覚えている者
夜明け前、蓮は寝台の上で天井の染みを数えるのをやめた。
結局、一睡もできなかった。あの豪勢な夕食の味も、食堂を満たしていた従士たちの虚ろな笑い声も遠く、料理は何一つ喉を通らないまま、蓮は手つかずの皿の前でただ時間をやり過ごしただけだった。あてがわれた客間に戻って横になってからも、頭の中では同じ場面が擦り切れた記録のように繰り返される。穏やかな声で一言一句を読経のように紡いでいくメンタル。その声に合わせて、瞳の光を一つずつ失っていく生還者たち。
自分だけがあの場で、色を保っていた。
その事実の意味を、蓮は一晩かけてできる限り冷静に噛み砕こうとした。まず状況を紙に書き出して、何が分かっていて何が分かっていないのかを切り分ける。今の蓮に書き出す紙はない。だから頭の中で一つずつ並べた。
一 国が貴族の力を使って、生還者全員の記憶を書き換えた。これは間違いない。それを行ったのはメンタル。そして恐らく、他の貴族たちもそれを了承している。
二 自分にはそれが効かなかった。理由は分からない。
三 そして――このことを知られた場合に自分がどうなるのかも、分からない。
人の記憶を意のままに書き換える力を持つ貴族が、その力に抗う人間を見つけたとき何をするのか。少なくとも、それが優しいものになるとは到底思えなかった。
結論は一つしかなかった。
――洗脳されたふりをする。
考えてみれば、これは二度目の嘘だった。北方の開拓村。流行り病。天涯孤独。あの日フィールと一緒に作り上げた偽りの経歴を、蓮は今日まで一度も間違えたことがない。今度はそれと同じことを、もっと危険な場所で、もっと長く続けなければならない。メンタルが語った「公式の記憶」を一言一句頭に叩き込み、それが自分の本当の記憶であるかのように口にする。
そうしなければ生き残れない。そして――生き残らなければ、覚えている者がこの世界から一人もいなくなってしまう。
蓮は寝台から身を起こした。
夜明けの訓練場には、まだ冷たい霧が立ち込めていた。
館の裏手に設けられたその一角は、砂を固めただけの飾り気のない空き地だった。蓮は木剣を握り、誰に教わるでもなく基本の型をゆっくりと振り始めた。ガレンに叩き込まれた型を、体の芯から確かめるように一振りずつ繰り返していると、不意にあの日の声が蘇った。
――まず、手を見なさい。手が先に動くの。
イライザの声だった。道中の朝、枝で手首を叩かれるたびに、いつも同じ調子でそう言われた。もう二度と、その声を聞くことはできない。
蓮は木剣を止め、自分の右の掌を見下ろした。
国境の森で、悪魔に傷を負わせたあの一撃。氷が砕けるような感覚。あれ以来、蓮は同じ感覚を一度も再現できていない。イライザとの手合わせでは掠りもしなかった。悪魔の自爆の前でも、自分はただ立ち尽くしていただけだった。
――あの一撃は、俺の力じゃない。
そう認めざるを得なかった。自分の内側のどこか深い場所で、何かが一瞬だけ扉を開いて、すぐに閉じた。その扉の向こうにあるものが何なのか、蓮にはまだ分からない。分からないことを分からないまま抱えていくしかないのだと、霧の中で思った。
「――こんなところにいたのね」
背後から聞こえた声に、蓮は振り返った。フィールが布に包んだ何かを抱えて、訓練場の入り口に立っていた。
「部屋にいないから探したわ。……食べなさい。昨日、ほとんど手をつけてなかったでしょう」
差し出されたのは、まだ温かいパンと水筒だった。蓮は礼を言って受け取り、二人並んで訓練場の端の石段に腰を下ろした。
しばらくは、どちらも口を開かなかった。パンを齧る蓮の隣で、フィールは霧の向こうをぼんやりと見つめていた。やがて、彼女はぽつりと話し始めた。
「五日後に、ムーヴ様と戦死した従士たちの葬儀があるわ。生還者は最前列に並ぶことになるって。……イライザさんもクレベスさんも、名前を読み上げていただけるそうよ」
「そうか」
「二人とも、最期まで貴族様の盾となられた。従士としてこれ以上の誉れはないって、皆が言っているわ」
フィールは、手の中の水筒に目を落とした。
「……イライザさんはね。私が従士になったばかりの頃、剣を教えてくれた人なの」
蓮は顔を上げた。
フィールの手が、外套の内側に触れた。
手袋の包みがある所だった。
「……一度も、当てられなかったの」
フィールは言った。
「毎朝、木の枝一本に。手首が腫れても、明日も来ますって言って。……結局、最後まで一度も」
木の枝一本。蓮の手首を叩いた、あの枝先が思い出された。蓮も、一度も届かなかった。
「……私も、誉れだってそう思わなきゃいけないのよね」
フィールの声は震えていた。瞳は涙で濡れているのに、その奥には何かに折り合いをつけたような、不自然なほどの静けさがあった。誉れだと口にするたびに、その静けさが少しずつ深くなっていく。蓮はそれを、胸の潰れるような思いで見つめていた。
確かめなければならないことがあった。それがどれほど危険な問いであっても。
「なあ、フィール。……国境の集落の夜のことを覚えているか」
「ええ、もちろん。悪魔が現れて、ダインたちが……」
「あの後、俺たちはどうやって助かったんだ」
フィールは少しだけ首を傾げた。
「……運が良かったのよ。悪魔が急に引いていったから。あなたが私の前に立ってくれたのは覚えているの。でも、そこから先は……」
言いかけて、彼女はこめかみに指を当てた。眉を寄せ、何かを掴もうとするように宙に視線を彷徨わせる。
「霧がかかったみたいで、うまく思い出せないの。何か大事なことがあった気がするのに」
その瞬間、蓮の胸の奥で何かが音を立てて落ちた。
あの夜、二人で確かに見たはずだった。悪魔の腕に刻まれた傷。驚愕に歪んだ悪魔の顔。そして、それを見つめていたフィール自身の呆然とした瞳。あの異様な出来事を目撃した唯一の人間が、今、目の前で、その痕跡だけを残してすべてを忘れている。
問い詰めれば、思い出すかもしれない。だが、思い出そうとする彼女の横顔を見て、それが彼女に痛みを与えることを蓮は直感した。何より、どこかで見張られているかもしれないという恐怖が、蓮の口を塞いだ。
「……そうだな。運が良かった」
それが、蓮がフィールについた最初の嘘になった。
「疲れているのね、私」
フィールは小さく笑って、頭を振った。その笑顔があまりにもいつも通りだったから、蓮は余計に何も言えなくなった。
その日の夕刻、ロイとミラが館を訪ねてきた。第三部隊の巡回を終えたその足で、蓮の顔を見に来たのだという。
「生きてやがった! 良かった、本当に良かった……!」
顔を合わせるなり、ロイは蓮の肩を遠慮なく揺さぶった。その目は赤かった。
「聞いたぞ。ムーヴ様が悪魔と相打ちになって……貴族付きの人たちもみんな、盾になって……。お前もあの場にいたんだろ。とんでもねえ戦いだったんだろうな」
「……ああ」
「でも、悪魔が倒せたんだ。貴族様の力でな。悪魔には貴族様の攻撃しか通らないって、昔から言われてる通りだ。やっぱり貴族様はすげえよ」
その言葉は、蓮に向けられたものではなかった。ロイが生まれてからずっと信じてきた、疑う余地のない常識だった。蓮は頷いた。頷きながら、自分はイライザの剣を覚えているこの国でたった一人の人間かもしれないのだと、噛み締めていた。
「お前、顔色悪いぞ。無理して笑うなよ」
ロイが心配そうに覗き込んでくる。その隣で、ミラが何も言わずに、腰に下げた水筒を蓮に差し出した。養成所で蓮が投げ飛ばされるたびに、誰よりも早く差し出してくれたのと同じ仕草だった。
「……何かあったの」
ミラが小さな声で尋ねた。
「いや。……大丈夫だ」
「そう」
それ以上、ミラは何も聞かなかった。ただ、蓮が水を飲み干すまで黙って待っていた。
――その話、他の人間には絶対にしない方がいい。
かつてフィールに言われた言葉が、胸に蘇った。二人に嘘をつくのは、フィールに嘘をつくのとはまた別の種類の痛みだった。それでも蓮は笑ってみせた。二人を巻き込まないために。
葬儀の前夜、キネシスは先代の執務室に一人で立っていた。
整然と積み上げられた書類の山。隅々まで整えられた机。窓の外の、見張り塔の灯り。何もかもが、ムーヴが最後にこの部屋を出た時のままだった。
壁の隅に、小さな穴が一つ開いている。指一本がやっと入るほどの穴で、知らなければ古い壁の傷にしか見えない。
――「移動」を継いだら、覗け。
先代は、ただそれだけを言った。いつ、とは言わなかった。まだ先の話だと、どちらも思っていた。
キネシスは手燭を穴の口に寄せ、膝をついて片目を近づけた。細い灯りが向こうの闇に差し込み、その奥をぼんやりと照らし出す。机が一つ。その上に、分厚い革の本が一冊。
扉のない部屋だった。穴から覗き、見えた場所へ跳ぶ。それ以外に入る方法はない。「移動」を持つ者しか辿り着けない場所だった。
キネシスは、跳んだ。
手燭の火がふっと揺れ、ひやりとした空気が頬を撫でた。狭い部屋で、四方の壁のどこにも扉の跡すらない。机の上の本の革の表紙は、擦り切れて艶を帯びていた。何百年もの間、何人もの手がここに触れてきたのだ。
最初の頁を開くと、一番上に古い字で一行だけ書かれていた。
――最初の頁には、確かめた事実だけを書くこと。
その下に、何人もの違う筆跡で、短い行が連なっていた。
一 貴族は加護を持ち、いかなる攻撃も効かぬ。
一 力を授かった当主は、授かった時の姿のまま、五百年を生きる。
一 同じ力でも、継ぐ者によって、一日に振るえる量は違う。
一 貴族同士が触れ合えば、加護は消える。触れた所より消え、全身に至るまで数呼吸を要す。
一 貴族同士の争いで傷を負った貴族は、死なぬ限り、時をかけて癒える。
一 貴族を癒やしの力で治すには、常の数倍の力を要す。
一 一定の力は、大物の魔物の核、あるいは魔石に込めることができる。
一 悪魔に触れられている間、貴族の加護は消える。
一 悪魔に、貴族以外の攻撃は通じぬ。
キネシスの指が、最後の一行の上で止まった。
脳裏に、あの夜が蘇る。タイタンと組み合った悪魔の脇腹へ、閃くように斬り込んだ一振りの剣。悪魔の顔に初めて浮かんだ苦悶の色。自分はそれを、すぐ傍で見ていた。
イライザの剣は、通った。
「確かめた事実だけを書く」頁に、確かめた事実と違うことが書いてある。キネシスは長い間、その一行を見つめていた。
「……記録も、間違うことがあるのか」
声に出すと、狭い部屋にひどく小さく響いた。
何百年も守られてきた頁だった。先代も、その先代も、この一行を事実として受け継いできた。それが、たった一振りの剣の前で崩れた。ならば、今この国で「事実」とされていることは、どこまでが本当なのか。
キネシスは机の上の筆に手を伸ばしかけて、止めた。
まだ、書けない。
イライザの剣がなぜ通ったのか、自分には分からない。確かめていないことは、この頁には書かない。それがこの家の決まりだった。
代わりに、懐から自分の手帳を取り出した。見たものはその日のうちに書け、と先代に叩き込まれた癖だった。キネシスは灯りの下で手帳を開き、あの夜自分が見たことを、一つ残らず書いていった。
明日の葬儀で、自分は壇上で別の言葉を読み上げなければならない。メンタル殿が用意した、「公式の記憶」を。
それでも、紙に書いたことは紙に残る。
頁の最後に、小さく書き添えられた一行が、灯りに揺れていた。
――力と守りの細目は、二頁に記す。
今はまだ、その先をめくる気にはなれなかった。
そして、葬儀の日が来た。空には鉛色の雲が低く垂れ込め、重苦しい空模様だった。
貴族の館の前に広がる大広場は、黒い布で埋め尽くされていた。街中の民が、従士が、貴族様に仕える者たちが、黒衣に身を包んで言葉もなく広場を埋めている。その最前列、生還者のために設けられた狭い一角に、蓮はフィールと共に、九人の列の一人として立っていた。
広場の中央には、布に包まれた棺が安置されていた。ムーヴの亡骸だった。あの効率主義の貴族は、最期に一言も残さないまま、この布の下で眠っている。
壇上にキネシスが立った。線の細い青年は蒼白な顔で、それでも背筋を伸ばして群衆を見渡した。その両脇にタイタンとテルモが無言で控えている。少し離れた位置には、ゲートとメンタルの姿があった。
ゲートは、いつもの飄々とした笑みを今日ばかりは消していた。その代わり、隣に立つメンタルへ何事かを囁き、メンタルが小さく頷く。二人の距離は、他の貴族たちよりも明らかに近かった。
キネシスが口を開いた。
「『移動』の貴族ムーヴは、南方の町エスクーダに現れた悪魔を『炎氷』『力』両貴族と共に討ち、相打ちとなり、名誉の戦死を遂げた。その戦いにおいて九十を超える従士が、貴族の盾となりその命を捧げた」
感情を抑えた、淡々とした声だった。だが、その言葉が読み上げられるたびに、広場の空気は重く沈んでいった。
「悪魔は貴族の力によって討たれた。我ら貴族は、この誉れある犠牲を決して忘れない。――以下に、盾となった者たちの名を読み上げる」
名前が一つずつ読み上げられていく。蓮の知らない名前が、曇天の下に次々と響いた。九十を超える名前は途切れることなく続き、その一つ一つに鐘の音が低く重なった。
「――貴族付き従士長、イライザ」
蓮は息を止めた。
「貴族付き従士、クレベス」
二つの名前は、他の名前とまったく同じ調子で読み上げられた。イライザの剣が悪魔を切り裂いたことは、一言も語られなかった。優雅に朝食を食べていた横顔も、木の枝で蓮の喉元を突いたあの余裕の笑みも、その名前の中には何も残っていなかった。
蓮は唇を噛みしめた。声を出さず、涙を見せず、ただまっすぐに前を向き続けた。ここで崩れれば、すべてが終わる。だから、心の中で繰り返した。
――俺は覚えている。あなたの剣が、悪魔に届いたことを。
その時だった。群衆の上を撫でるように動いていたメンタルの視線が、九人の列の上で、ほんの一拍だけ止まったような気がした。
背筋を冷たいものが駆け上がる。蓮は視線を逸らさず、洗脳された者の虚ろな目を必死に装った。
次の瞬間、メンタルの視線は何事もなかったかのように通り過ぎていった。
――気のせいだ。
そう、自分に言い聞かせた。
その夜、蓮とフィールはキネシスの館の執務室に呼び出された。
かつてムーヴが使っていた部屋だった。整然と積み上げられた書類の山と、隅々まで整えられた机。その机の前に座るキネシスの目の下には、亡き先代と同じ濃い隈が浮かんでいた。
「座ってくれ。手短に済ませる。……無駄は好まない」
その物言いは、ムーヴを思わせた。二人が腰を下ろすと、キネシスは机の上の一枚の紙をこちらへ滑らせた。
「対悪魔特務班。仮称だが、そう呼ぶ。『移動』の貴族には、全ての国において悪魔の出現を調査する任がある。先代はその任のために生涯を費やしていた。その任があるから、国の境を越えることも許される。この班は、先代が生前から構想を練っていたものだ」
キネシスは、そこで一度言葉を切った。
「貴族の盾となって命を捧げる部隊ではない。悪魔の出現を少しでも早く察知し、民を避難させ、貴族が最適な位置に出陣できるよう支える。言わば、貴族の『目』となる部隊だ。決して盾ではない。見て、数え、報告する。私に直接だ」
蓮は紙に視線を落とした。そこには細かい字で、任務の概要が記されていた。
「九十を超える命を消費して、悪魔は一体だ。この交換比は持続しない。私は先代のように、それを黙って抱え込むつもりはない。効率が悪い」
冷たいほどに合理的な言葉だった。だが、その奥に押し殺した何かがあるのを、蓮は感じ取っていた。盾となれと叫んだあの日のギードの声とは、まるで違う。この青年は、盾という言葉が人の命の別名であることを知っている。
「班の中核には第二部隊を据える。隊長はフィール。お前に任せたい」
「……私が」
フィールが息を呑んだ。
「先日は部隊長の同行が許されなかったが、今後は状況が違う。この班では、お前が最前線に出ることを私が許可する。蓮も班に入れる。それが、先代の遺した判断でもある」
フィールはしばらく黙っていた。膝の上で、指を固く組み合わせている。やがて、彼女は顔を上げた。
「お引き受けします。……一つ、お願いがあります」
「言ってみろ」
「第三部隊のロイとミラを、班に加えていただきたいのです」
キネシスの眉が、わずかに動いた。
「二人は国境沿いの地形と、魔物の縄張りに通じています。悪魔の進路を読み、民を避難させるには、その知識が必要です。それに――」
フィールの視線が、一瞬だけ蓮へ流れた。
「蓮の養成所以来の同期で、蓮と最も息が合います。命を預け合う班では、それが何より重要だと考えます」
キネシスは指先で、机の縁を一度だけ叩いた。
「……理由は合理的だ。認める。第三部隊長には、私から話を通しておく」
フィールが深く頭を下げた。その横顔を見ながら、蓮は胸の奥に沁みるものを感じた。隊長という肩書きを、彼女が初めて自分の願いのために使った。それが、蓮には何よりも心強かった。
キネシスの視線が、蓮へと移った。
「蓮。お前は先代が自ら指名した人間だ。理由は聞いている。……私は、それ以上を詮索するつもりはない」
一瞬の沈黙があった。キネシスは指先で机の縁を撫で、言葉を選ぶようにゆっくりと続けた。
「一つだけ聞かせてくれ。あの戦場で、お前は何を見た」
蓮の心臓が大きく跳ねた。
キネシスの声は静かだった。試しているようにも、何かを祈っているようにも聞こえた。この青年はあの戦場にいて、イライザの剣をその目で見たはずだ。それなのに公式には、別宅にいたことになっている。その矛盾を、彼は誰よりも知っている。
――俺が覚えていると答えたら、どうなる。
蓮はゆっくりと息を吐いた。そして、五日間頭に叩き込み続けた言葉を、感情を消した声で口にした。
「三貴族様が悪魔を討たれました。キネシス様は、別宅においででした。……相討ちで悪魔を討たれたムーヴ様のほかは、貴族の皆様は傷一つ負われず、私たちはその盾となりました」
キネシスは、蓮の顔をじっと見つめた。数秒とも数分とも思える時間だった。やがて、彼の肩からほんのわずかに力が抜けるのが分かった。それが安堵なのか落胆なのか、蓮には判別できなかった。
「……そうか。ならばいい」
それだけ言うと、キネシスは視線を紙へと戻した。
「特務班の最初の任務は、追って通達する。今夜は休め」
二人が執務室を辞そうと立ち上がった、その時だった。
激しく扉を叩く音が、部屋の静寂を切り裂いた。
「キネシス様! 緊急の報告です!」
飛び込んできたのは、第一部隊の伝令だった。息も絶え絶えの様子で、床に膝をつく。
「回復の国から使者が到着しました! 北の外壁沿いの三つの集落から、連絡が途絶えたと……。回復の国の外壁警備隊が確認に向かったところ、集落の周りから家畜も野の獣も、鳥の声すらも消えていると……! サナトス様より、『移動』に正式な調査の要請が!」
キネシスの顔から、血の気が引いていくのが見えた。
「……生き物の気配が、消えているだと」
その声は掠れていた。蓮はフィールと無言のまま、視線を交わした。
悪魔は、現れた場所の周りの生き物を狩り尽くしながら、より生き物の多い方へと動いていく。ムーヴがそう語っていた。あの夜の記憶が、蓮の中で冷たく一つに繋がっていく。
窓の外では、夜の闇がどこまでも深く広がっていた。
蓮はまだ知らなかった。今度の敵が、あの悪魔とは比べものにならない存在であることを。そして自分が、イライザの剣を覚えている者として、その戦場に立つことになることを。




