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治癒の都

 最初に感じたのは、薬草の匂いだった。


 乾いた草を煎じたような、苦く、それでいてどこか懐かしい香り。その匂いに導かれるようにして、蓮はゆっくりと瞼を持ち上げた。見慣れない石造りの天井。外壁警備隊の詰所の一室だった。窓の外は、すっかり明るい。


 息を吸ってみた。


 胸が痛まない。


 蓮は恐る恐る、右の手を胸元へ運んだ。あの夜、悪魔の掌が添えられた場所。骨の砕ける音を確かに聞いたはずの場所。指先が触れたのは、いつも通りの温かい胸板だった。折れているはずの肋骨は、一本残らず元の形を取り戻している。


「……起きたのね」


 枕元から、掠れた声がした。フィールだった。椅子に腰掛けたまま、寝台の縁に突っ伏すようにして眠っていたらしい。膝の上で握りしめられた拳が、白くなっている。


「フィール。……俺はどれくらい」


「一晩よ。もう昼近いけれど。……一晩で済んだの。本当はもっとかかるはずだったのに」


 フィールは顔を上げた。その目の下には、蓮と同じ濃い隈が浮かんでいた。


「外壁警備隊の方が、サナトス様から預かっていた上級の『回復』の魔石を持っていてくださったの。残っていた分を、あなたとヴァイスとロイで分けて使わせてもらった。……一番ひどかったのはあなたよ。大半はあなたに使ったわ。胸の骨が、ほとんど砕けていたの。集落で見た人たちと、同じ場所を、同じように」


 彼女はそこで言葉を切った。


「でも、心臓は無事だった。お医者様も首を捻っていたわ。本来なら心臓まで届いているはずの傷だって。まるで、途中で何かに止められたみたいに」


 蓮は黙って、自分の胸に触れ続けた。


 ――あなたには、鍵がかかっている。


 あの穏やかな声が、耳の奥で蘇る。


「ヴァイスは?」


「肋骨を三本。魔石の残りじゃ繋ぎきれなくて、まだ布で固めてる。それでも、もう歩いてるわ。ロイは脚の骨にひびが入っていたけど、そっちは塞がった。ミラは……」


 フィールは、言葉を探すように視線を落とした。


「怪我はないの。でも、ずっと黙っているわ。何も話さないの」


 十、引く、二は、八。


 蓮は、あの夜のミラの震える唇を思い出した。数えなければ、なかったことになってしまう。そう言って紙に数字を書き続けた少女の、あの小さな背中を。






 詰所の一室の扉を叩くと、キネシスは粗末な机に向かったまま、顔も上げずに入れと言った。伝書鳥の報せを受けて、つい先ほどゲートの門でここへ駆けつけたのだという。


 机の上には、分厚い革張りの帳面が開かれていた。青年の右手に握られた羽根ペンが、紙の上をゆっくりと動いている。


「座ってくれ。……少し待て」


 蓮は椅子に腰を下ろし、その手元を何気なく見つめた。そして、息を呑んだ。


 トーレ。ネロ。


 二つの名前が、几帳面な小さな字で記されていた。その隣に、日付と場所と、短い文章が続いている。


 対悪魔特務班斥候。北の外壁沿い、悪魔アスモデウスとの遭遇にて殉職。悪魔に一太刀を浴びせんとし、いずれも掌打にて胸を砕かれる。


 あまりにも正確だった。盾となった、などという言葉はどこにもない。何が起きて、誰がどのように死んだのかが、飾り気なく書き留められている。


「……公式の記録には残らない」


 キネシスはペンを置いて、静かに言った。


「盾となった名誉の戦死。そう書き換えられて終わりだ。だから、これはここにだけ残す」


 青年の視線が、初めて蓮へ向けられた。


「人の記憶は書き換えられる。だが、紙はそうはいかない」


 蓮の心臓が、一度だけ大きく跳ねた。


 この青年は知っているのだ。あの集会で何が行われたのか。何のために、人の記憶が書き換えられたのか。それを知った上で、こうして真実を紙に刻み続けている。


 蓮はゆっくりと息を吐いた。感情を顔に出さないように。何を言われたのか分からない、という顔を作るために。


「……はい」


 それだけを答えた。キネシスはそれ以上、何も言わなかった。ただ、その目がほんの一瞬だけ、蓮の顔の上に留まった。


「では、聞かせてもらおう。あの夜の全てを」


 蓮とフィールは報告した。


 悪魔の名。武を持たぬ者は糧、武を持つ者は客という、あの歪んだ決まり。礼を返した者は客として扱われ、支度が整うまで待ってもらえること。見事な一手には加減を、未熟な一手には命を返すこと。狩りの間は歩き、その気になれば翼を広げて空を駆けること。矢を指で摘まみ、投げ返す技。胸に掌を添え、内側から砕くあの一撃。そして、別れ際の言葉。


 ――サナトリアで、お待ちしております。


 キネシスの羽根ペンは、紙の上を休みなく走り続けていた。だが、報告が蓮の胸を砕かれた場面に至った時、その動きがぴたりと止まった。


「……悪魔は、お前に何と言った」


「私にも聞こえていました」


 フィールが答えた。


「あなたには、鍵がかかっていると」


 沈黙が、部屋を満たした。


 キネシスはペンをゆっくりと置き、指先で机の縁を一度だけ叩いた。考え事をする時の癖なのかもしれない。ムーヴにもあった癖だろうか、と蓮は思った。


「鍵か」


 青年は、その一語を噛みしめるように呟いた。


「私にも心当たりはない。……だが、覚えておく」


 それが答えの全てだった。詮索しない、とこの青年は言ったのだ。その約束がいつまで守られるのかを、蓮はまだ知らなかった。


 喉元まで、言葉が出かかっていた。触れている間だけ。あの夜、街道で辿り着いた考えを。


 だが、それを口にするには、エスクーダの戦場で何を見たのかを話さなければならない。イライザの剣が通ったこと。タイタンが組み合っていたこと。それは、洗脳で消されたはずの記憶だった。覚えていると明かせば、自分だけ洗脳が効いていないことを明かすことになる。


 蓮は、言葉を飲み込んだ。


「本題に入る。悪魔がサナトリアを目指しているのは間違いない。着く時期は、悪魔の気分次第と見るべきだ。今夜かもしれないし、三日後かもしれない」


 キネシスは立ち上がり、窓辺へ歩いた。差し込む昼の白い光が、その横顔を青白く照らしている。


「貴族会議を招集した。今日のうちにサナトリアへ入り、悪魔がいつ来ても迎え撃てるよう待ち構える。……お前たち特務班にも同行してもらう。目としてだ」


 その手には、フィールから受け取った魔石が握られていた。空になっていたはずの石は、キネシスの力で再び淡い光を取り戻している。


「使えるのは、一度きりだ」


 十人を一度運ぶだけの力。キネシスは自分の一日の跳躍を削って、それを込め直したのだ。






 詰所の中庭に、漆黒の門が音もなく開いた。


 最初に姿を現したのは、ゲートだった。飄々とした笑みを、いつも通り口元に貼りつけている。その後ろから、巨躯のタイタンと、鋭い目つきのテルモが続いた。


「よう、若いの。先代に続いて、お前も苦労続きだな」


 タイタンが、キネシスの肩を無遠慮に叩いた。


「接触戦の鬼か。相手にとって不足はない」


 テルモが、感情の読めない声で言った。


「ただし、先代と同じ轍は踏まん」


「王には、天使か、他の貴族の助けを願い出た」


 キネシスが、ゲートを見た。


「返事は、先の王命の通りだよ」


 ゲートは、軽く肩を竦めた。


「『移動』『炎氷』『力』、三名で対処せよ。君は先代の座を継いだのだから、その三名の一人というわけだ。……私は、門を提供するだけさ」


 それから、ふと思いついたように指を立てた。


「そうだ、キネシス。君の第一部隊も運んでやろうか。ギードの隊だ。今日は君たちを運ぶ分で手一杯だが、明日の朝なら。……当主の周りに、盾は多い方がいい。先代の時のようにね」


「要らない」


 キネシスは即座に言った。


「おや」


「エスクーダでは、九十を超える従士を消費して、討てた悪魔は一体だった。同じやり方はしない。……第一部隊は国に残す。私が留守の間、『移動』の民を守る者が要る」


「先代より頑固だね、君は」


 ゲートの笑みは、少しも崩れなかった。ただ、ほんの一瞬だけ、何かを数え直すように目を伏せた。


「戦いは、専門家にお任せしよう。……おや」


 その視線が、ふと蓮の上で止まった。


「君が噂の新人くんか。悪魔に胸を砕かれて、生きて戻ったとか。運が良いね」


 笑みは変わらなかった。だが、その目だけが笑っていなかった。蓮はその視線を正面から受け止めることはせず、平凡な従士のように深く頭を下げた。


「では、行こうか。サナトリアへ」


 ゲートが右手を宙へ掲げると、新たな門が静かに口を開いた。


 門の先に広がっていたのは、白い都だった。


 サナトリア。白い石で築かれた建物が、丘の斜面を幾重にも埋め尽くしている。窓という窓から、薬草の香りが風に乗って流れてくる。通りの両脇には簡素な寝台がずらりと並べられ、その上に痩せ細った人々が静かに横たわっていた。老人も、子どもも、包帯に巻かれた兵士も。病に伏した者、癒えぬ傷を抱えた者。この国のあらゆる苦しみが、この一つの街に集められているかのようだった。


 蓮は息を呑んだ。


 これが、生き物の最も密集する街。悪魔が必ず目指す場所。


 この街の人々は動かせない。歩くことすらできない者が、あまりにも多すぎる。逃げるという選択肢が、最初から奪われているのだ。


「ようこそいらっしゃいました」


 穏やかな、それでいて芯のある声が、蓮たちを迎えた。


 白い長衣を纏った痩身の老人が、通りの向こうからゆっくりと歩み寄ってくる。皺の刻まれた顔には、深い疲労と、それを上回る静かな慈愛が宿っていた。「回復」の貴族、サナトスだった。


「使者の報せは届きました。……皆様のご来訪に、心から感謝いたします」


 その隣に、一人の少女が寄り添っていた。年の頃は、蓮よりいくつか下だろうか。簡素な白い前掛けを着け、袖には血と薬の染みがいくつも滲んでいる。継承候補のレミエル。噂通り、貴族の娘とは思えないほど飾り気のない少女だった。


「あの……お怪我をなさっているのでは」


 レミエルは蓮の顔を見るなり、心配そうに眉を寄せた。


「もう癒えました。サナトス様の魔石のおかげです」


「よかった……」


 少女は心底安堵したように、胸を撫で下ろした。それを見て、蓮の胸の奥がふと温かくなった。この少女は、従士の傷にさえ心を痛める。それを甘いと嗤う貴族社会が、蓮には少しだけ悲しく思えた。


「サナトス殿」


 キネシスが一歩進み出た。


「街の避難は」


「不可能です」


 老人は静かに、はっきりと答えた。


「動かせる者は、すでに外へ出しました。ですが、寝たきりの者、重い病を負った者が、この街に数千人。……この力で癒やせる数には、一日に限りがあるのです。私にできるのは、傷ついた者を癒やし続けることだけです。剣を持てずとも、この身を盾にはなれるでしょう」


「サナトス様!」


 レミエルが悲痛な声を上げた。老人は、その手を優しく握り返した。


「案ずるな、レミエル。私は死ぬつもりはない。……ただ、この街の民を見捨てることもできぬのだ」


「ゲート様の門なら……!」


 レミエルが、すがるように振り返った。


 ゲートは困ったように眉を下げた。


「門は、日に何度も開けるものではないんだ。今日はもう、あと一度がいいところでね。開いていられるのも数十呼吸。数千の寝台を運ぶには、十日はかかる」


「それに」


 キネシスが、静かに言葉を継いだ。


「悪魔は生き物の多い方へ動く。どこへ移しても、その街が次のサナトリアになるだけだ」


 レミエルは唇を噛んで黙り込んだ。


 蓮は、ゲートの横顔を盗み見た。困ったような表情の下で、口元の笑みだけが少しも崩れていなかった。


 サナトスの言葉に、蓮は「盾となれ」という声を思い出さずにいられなかった。だが、この老人の言う盾は、あの日ギードが叫んだものとはどこか違う気がした。その違いを、蓮はうまく言葉にできなかった。






 街の北門に、貴族たちは陣を敷いた。


 日が傾き始めていた。西の空が橙色に染まり、街の白い壁がその色を淡く映している。蓮はフィールたちと共に城壁の上から、眼下の荒野を見下ろしていた。


 風が止んでいた。


 鳥の声も、虫の音も聞こえない。この一帯の生き物が、すでに気配を消している。街の外では、あの声のない世界が静かに迫っていた。


 その地平線の彼方に。


 黒い点が、一つ現れた。


 蓮の全身の毛が逆立った。点はみるみるうちに大きくなる。歩いてはいない。空を飛んでいる。黒い翼が、夕焼けの空をゆっくりと切り裂いていく。


「――来たぞ」


 タイタンの低い声が響いた。


 悪魔は城壁のはるか手前で、ふわりと地に降り立った。そして、ゆっくりとこちらへ歩き出した。あの、静かな歩みで。


 北門の前、百歩ほどの所で、悪魔は足を止めた。


 白い布を巻いた拳を胸の前で合わせ、深く頭を下げる。


「お約束通り、参上いたしました」


 アスモデウスの声は、この距離でもはっきりと蓮の耳に届いた。


「貴族の方々。どうぞ、お手合わせを」


 夕日が悪魔の背で、赤く燃えていた。


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