礼には、礼を
「――撤退する」
フィールの声は低く、そして揺るぎなかった。丘を駆け下りてきた蓮とネロの報告を最後まで聞くことなく、彼女は即座にそう決めた。
「見た。数えた。報せた。あとは生きて帰る。野営はしない。馬を出して。今すぐ南へ」
「逃げ切れるのか」
ヴァイスが低く問うた。
フィールは一瞬だけ黙った。
「……分からない。向こうがその気なら、どこへ逃げても同じよ。国境の夜を覚えてるでしょう。あいつらはその気になれば一瞬で来る」
誰も、何も言わなかった。
「でも、あいつは歩いてた。歩くと決めてるなら、馬の方が速い。……その方に賭ける」
十人は馬に跨り、日没の荒野を駆け出した。
夕日が地平線の向こうに沈みきった。空は藍に染まり、やがて細い月が頼りなげに昇り始める。蹄の音だけが、乾いた大地に規則正しく響いていた。ドッ、ドッ、ドッ、ドッ――。
逃げ切れる。
逃げ切れる。逃げ切れる。逃げ切れる――。
信じているわけではなかった。祈っていた。蓮はその言葉を、呪文のように頭の中で繰り返していた。そうしなければ、耳の奥で別の声が囁き始めるからだ。
――あの礼は、いつ返すつもりですか。
最初に異変に気づいたのは、ミラだった。
「……馬が」
彼女の馬が足を止めた。いや、彼女だけではない。十頭の馬が、示し合わせたようにその場に立ち止まっていた。前脚が震え、鼻息が荒い。どれほど手綱を引いても、一歩も前へ進もうとしない。
蓮は前方の闇へ目を凝らした。
月明かりが、街道の先を青白く照らしていた。その街道の、ちょうど真ん中に。
一つの影が、立っていた。
「――夜分に失礼いたします」
穏やかな、それでいて耳の底に染み入るような、深い声だった。
「お急ぎのところを。どうかご容赦を」
人の背丈より頭一つ半も高い長身。黒く染まった肌。剥き出しの上半身に走る、幾筋もの古傷。両の拳に白い布を固く巻き、その悪魔は街道の真ん中に、背筋を伸ばして佇んでいた。
悪魔の背で、ばさり、と蝙蝠のような黒い翼が広がった。夜の空気をひと撫でして、また畳まれる。
――賭けに、負けた。
それだけが、分かった。
「申し遅れました。私はアスモデウス。悪魔の末席にて、拳を修めております」
アスモデウスは、右の拳を左の掌に打ち合わせ、両手を体の前で合わせて、深く頭を下げた。夕暮れの丘で見せたのと、同じ礼だった。
顔を上げた赤い瞳が、蓮を、まっすぐに捉えた。
「先ほど、丘の上で。あなたは、礼をお返しくださらなかった」
蓮の喉が、ひくりと動いた。
「それで、確かめに参りました。……あなた方が、糧なのか。それとも、客なのか」
「……どういう、意味」
フィールが、低く問い返した。
アスモデウスは、客に作法を説く主のように静かに語り始めた。
「私には、決まりがございます」
一本、指が立つ。
「武を持たぬ方は、糧。苦しまぬよう、一息にいただきます。いただいた後は、きちんと並べて差し上げる。それが、糧への礼儀です」
あの集落の、並べられた人々。胸の、掌の形の痣。
二本目の指が立つ。
「武を持つ方は、客。客には、一手ずつ、一手でお返しいたします。見事な一手には、加減した一手を。未熟な一手には――命を」
三本目。
「そして、礼。私の礼に礼を返された方を、私は客と認めます。客の支度が整うまでは、いくらでもお待ちしましょう。逃げる客は、丁重にお送りいたします」
悪魔は、三本の指を、ゆっくりと折りたたんだ。
「礼を返さぬ方は。……糧と、区別がつきませんのでね」
静かな声だった。
だからこそ、蓮には、その意味がはっきりと分かった。
礼を返さなければ、糧として、ここで全員が死ぬ。
礼を返せば、客として、一手ずつ試される。見事なら生かされ、未熟なら死ぬ。
どちらに転んでも、死は消えない。
だが、礼を返した者にだけは。
生き残る道が、ある。
蓮は、馬を降りた。
「蓮!?」
フィールの声を背に、蓮は街道の真ん中へ、一歩、二歩と進み出た。
あの丘の上で見た礼を、思い出す。
右の拳を、左の掌に。両手を体の前で合わせ。
深く、頭を下げた。
長い沈黙があった。
「――ようこそ、お客様」
顔を上げると、アスモデウスが、ほんのわずかに目を細めていた。笑ったのだと、遅れて分かった。
「お連れの皆様も、客としてお迎えいたします。では、お約束どおり、一手ずつ。人の武というものを、拝見させてくださいませ。ご披露いただければ、お通しいたしましょう」
フィールの手が、腰の剣の柄へ、わずかに動いた。
その瞬間だった。
「――おおおおおおッ!!」
咆哮が、夜を裂いた。
ヴァイスだった。
悪魔との距離は、およそ十歩。ヴァイスが剣を抜き放ち、その距離を一瞬で詰める。狙いは首。人の膂力の限りを尽くした、渾身の横薙ぎ。
ガキンッ!!
剣が、首筋のほんの一寸手前で、見えない壁に阻まれて弾かれた。
血は出ない。皮膚は裂けない。
魔殻。
悪魔が生まれながらに纏う、見えない殻。剣も、矢も、炎も、悪魔の体に届く手前で、その意味を失う。
「……ほう」
アスモデウスの声には、一片の動揺もなかった。
「いい踏み込みです。迷いがない。……見事な一手には」
ドン、と。
小さな音がした。
悪魔の右の掌が、ヴァイスの胸の真ん中に添えられていた。いつ動いたのか、蓮の目には、まるで見えなかった。
「加減した一手を」
ヴァイスの体が、宙を舞った。
「がッ――!?」
十歩の距離を一直線に吹き飛び、背中から街道に叩きつけられる。ごろごろと転がって止まった。口から赤いものが溢れる。
だが――生きている。
あの集落の人々は、同じ一撃で、胸を砕かれていた。
――言った通りだ。
見事な一手には、加減した一手。
この悪魔は、決まりの通りに、動いている。
「――ヴァイス!!」
ロイが叫んだ。同時に、風を裂く音が立て続けに悪魔へと殺到する。
ミラの矢だった。一、二、三――。頭、喉、心臓。寸分の狂いもない速射。
全て、悪魔の体の手前で、弾かれた。
「素晴らしい。実に正確な射です」
アスモデウスが、ふと右手を上げた。
その指の間に、一本の矢が挟まれていた。
「見事な一手には、加減した一手を。……お返しいたします」
ヒュッ。
投げ返された矢が、ミラの頬を掠めた。
ブツン、と。
何かが切れる音がした。ミラが構えていた弓の弦が、真ん中から断ち切られていた。
ミラの頬に、細い赤い線が一本、浮かんでいた。それだけだった。
「ミラ!!」
叫んだのは、ミラの隣で後ろを固めていたトーレだった。
トーレが剣を抜き、ミラの前へ飛び出した。そのまま、悪魔へ。
「やめろトーレ!! あれは――」
蓮の叫びは、届かなかった。
焦りに任せた、大振りの一太刀だった。
ドン。
トーレの胸に、掌が添えられていた。
「――未熟な一手には」
トーレは、何が起きたのか分からないという顔のまま、膝から崩れ落ちた。倒れる前に、息が止まっていた。胸元に、あの黒い痣が、静かに浮かび上がっていく。
「命を」
「トーレ……!! うああああああっ!!」
もう一つの影が、悪魔へ突っ込んでいた。ネロだった。剣を振りかぶり、我を忘れて、悪魔の懐へ。
「行くなネロ!!」
ドン。
ネロも、同じだった。
「……未熟。未熟。あまりにも未熟」
アスモデウスは、静かに首を振った。
「皆様……剣を振るうのなら、せめて、触れ方を学んでいらっしゃい」
触れ方。
その言葉が、蓮の頭に、雷のように落ちた。
触れる。
触れ合う。
――あの時。
エスクーダの戦場が、蓮の脳裏に鮮明に蘇った。
一度目の絶炎。あの時、タイタンは悪魔の腕を掴んで、組み合っていた。触れていた。炎は効いた。二度目。タイタンはもう離れていた。触れていなかった。炎は効かなかった。
ムーヴの剣が弾かれ、その直後にイライザの剣が通った。その時、タイタンは悪魔と組み合っていた。触れていた。
触れている間だけ。
蓮の思考が、猛烈な速さで回り始めた。整理しろ。整理しろ。整理しろ。会社員の頃、何度もトラブルの原因を切り分けてきたように。
貴族と悪魔が触れ合う。その間だけ、悪魔の魔殻が消える。だから、その間だけ、他の者の攻撃が通る。そういう仕組みなのではないか。
イライザの剣は、悪魔に届いたのではない。届く状態が、作られていたのだ。タイタンによって。
ならば。
貴族がいない、この場では。
――俺が、触れれば。
馬鹿な考えだと、分かっていた。自分は貴族ではない。だが、あの国境の夜。一度だけ、悪魔に傷を負わせた、あの現象。あれが何だったのか、蓮にはまだ分からない。分からないが、もし。もし、もう一度。
「――フィール!!」
蓮は、叫んでいた。
「合図を出したら斬れ! 全力で!!」
「蓮!? 何を――」
答えを聞く前に、蓮の足は動いていた。
剣を捨てる。両手を空ける。
走る。
悪魔の正面。アスモデウスの赤い瞳が、蓮をじっと見つめている。
右手が疼く。あの夜と同じ、掌の奥の冷たいもの。
来い。
来い。
来い来い来い――!!
蓮は、悪魔の右の手首を、掴んだ。
熱くも、冷たくもなかった。ただ、硬い。岩を掴んだような感触だった。
「今だ!!」
フィールの剣が、悪魔の脇腹へ、一直線に走った。
通れ――!!
カァンッ!!
弾かれた。
何の手応えもなく。
蓮の全身から、血の気が引いていくのが分かった。
「……おや」
アスモデウスが、小さく声を漏らした。その視線は、フィールの剣ではなく、自分の手首を掴む、蓮の手に向けられていた。
「けれど、あなたには、鍵がかかっている」
鍵。
その意味を、問い返す間もなかった。
「未熟な一手には――」
ドン。
悪魔の左の掌が、蓮の胸の真ん中に添えられた。
痛い。
痛い。痛い。痛い。痛い――。
胸の奥で、何かが砕ける音が、確かに聞こえた。視界が白く弾け、次の瞬間には夜空が目の前に広がっていた。背中から地面に叩きつけられる。肺の中の空気が、全て押し出される。
息が。
できない。
――ああ、これが。
あの集落の人々が、一瞬で逝ったという、あの一撃。
蓮は、死を覚悟した。
だが。
鼓動が、まだ続いていた。ドクン、ドクンと。折れた胸の奥で、心臓が確かに動いている。呼吸は苦しい。骨は砕けている。それでも、生きている。
「――ほう」
アスモデウスの声が、頭上から降ってきた。
悪魔が、蓮の傍らに、静かに膝をついていた。その赤い瞳が、蓮の胸元を、興味深そうに覗き込んでいる。
「命を、いただくつもりでした。……手応えが、浅い。人にしては、妙に硬い。けれど、私どものような殻はない。何とも、奇妙な」
悪魔の指先が、蓮の胸に、そっと触れた。
「あなた、何者ですか」
答える余力はなかった。蓮はただ、その赤い瞳を睨み返した。
「……蓮!!」
フィールの悲鳴が聞こえた。
次の瞬間、悪魔の視界に、白い光が割り込んだ。
「全員、私の傍へ!! 早く!!」
――どこに跳ぶのか、いつも考えて動け。
フィールの視線が、暗い地平線の向こうを必死に探っていた。見えた。北の果て、闇の底に、小さな橙色の点が確かに揺れている。外壁の見張り塔の、かがり火だった。
「――あの灯りへ跳ぶ!!」
フィールが、上級の魔石を両手で高く掲げた。淡い光が、爆発的に膨れ上がる。ロイがヴァイスを担ぎ上げる。ミラが蓮の腕を掴んで引きずる。オルトが、ユーリが、リアムが、フィールの周りに必死に身を寄せる。
アスモデウスは立ち上がった。
そして、動かなかった。
「ああ、追いませんよ。逃げる客は、丁重にお送りするものです」
その声は、あくまで穏やかだった。
「サナトリアでしたか。私は、そちらでお待ちしております。……貴族の方々に、お伝えくださいませ」
赤い瞳が、ほんのわずかに、細められた。
「ぜひ、私に、触れにいらしてください、と。……殻越しのお手合わせほど、つまらぬものはございませんので」
光が、視界の全てを、真っ白に塗り潰した。
眩しさが引いた。
そこは、石造りの見張り塔の屋上だった。頭上で、巨大なかがり火が、夜風にごうごうと揺れている。
荒野の、あの張りつめた静けさは、もうない。それなのに蓮の耳の奥では、あの穏やかな声がいつまでもこだましていた。
「……数えなきゃ」
誰かが掠れた声で呟いた。ミラだった。蓮の腕を掴んだまま、彼女は虚ろな目で周りを見渡していた。
「一、二、三、四、五、六、七……八」
頬の細い傷に、血が乾きかけていた。唇が、震えていた。
「十引く二。……八」
誰も、何も言わなかった。
階段の下から、慌ただしい足音が駆け上がってきた。腕に白い布を巻いた、あの外壁警備隊の若者だった。屋上に転がる血まみれの一行を見て、彼は足を止めた。その顔が、みるみる色を失っていく。
「……戻ってこられたのですか。他の方々は……」
その問いに。
答えられる者は、誰もいなかった。
蓮は薄れゆく意識の中で、二つの言葉を繰り返していた。
――三日後。あいつが歩くと決めている間だけの話だ。
あの悪魔は、いつでも翼を広げて、飛べるのだから。
そして、もう一つ。
――あなたには、鍵がかかっている。
それが何を意味するのか。誰がその鍵を握っているのか。
闇が、静かに、蓮を飲み込んでいった。




