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 ――礼を返せ。命より安い。


 城壁の上で夕日を浴びながら、蓮は数刻前のキネシスの言葉を思い出していた。


 サナトリアの北門の詰所。その一室に、サナトスを含む貴族たちが顔を揃えたのは、日が傾き始める少し前のことだった。


 長机の上には、キネシスの帳面が開かれている。そこにはエスクーダの夜の出来事が、几帳面な小さな字で書き留められていた。


「悪魔の魔殻は、貴族が触れている間だけ消える」


 キネシスは、前置きもなくそう言った。


「エスクーダで、タイタン殿の拳が悪魔の腕と噛み合っていた間、テルモ殿の絶炎は効いた。離れた後は効かなかった。イライザの剣が通ったのも、その間だ」


 テルモの眉がわずかに動いた。


「イライザだと? 貴族付き従士の剣が、悪魔に通ったというのか」


「そうだ」


「馬鹿な。悪魔には我ら貴族の力しか通らん。あの夜も我ら三人で討ったのだ。従士の剣など――」


 テルモはそこで言葉を止めた。何かを探すように、視線が宙をさまよう。


「……討った。はずだ」


 蓮は部屋の隅で奥歯を噛みしめた。


 書き換えられている。この男の記憶も。


 白い衣の女の姿が、脳裏をよぎった。従士だけではなかったのだ。あの女は、貴族の頭の中にまで手を伸ばしていた。


 タイタンが丸太のような腕を組んだ。


「……触れている間、か」


 巨漢は低く唸った。


「オレら貴族同士は、触れてなきゃ回復の魔石ひとつ効かねえ。肩を掴んで、手を握って、そこで初めて互いの加護が消える。……そいつと同じ理屈だってのか」


「そうだ」


 キネシスは頷いた。


「悪魔の魔殻は、我ら貴族の加護と、同じものだ」


「待て」


 テルモが、鋭く言った。


「触れ合って加護が解けるのは、王より力を分け与えられた貴族同士だからだ。同じ王の力が、触れ合うことで通じ合う。……我らはそう教わってきた。魔殻は、悪魔の魔の力。まるで別物のはずだ」


「私もそう教わった」


 キネシスは、静かに言った。


「だが、エスクーダで、タイタン殿の拳が悪魔に触れている間だけ、絶炎は効いた。……別物ならば、そんなことは起こらない」


 テルモは、しばらく何も言わなかった。その指が、こめかみを押さえていた。タイタンも黙って、太い指で頭を掻いていた。何かを考えようとして、うまく掴めずにいるような顔だった。


「……悪魔の話は、昔からどうも苦手でな」


 巨漢は、それだけ言って肩をすくめた。


 蓮の背筋が、冷たくなった。


 こめかみを押さえる指。


 あの朝、霧の中で、フィールも同じ仕草をしていた。


 ――まさか。


 蓮は、その考えを口には出さなかった。この部屋で、それを言えるはずがなかった。


 キネシスの羽根ペンが、ほんの一瞬だけ、帳面の端で何かを書き留めた。


 テルモはこめかみから指を離し、小さく息を呑んだ。


「……考えたこともなかった。遠い昔、悪魔と戦って命を落とした貴族がいたとは聞いている。家ごと血筋が入れ替わったとな。……だが、どう戦い、なぜ死んだのか。その記録は、どこにも残っていない」


 蓮は部屋の隅で、言葉を交わす三人の貴族を見つめていた。


 貴族にとっては当たり前の理屈なのだ。触れ合わなければ癒やしの光すら届かない。スキルを授かったその日から、誰もが体で知っていることだ。


 だが同時に、それは王の力を分け合った者同士だけの理屈だと、誰もが教え込まれてきた。魔殻は別物だと。だから千四百年の平穏の中で、誰一人としてその理屈を悪魔に当てはめようとはしなかった。当てはめる機会すらなかったのだ。


 蓮は、ふと思った。


 その教えは、いったい誰が、いつ、言い始めたのだろう。


「そういや妙なんだよな」


 タイタンが、太い指で顎をさすった。


「三人で討った。オレはそう覚えてる。……だが、拳が悪魔に触れた時の感触だけは、はっきり残ってやがる。岩みてえに硬かったのが、ある瞬間、急に柔らかくなった。サナトスの爺さんに治してもらう時と、まるで同じ感触だった」


「北の丘で、この者が悪魔の手首を掴み、隊長に斬らせた」


 キネシスが、蓮を顎で示した。


「剣は弾かれた。蓮は貴族ではない。加護を持たぬ者が触れても、何も起きないのだ。……そして去り際に、悪魔自身がこう言った。貴族の方々に、ぜひ、私に触れにいらしてください、と。殻越しの手合わせほど、つまらぬものはない、と」


 部屋が静まり返った。


「奴は、知っているのだ。この仕組みを」


 キネシスは、帳面の頁を一枚めくった。


「作戦は単純だ。タイタン殿が悪魔に触れ、力で離さない。その間に魔殻が消える。そこを特務班が剣で突く」


 キネシスは、帳面とは別の、古びた一枚の写しに指を置いた。


「先代の家の記録にある。触れた所から消え、全身に至るまで数呼吸を要す、と。……触れてすぐに斬っても、そこはまだ閉じている。三つ数えてから、斬れ」


「なぜ従士なのだ。私の絶炎で焼けば――」


 テルモはそこで、自ら言葉を切った。


「……いや。触れている間は、タイタン殿の加護も消えるのか」


「そうだ。エスクーダの一度目、タイタン殿の腕は焼けていた。炎が選んで焼かずとも、熱は加護の消えた所を焼く。剣ならば狙える。炎は最後の手段だ」


 キネシスは静かに言った。


「貴族の力は大きすぎるのだ。この小さな窓には」


「窓?」


「魔殻に、一瞬だけ開く窓。そう呼ぶことにした」


 しばらく、誰も口を開かなかった。やがて、タイタンが喉の奥で笑った。


「面白え。要はオレが掴んで離さなきゃいいんだろ。オレの握力から抜けられるもんなら、抜けてみろってんだ」


「それともう一つ」


 キネシスは、帳面を閉じた。


「奴が名乗って礼をしたら、礼を返せ」


「悪魔に頭を下げろと言うのか」


「北の丘で、蓮が礼を返したから、残る者は客として生きて帰れた。礼を返さぬ者は、奴にとって糧と同じだ。……先代なら、無駄を省けと言っただろう。礼を返すのは一瞬だ。命より安い」


 テルモは何も言わなかった。


 部屋の奥で黙って話を聞いていたサナトスが、口を開いた。


「私の力は、今日はあと三度しか使えません。……使いどころは皆様にお任せします」


 あと三度。


 この街の数千人を前にして。この戦いを前にして。


 蓮は、その数字を胸の奥に刻みつけた。





 そして今。


 北門の前で、アスモデウスが頭を下げている。


 白い布を巻いた両の拳を胸の前で合わせ、背筋を伸ばしたまま深く深く。夕日が、その黒い翼の縁を赤く縁取っていた。


 城壁の上の誰もが息を殺していた。


 北門がゆっくりと開いた。


 そこから一人の巨漢が歩み出た。


 タイタン。


 巨躯の貴族は、悪魔の十歩手前で足を止めた。そして拳を握り、それを胸の前でもう片方の掌に打ちつけた。


 パンッ。


 乾いた音が荒野に響いた。


 タイタンは腰を折った。深くはない。だが、確かに頭を下げていた。


「『力』の貴族タイタン。……手合わせ願おう」


 悪魔がゆっくりと顔を上げた。


 その赤い瞳が細められた。笑っていた。心の底から嬉しそうに。


「ああ……礼を返していただけるとは。嬉しいものですね。私はアスモデウスと申します」


 悪魔は右足を半歩引いた。左の掌を前へ差し出し、右の拳を腰に添える。


 構えだった。


 獣の構えではない。長い長い年月を経て磨き抜かれた、人の形をした武の構えだった。


「それでは」


 その声は穏やかだった。


「参ります」


 先に動いたのはタイタンだった。


 踏み込み。


 ただそれだけで大地が割れた。桁外れの脚力が乾いた地面を砕き、砂と石が爆ぜるように舞い上がる。城壁の上にまで地響きが届いた。巨体が一本の砲弾となって悪魔へ迫る。


 速い。


 蓮の目には、ほとんど見えなかった。


 拳が放たれた。


 山を穿つ拳。城門を粉砕する拳。エスクーダで悪魔の腕を半壊させたあの拳。


 それが悪魔の差し出した左の掌に。


 止まった。


 音がなかった。


 拳は掌の手前、指一本分の空間で、見えない壁に阻まれていた。衝撃だけが行き場を失い、悪魔の背後の地面を扇状に抉り取っていく。大気が悲鳴を上げた。


 接触の瞬間の一撃は阻まれる。キネシスの帳面に書かれていた通りだった。


 だが。


 悪魔の指が、タイタンの拳を包み込むようにゆっくりと閉じた。


 触れた。


 今、確かに触れている。


「――掴んだぞ!!」


 タイタンが吠えた。


 空いた左手で、悪魔の右の手首を鷲掴みにする。岩のような指が悪魔の腕に食い込んだ。桁外れの握力。どれほどの力だろうと、そこから抜け出せる生き物などいるはずがない。


「ああ――」


 悪魔の口から、吐息のような声が漏れた。


「ようやく、触れていただけました」


 一呼吸。


 城壁の上で、キネシスの右手が掲げられる。


 二呼吸。


 三呼吸。


「――今!!」


 次の瞬間、蓮の視界が大きく歪んだ。


 足元の石畳が消え、代わりに乾いた土の感触がある。目の前に黒い翼があった。悪魔の背後。ほんの三歩の距離。フィールがいる。ヴァイスがいる。ロイがいる。キネシスの「移動」が、特務班の四人を一瞬で窓の前へと運んでいた。キネシス自身は、運び終えるや城壁の上へ跳び戻っていた。


 その頭上を、風切り音が走った。


 ヒュッ。


 城壁の上からミラが放った一本の矢が、夕焼けの空を一直線に裂いていく。


 狙いは翼の付け根。


 通れ、と蓮は祈った。


 ドスッ。


 鈍い音がした。


 矢が。


 刺さっていた。


 黒い翼の付け根に、ミラの矢が深々と突き立っている。その周りから、黒い血がじわりと滲み出した。


「通った――!!」


 誰かが叫んだ。自分だったかもしれない。


 城壁の上から、どよめきが波のように広がっていく。エスクーダで貴族の剣さえ弾いた魔殻に、従士の放った矢が刺さったのだ。窓は開いている。本当に開いている。


「行けえええッ!!」


 フィールの声が、背中を押した。


 四本の剣が同時に走った。


 右からヴァイス。左からロイ。正面から蓮とフィール。


 狙いは脇腹。胴。背。翼。どこでもいい。届けばいい。この一瞬に全てを叩き込め。全員が同じことを考えていた。考えるより先に体が動いていた。


 届く。


 届く。


 届く――!!


 その時。


 悪魔が、小さく息を吐いた。


「良い。とても良い」


 穏やかな声だった。


 次の瞬間、世界が回った。


 何が起きたのか分からなかった。悪魔の体が、掴まれた右手首を軸にほんのわずかに沈み込んだ。それだけだった。それだけで、タイタンの巨体がまるで蝶番で吊られた扉のようにぐるりと回った。


 桁外れの力で掴んでいる。だからこそ、タイタンは離さない。離さないからこそ、悪魔の体の動きに引きずられる。自分の握力が自分を振り回す。


 そして。


 回った巨体の背中が、ロイの剣の真正面に躍り出た。


「――ッ!?」


 止まれない。


 全力で突き出した剣は、もう止まらない。


 ザクッ。


 ロイの剣が、タイタンの肩口に深く食い込んだ。


 弾かれなかった。


 貴族の体に、従士の剣が。


 通った。


「あ……」


 ロイの手から、剣の柄が離れた。その顔から、みるみる血の気が引いていく。


 触れている間は、タイタン殿の加護も消える。


 テルモ自身が口にした言葉が、蓮の頭の中で鳴り響いた。貴族なら誰もが体で知っている理屈だった。全員が分かっていたはずだった。それなのに、誰一人として悪魔がそれを使ってくるとは考えていなかった。


 窓は。


 悪魔の側だけに開いているのではない。


「扉というものは」


 アスモデウスは静かに言った。


「両側から開くのですよ」


 悪魔の左の掌が、そっとタイタンの胸に添えられた。


 蓮は知っていた。


 その構えを。その添え方を。


 北の丘で。あの夜。


 トーレとネロの胸に。自分の胸に。


「やめ――」


 ドン。


 音は小さかった。


 だが、タイタンの巨体が内側から震えた。


 胴着の上からでは、何も起きていないように見えた。傷もない。血も出ていない。だが、蓮にははっきりと聞こえた。巨漢の胸の奥で、何かが砕ける音が。


 タイタンの口から、ごぼりと赤いものが溢れ出た。


 血だった。


 貴族の血だった。


 城壁の上のどよめきが、一瞬で凍りついた。


 ムーヴの死は、悪魔との相打ちの、名誉の戦死。悪魔には貴族の力しか通らず、悪魔の手で貴族が血を流すことなどない。あの集会の後、誰もがそう信じていた。


 その貴族が血を吐いている。


「タイタン殿――!!」


 テルモの叫びが北門から響いた。


 だが。


 タイタンは倒れなかった。


 膝が折れかけた。視線が一瞬、宙をさまよった。それでも、悪魔の手首を掴んだ左手だけは決して緩まなかった。


「離すかよ……」


 血の泡と一緒に、低い声が漏れた。


「離すかよ、クソがあああああッ!!」


 巨漢の腕の筋肉が膨れ上がった。握力がさらに増していく。悪魔の手首が軋む音が聞こえた。


「――斬れ!! 今斬れ!! オレごと斬ってもいい!! 今しかねえんだぞッ!!」


 その咆哮に弾かれるように、ヴァイスが飛び込んだ。


 タイタンの体の陰から回り込み、悪魔の脇腹へ。


「素晴らしい」


 悪魔の声は、心から感嘆していた。


 その右手首が、くるりと回った。


 たったそれだけだった。捻ったとも言えないほどの小さな動き。だがタイタンの指の関節が、あり得ない角度に押し広げられた。桁外れの力が、一瞬で行き場を失う。握りがほどける。


 触れていた手が。


 離れた。


 ガキン。


 ヴァイスの剣が、悪魔の脇腹の手前で見えない壁に弾き返された。


 窓が閉じた。


 悪魔は、ふわりと後ろへ跳んだ。そのまま十歩の距離を取り、翼の付け根に刺さったミラの矢を指で摘まんで、無造作に引き抜いた。黒い血が一筋、夕焼けの空に散る。


 アスモデウスは、抜いた矢をしげしげと眺めていた。


「射た方。お見事でした」


 城壁の上へ顔を向け、悪魔は軽く頭を下げた。その先で、弓を構えたままのミラがぴくりとも動けずに立ち尽くしていた。


 タイタンがついに膝をついた。


 その肩口からは、ロイの剣がまだ突き出していた。口元を押さえた指の隙間から、赤い血が止めどなく滴り落ちていく。ロイがその傍らで、震える両手を宙に浮かせたまま、何もできずにいた。


「俺が……俺が、貴族様を……」


「黙ってろ小僧」


 タイタンが、血を吐きながら笑った。


「お前は良くやった。気にすんな……」


 蓮は剣を握ったまま、その場から動けなかった。


 頭の中で、何かが猛烈な勢いで回転していた。整理しろ。整理しろ。整理しろ。


 窓は開く。確かに開く。ミラの矢は通った。仕組みは正しかった。キネシスの帳面は正しかった。


 だが窓を開けるには、貴族が触れなければならない。


 触れている間は、貴族の加護も消える。


 そして相手は、その触れ合いの中での戦いを生き抜いてきた者なのだ。


 窓を開けた瞬間から、窓の内側は悪魔の間合いになる。


 ――この戦法は。


 貴族の命を、窓の鍵として差し出すことなのではないか。


「一手目」


 アスモデウスが、胸の前で拳を合わせた。


「ありがとうございました」


 悪魔は深く頭を下げた。


 そして、ゆっくりと顔を上げた。その赤い瞳が、北門の前と城壁の上に立つ二人の貴族を、順に見つめた。


 テルモ。


 キネシス。


 そして最後に、なぜかほんの一瞬だけ、蓮の上で止まった。


「さて」


 悪魔は、穏やかに微笑んだ。


「次はどなたが、私と触れ合ってくださいますか」


 夕日が沈みかけていた。


 荒野の影が長く長く伸び、白い都の城壁へと、静かに這い寄っていった。


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