声のない集落
特務班の出発は、翌朝の夜明けと同時だった。
キネシスの館の中庭に集められたのは、総勢十名。第二部隊の生き残りから、フィールと蓮、そしてあの国境の夜を生き延びたヴァイス。第三部隊からは、フィールが隊長を受ける条件として願い出たロイとミラ。残りの五名は、第一部隊から引き抜かれた斥候たちだった。五人の中で一番目がよく、弓のミラと並んで後ろを固めることになったトーレ。そのトーレといつも組んでいるネロ。槍は自分で研がないと気が済まないオルト。無口で、槍を手放したところを誰も見たことがないユーリ。そして、誰よりもよくしゃべるリアム。
朝靄の中に、キネシスが姿を現した。昨夜と同じ濃い隈を目の下に貼りつかせたまま、青年は手短に、それでいて一言も削れないという調子で任務を告げた。
「北の国――『回復』の貴族、サナトス殿が治める国の外壁沿いで、三つの集落が沈黙した。原因は悪魔と見て間違いない。今回の悪魔は下級ではない。先の戦いで討った個体とも、格が違う可能性が高い」
青年はそこで一度、言葉を区切った。
「『移動』には、全ての国で悪魔の出現を調べる任がある。サナトス殿からも、正式に調査の要請が届いた。回復の国の従士は救護が主で、悪魔に対処する力を持たない。だから、我々が行く」
誰かが小さく息を呑んだ。
「サナトス殿は優れた治癒の貴族だが、悪魔と戦う手段を持たない。そして回復の国には、傷病者を癒やすために多くの民が集まっている。悪魔は生き物の多い方へ動く。……この意味は分かるな」
誰も答えなかった。答える必要がなかった。
「見て、数えて、報せろ。――戦うな」
隊員たちの間に、微かなざわめきが走った。
「盾になって死ぬな。……私は、先代のようにはしない」
最後の一言だけ、青年の声がわずかに揺れた。蓮はその揺れを聞き逃さなかった。
キネシスは懐から小さな石を取り出して、フィールへと手渡した。蓮には見覚えのある石だった。あの砂漠の夜、焚き火の前でフィールが見せてくれたのと同じ、淡い光が揺れていた。
「上級の『移動』の魔石だ。一人で跳ぶなら八度ほど跳べる石だが、運ぶ人数が多いほど力を食う。……十人を一度運ぶだけの力を込めた。全員を寄せてから使え。見える場所なら、どこへでも一瞬で移れる。裏を返せば、見えない場所へは跳べない」
キネシスは、わずかに目を伏せた。
「先代の口癖だった。どこに跳ぶのか、いつも考えて動け。……使う時が来ないことを願う」
フィールは両手でその石を受け取り、重みを確かめるように頷いた。
馬を走らせて二日。北へ向かうにつれて、景色は少しずつ色を失っていった。
緑の濃かった平野はやがて岩混じりの荒れ地へと変わり、その果てに、地平線を断ち切るように灰色の壁が姿を現した。国の北端を東西へどこまでも貫く、巨大な石造りの防壁だった。人々が「外壁」と呼ぶその向こうには、外周の砂漠が広がっていると教えられていた。蓮は壁の高さにしばし見入った。かつてフィールに拾われたあの日、自分はこの壁の向こうに続く砂漠のどこかにいたのだ。
道中、ロイは努めて明るく振る舞っていた。
「しかし、フィールも無茶を言うよな。第三部隊長に頭を下げてまで、俺たちを引っ張ってくれたんだろ? また一緒に組めるってのは、正直、嬉しいんだ。……こんな形じゃなけりゃ、最高だったんだがな」
だがその軽口も、北へ進むほどに少しずつ減っていった。ミラは何も言わず、馬上でただ前だけを見ていた。
外壁沿いの野営地で一行を出迎えたのは、腕に白い布を巻いた、回復の国の外壁警備隊の若者だった。三つの集落を最初に見つけた者だという。顔色は紙のように白く、目の下はひどく落ち窪んでいた。
「……ご案内します。ですが、どうか覚悟を」
その一言で、これから見るものがこれまで見てきたどんな戦場とも違うのだと、蓮は理解した。
最初の集落は、外壁から馬で半刻ほどの所にあった。
入る前から異様だった。鳥の声がしないのだ。虫の羽音すらない。明るい日差しの下で、風だけが草を揺らしている。生き物の営みがまったくない、音のない世界。それがこれほど不気味なものだとは、蓮は知らなかった。
集落の入り口近くで、蓮は一頭のモーズを見た。
モーズは横たわっていた。傷は見当たらない。まるで眠っているかのように、四肢を揃えて穏やかに。その隣にもまた一頭。その隣にも。柵の内側で、家畜たちが整然と一列に並べられていた。
「……何だこれ」
ヴァイスの呟きが乾いていた。
広場に出た時、蓮は自分の足が止まったことに気づいた。
人が並んでいた。
老人も、女も、子どもも。おそらくはこの集落の住人のほとんど全員が、広場の石畳の上に、頭を北に向けて一人ずつ丁寧に横たえられていた。血の一滴も流れていない。顔には苦悶の色さえなく、ただ眠っているように目を閉じている。
だが、胸元には掌の形をした黒い痣があった。
全員に。一人残らず。同じ位置に、同じ大きさの、同じ形の痣が。
蓮は、一番近くに横たえられた小さな体に目を留めた。まだ五つか六つだろうか。その手のそばに、粗末な木彫りの馬がころりと転がっていた。
蓮は、そこから目を離せなかった。
フィールが屈み込んで、一人の老人の胸元にそっと手を当てた。その指先が微かに震えた。
「……肋骨も胸骨も砕けているわ。でも、皮膚は破れていない。中身だけを、一撃で壊されている」
「一撃で……?」
蓮の声が掠れた。
「この人数を、全員一撃ずつ。抵抗する暇も、逃げる暇もなかったのね。……そして、殺した後でこうして並べた」
フィールはそこで言葉を切った。その先は、言えなかったのだろう。
ロイが拳を握りしめたまま、震えていた。
「……なんだよ、これ」
絞り出すような声だった。
「……ひでぇ」
ミラがその背中に手を置いた。ヴァイスは蒼白な顔で、並んだ人々を黙って見下ろしていた。
蓮は集落の外れから、さらに北へ少し馬を走らせた。そこで、奇妙なものを見つけた。
外壁が破られていた。
分厚い石の壁の一部が、内側へ向かって砕けていた。石片が壁の内側の地面に、扇状に散らばっている。外から何かが突き破ったのだ。その破口の中心に、人の頭ほどもある拳の形の窪みが、深々と刻まれていた。
刃も魔法も使っていない。拳一つで、石の壁を穿ったのだ。
蓮は、その窪みにそっと自分の手を重ねた。自分の掌よりも遥かに大きい。そして掌の奥を、あの夜と同じ冷たいものが、ほんの一瞬走った気がした。
――気のせいだ。
そう自分に言い聞かせて、蓮は手を引いた。
二つ目の集落も、三つ目の集落も同じだった。
同じ向きに、同じように並べられた人々。同じ痣。同じ静けさ。生存者は一人もいなかった。蓮は二つ目の途中から、数えることをやめた。代わりにミラが、黙々と数え続けていた。細い字で、紙に数字を書き付けていく。その手が一度も止まらなかったことが、蓮にはかえって痛々しかった。
夜、三つ目の集落の外れに設けた仮の野営で、フィールは簡単な地図を広げた。
「三つの集落は、外壁の破口から南東へ向かって一直線に並んでいる。襲撃の間隔はおよそ半日。……この線をそのまま延ばすと」
彼女の指が、地図の上をゆっくりと滑った。そして、ある一点で止まった。
「サナトリア。回復の国の中心都市よ」
誰かが息を詰めた。
サナトリアは、回復の貴族サナトスの館があり、無数の治療院が立ち並ぶ治癒の都だった。重い病を負った者や、癒えない傷を抱えた者が、遠方からも救いを求めて集まってくる。この国で最も生き物が密集している街の一つだ。
「悪魔は、生き物の多い方へ動く」
蓮が、ムーヴの言葉を繰り返した。
「ええ。このままの速さなら、着くのはおよそ三日後。……キネシス様に報せなければ」
フィールは外壁警備隊の若者に頼み、見張り塔の鳥舎から伝書鳥を二羽出してもらった。報告を記した細い紙を、それぞれの足に結びつける。一羽はサナトリアのサナトスの館へ。もう一羽は、いくつかの鳥舎を継いでキネシスの館へ。サナトリアまでは半日、館までは一日。間に合うかどうかは、誰にも分からなかった。紙を結ぶ彼女の指先は、白くなっていた。
それからフィールは、地図の一点を指で押さえた。
「万一の退避先はここ。外壁の見張り塔よ。あそこは夜通し大きなかがり火が焚かれているから、街道のどこからでも灯りが見える。……あの石は見える場所にしか跳べない。灯りを目印にするわ」
隊員たちは無言で頷いた。
フィールの指が、もう一度地図の上の線をなぞった。三つ目の集落とサナトリアの間。その線の上に、小さな印がもう一つあった。
「この線の上に、まだ襲われていない集落が一つある。……明日はここへ向かう。悪魔より先に着ければ、住人を逃がせる」
戦うな、とキネシスは言った。だが、逃がすなとは言っていない。
その夜、蓮は野営の外れの、焚き火の光も届かない暗がりに一人で座っていた。食べ物は一口も喉を通らなかった。目を閉じれば、石畳に並べられたあの穏やかな顔が浮かぶ。
足音がして、隣にミラが腰を下ろした。手には、あの紙束を持っていた。
「……数字を書いていないと」
ミラがぽつりと言った。
「一人ずつの顔を、見てしまいそうになるの。見てしまったら、動けなくなるから。……でも、誰かが数えなければ、この人たちは最初からいなかったことになってしまう気がして」
蓮は何も言えなかった。こういう時の言葉があまりにも軽いことを、この世界に来てから嫌というほど学んでいた。だから、ただ黙ってそこにいた。ミラもそれ以上は何も言わず、紙束を胸に抱えたまま夜空を見上げていた。
しばらくして、彼女は小さな声で付け加えた。
「あなたが来てくれてよかった。……ここで数える人が、私一人じゃなくて」
蓮はその言葉を、胸に深く刻んだ。「数えること」それは正確な記憶なのだ。この世界で自分が「覚えている者」であることの意味が、また一つ重くなった気がした。
少し離れた場所から、フィールがこちらを見ていた。何かを言いかけて、飲み込むように視線を落とす。彼女もまた、キネシスの「戦うな」という命令の重さを、一人で量りかねているのだと蓮には分かった。隊長として、彼女は誰よりも十人の命を背負っている。焚き火の光の中で、その肩はいつもより小さく見えた。
翌日の夕暮れ、特務班は南東へ延びる痕跡を辿り、まだ襲われていないはずの四つ目の集落を見下ろす丘陵へと差しかかっていた。
蓮は斥候のネロと共に、丘の頂に登った。眼下には、夕日に染まる広い野原が見渡せた。遠くに小さな集落の影がある。まだ、静けさは破られていない。
その野原のちょうど中程に、一つの人影があった。
蓮は目を凝らした。
歩いている。一人で、ゆっくりと、あの集落の方へ。距離はざっと千歩はあるだろうか。それでも、その姿は夕日を浴びてはっきりと見えた。人の背丈より頭一つ半は高い長身。黒く染まった肌。剥き出しの上半身には、鎧も武器もない。ただ、両の拳に白い布が固く巻かれていた。
悪魔だった。
あの国境の夜に見た悪魔と、同じ黒い肌、同じ赤い瞳。だが、その佇まいはまるで違った。散歩でもするかのように、ただ静かに野を歩いている。背筋はまっすぐに伸び、一歩ごとの重心の移し方に無駄がない。
蓮の全身の毛が逆立った。本能が告げていた。あれは、あの国境の悪魔とは比べものにならないと。
「見つかってはいけない」
ネロが囁いた。二人は身を低くして、丘の稜線の陰に隠れようとした。
その瞬間だった。
悪魔が足を止めた。
そして、ゆっくりとこちらへ顔を向けた。
千歩の距離を隔てているはずなのに、その赤い瞳が、はっきりと蓮の目を捉えたのが分かった。息が止まった。全身が氷の底に沈んだように動かない。
悪魔は、口の端をわずかに吊り上げた。
そして――右の拳を左の掌に打ち合わせ、両の手を体の前で合わせて、深く、優雅に頭を下げた。
礼、だった。
蓮の背中を、冷たい汗がゆっくりと伝い落ちていった。
あの集落の人々を並べた手が、今、自分に向かって頭を下げている。
どんな咆哮よりも、恐ろしかった。
――力は適度に。周囲をよく観察して。
イライザの声が、耳の奥で蘇った。蓮は震える指先から、ほんの少しだけ力を抜いた。今は、戦う時ではない。
夕日が地平線の向こうへ沈んでいく。その赤い光の中で、悪魔は頭を上げ、もう一度だけこちらを見て笑った。
次の瞬間、その姿は野原のどこにもなかった。




