
「今度は近寄るな」
城壁の上で、フィールが眉を寄せた。
「窓は私が一人で使う」
その意味を、蓮が理解するより先に。
テルモの足元から、白い霜が走った。
パキ。
パキパキパキパキパキ――。
乾いた荒野が、みるみるうちに白く凍りついていく。テルモを中心に円を描くようにして、霜が、氷が、地面を這い広がっていく。十歩。二十歩。悪魔の足元をも呑み込み、なおも広がっていく。夕日が氷の上で乱反射し、荒野が一瞬、白く燃え上がったように見えた。
「足場を奪いに来ましたか」
アスモデウスは、氷の上に立っていた。
滑らない。揺らがない。つま先が氷に触れているのかいないのか、それすら分からないほど自然に、悪魔はそこに立ち続けていた。
「悪魔の体に、私の力は届かない。……だが、大地は別だ」
テルモが一歩踏み出した。
その足元の氷だけが、ざらりと砂のように粗くなる。自分だけが滑らない足場。自分だけが踏み込める氷。
二歩。
三歩。
四歩目で、テルモの姿が消えた。
違う。消えたのではない。凍った地面の上を、信じられない速さで滑っていたのだ。氷の粗さを一瞬ごとに変え、足元だけを加速させる。自らの力で作った氷の道を、テルモは疾風のように駆け抜けていた。
悪魔の懐へ。
右の手が伸びる。
悪魔の左の前腕へ。
阻まれた。
見えない壁。接触の瞬間の一撃は届かない。
だが、テルモの指は止まらなかった。そのまま前腕を掴み、握り込む。
触れた。
その瞬間。
ビキィッ!!
テルモの手と悪魔の前腕を、分厚い氷が一瞬で覆い尽くした。手首から肘まで。いや、テルモの右腕の肩口までが、悪魔の腕ごと一本の氷の柱に閉じ込められていく。
蓮は目を見開いた。
枷だ。
氷の枷だ。
タイタンの握りは関節の技でほどかれた。指を開かされれば、触れた手は離れる。だから――指ごと凍らせたのだ。関節も、筋も、骨も。自分の腕ごと悪魔に縛りつけて、離れようにも離れられない形にした。
窓は閉じない。
テルモが自分の手で、窓を釘づけにしたのだ。
「――燃えろ」
テルモが呟いた。
その声には、今度こそはっきりと熱が宿っていた。
ゴオッ!!
氷の柱の内側で、炎が生まれた。
悪魔の前腕だけが燃えていた。氷はすぐには溶けない。テルモの腕は、自ら纏った氷が熱を阻んでいた。ただ、悪魔の腕の中だけが、骨の芯から紅蓮に染まっていく。皮膚が裂け、黒い血が沸騰し、湯気となって氷の中で渦を巻く。巻かれていた白い布が一瞬で灰になった。
視界の全ての温度を変える力。
だが、何を変えるかはテルモが選ぶ。
悪魔の腕だけを。窓の内側だけを。
蓮の全身に鳥肌が立った。
これだ。
これが答えだったのだ。
窓を開けた者が、自分で窓の内側を焼けばいい。第三者の剣など要らない。貴族が触れ、貴族が自分の力で、触れた場所だけを焼き尽くす。それならば味方を巻き込むことはない。従士を危険に晒すこともない。
「効いてる……!」
ヴァイスが呻いた。
「効いてるぞ、おい、効いてる!!」
城壁の上に、歓声が弾けた。
燃える。燃える。燃える。悪魔の腕が燃えている。貴族の力が、魔殻を越えている。エスクーダで失われたものを取り戻すように、従士たちが拳を振り上げ、叫んでいる。
燃やせ。
燃やせ。
燃やし尽くせ――!!
その歓声の中で。
アスモデウスは、燃える自分の腕を静かに見下ろしていた。
「……良い炎です」
悪魔は微笑んでいた。
痛みがないはずがなかった。骨の芯まで焼かれているのだ。それでも、その声は穏やかで、揺らぎ一つなかった。
「腕一本を差し出して、窓を閉じられないようにした。自らの腕ごと。……素晴らしい覚悟です。本当に」
悪魔の右の掌が、ゆっくりと持ち上がった。
蓮の喉が凍りついた。
「ですが」
窓は両側から開く。
テルモの加護も、今、消えている。
そして、テルモの右腕は氷の枷で悪魔に繋がれている。
逃げられない。
窓を釘づけにしたということは。
自分自身を、窓の内側に釘づけにしたということだ。
「――テルモ様ッ!!」
フィールの叫びが響いた。
「分かっている」
テルモは言った。
目を逸らさなかった。燃える悪魔の腕から、手を離さなかった。
「分かっていて、ここに立っている」
ドン。
悪魔の掌が、テルモの腹に添えられた。
テルモの体が、くの字に折れた。
口から赤いものが噴き出す。膝が落ちかける。だが、氷の枷が倒れることすら許さなかった。悪魔の腕に繋がれたまま、テルモの体は宙吊りのように揺れた。
それでも。
炎は消えなかった。
ゴオオオオオッ!!
むしろ強くなった。
氷の柱の内側で、炎が白く輝き始めた。悪魔の前腕の肉が焼け落ち、黒く炭化した骨が覗き始める。テルモの口から血がこぼれ落ちる。こぼれ落ちながら、その目だけが燃えていた。冷酷な男の目ではなかった。炎そのものの目だった。
「……私は」
血の泡とともに、テルモは言った。
「従士を盾にして生き延びるのは……一度で、十分だ」
エスクーダのことだ。
蓮には分かった。あの夜、悪魔が自爆した瞬間、テルモの前に一人の貴族付き従士が身を投げ出したのだ。テルモは生き残り、その従士は死んだ。書き換えられた記憶の中でも、従士が貴族の盾になったことだけは消えていない。守られた側の男。その男が今、誰にも守られない場所に、自分から立っている。
「燃えろ……燃えろ……燃え尽きろッ!!」
「ええ」
アスモデウスは頷いた。
「確かに、燃えています」
二撃目の掌が、テルモの胸へと上がっていく。
ゆっくりと。
丁寧に。
あの集落の人々に、そうしたように。
――二撃目を受ければ死ぬ。
蓮は理解した。タイタンの巨躯でさえ、一撃で胸の内を砕かれたのだ。細身のテルモが二撃目を受ければ、耐えられるはずがない。
だが、テルモは離れられない。
自分で作った枷が、自分を殺す。
「キネシス様――!!」
蓮は叫んでいた。
叫ぶより先に、キネシスは動いていた。
悪魔の真横に現れる。だが、テルモには触れない。触れられない。触れればキネシスの加護も消え、窓の内側に引きずり込まれる。その一瞬の逡巡が、青年の顔に浮かんだ。
その時。
ガシャアアアン!!
氷の柱が砕けた。
悪魔が砕いたのではなかった。
テルモが自分の手で、枷を解いたのだ。
氷が消えた瞬間、テルモの体が悪魔の腕から離れた。キネシスがその肩を掴む。二人の姿が消えた。
悪魔の二撃目の掌が、何もない宙を静かに撫でた。
北門の内側に、テルモが崩れ落ちた。
サナトスがタイタンの手を離し、今度はテルモの手を握った。
二度目の光。
残りは一度。
「……なぜ、枷を解いた」
キネシスが低く言った。責める声ではなかった。
テルモは、血に濡れた口元を歪めた。笑ったのかもしれなかった。
「死ねば、炎も消える」
テルモは、短く言った。
「あの場で死んでも、悪魔の腕一本焼き切れずに終わるだけだ。……生きていれば、もう一度焼ける」
それに、とテルモは横に立つ青年を見上げた。
「お前は、私に触れようとして、迷った。……迷わせたまま、窓の内側に呼び込むわけにはいかん」
キネシスは、何も言わなかった。
「……燃やし切れなかった」
テルモが、天を仰いだ。
「あと少しだった」
城壁の上から、蓮は荒野を見た。
アスモデウスが立っていた。
左の前腕は、見る影もなかった。肉は焼け落ち、炭化した骨が剥き出しになっている。指は動いていない。黒い血が、ぽたりぽたりと氷の上に落ちて、湯気を立てていた。
確かに傷を負わせた。
エスクーダ以来、初めて悪魔に刻まれた、深い傷。
だが、悪魔は倒れていなかった。
焼けた腕をしげしげと眺め、それから、ゆっくりと顔を上げた。
「二手目。ありがとうございました」
悪魔は、右の拳を焼けた左の掌に合わせようとした。合わなかった。左の手はもう、形を保っていなかった。アスモデウスは少しだけ困ったように首を傾げ、右の拳だけを胸の前に掲げて、深く頭を下げた。
そして、顔を上げた。
その赤い瞳が、北門の内側を見た。
横たわるタイタン。
倒れたテルモ。
テルモの手を握り、光を放ち続ける、白い長衣の老人。
「……おや」
アスモデウスの声が、ほんの少しだけ、変わった。
「そちらの方は、武をお持ちではないのですね」
蓮の心臓が、止まりかけた。
武を持たぬ者は糧。
武を持つ者は客。
北の丘で聞いた、あの決まり。
サナトスは剣を持っていない。拳を握ったこともないだろう。この戦場で唯一、戦うためにここにいるのではない貴族。
客ではない。
「では」
悪魔は、穏やかに微笑んだ。
そして、一歩を踏み出した。
北門へ向かって。
あの、静かな歩みで。




