石塊の傷と、水を紡ぐ手
入所から一月が過ぎる頃には、蓮の体もこの毎日に少しずつ馴染み始めていた。馴染むことと、痛くなくなることは別だった。
その日の実技は模擬戦だった。ロイと組んで、二人で教官補を相手にする。相手はゲイルという大男で、同期の誰もが「あいつとだけは組まされたくない」と口を揃える相手だった。蓮はまだ木剣の握りがやっと形になったばかりで、ロイと息を合わせるどころではなかった。
「脇が空いてる!! 受けろ!!」
受けようとした。だが、疲れの溜まった腕が上がらなかった。
ゲイルの木剣が、蓮の脇腹に入った。
骨がみしりと鳴った。蓮の体は地面に叩きつけられ、目の前が白く弾けた。
「蓮!!」
ロイの声が遠くに聞こえた。
立ち上がろうとした瞬間、脇腹から突き上げるような痛みが走って、蓮はその場に崩れ落ちた。息を吸うたびに、内側で何かが軋んだ。
折れたな、と他人事のように思った。
医務室の寝台で目を開けると、フィールが険しい顔で見下ろしていた。
「肋が二本」
フィールは言った。
「試験まで、あと半月なのに」
小さく舌打ちをして、懐から石を一つ取り出した。淡い水色の光をたたえた石だった。
「それは」
「回復の石」
フィールは石を手の中で一度だけ転がした。
すぐには使わなかった。
「……貴重なものなのか」
「遠征で使わずに済んだぶんが、一つ残ってただけ」
フィールはそれ以上は言わなかった。
石を握った手を、蓮の脇腹の上にかざした。
石が淡く光った。
温かいものが脇腹に流れ込んできた。軋んでいた骨が、音もなく元の形に戻っていく感覚があった。痛みが嘘のように引いていった。
光が消えた時、石の色はひとまわり薄くなっていた。
フィールはそれを見下ろして、何も言わずに懐へ戻した。
「……助かった」
蓮は言った。
「でも、良かったのか。訓練で折っただけなのに」
「あなたが死んだら、拾った意味がないでしょう」
素っ気ない口調だった。
その手は、まだ蓮の脇腹に軽く添えられたままだった。
蓮はそれ以上、何も言わなかった。
数日後の休みの朝、ロイが宿舎の戸口で声を上げた。
「よし、決めた。今日は街に出るぞ」
「いきなりだな」
「いきなりも何も、お前ら根詰めすぎなんだよ。蓮は骨折ったばっかだし。ミラもだ、休みの日まで弓引いてんじゃねえ」
名指しされたミラは何も言わずに、小さく頷いた。
フィールは初め渋っていたが、結局「見張り役」と言ってついてきた。
街は初めて見た時と同じように賑やかだった。屋台で肉を焼く匂い。子どもが石畳を駆ける音。露店の店主同士の値切り合い。ロイが目ざとく見つけた串焼きを四人で頬張りながら、特に目当てもなく通りを歩いた。
「なあ蓮。お前の村って、どんな所だったんだ」
ロイが訊いた。
蓮は用意しておいた話をした。北の開拓村。流行り病。身寄りはない。
何度も頭の中で繰り返してきた話だった。口にすると、思っていたより滑らかに出てきた。
「……そうか。大変だったんだな」
ロイの声に、疑いは少しもなかった。
蓮は串焼きの残りを口に入れた。うまかった。うまいのに、少しだけ喉に引っかかった。
「……私は、北の湖のほとりの村」
ミラが言った。
珍しく、自分から口を開いた。
「父さんと母さんと、兄さんが二人。みんな湖で漁をしてた」
ミラは串を持ったまま、通りの先を見ていた。
「兄さんたちは、ある冬、湖に出たまま戻らなかった。……村の大人は、その話をあんまりしたがらなかった。だから私も、よく覚えてない」
ミラは串焼きの残りを小さく齧った。
「でも、今は、ここにいるから」
それだけ言って、また黙った。
ロイが何か言いかけて、やめた。代わりに自分の串焼きを一本、黙ってミラの手に押しつけた。
ミラは少しだけ目を丸くして、それから受け取った。
夕暮れ時、四人は広場の噴水の縁に並んで腰を下ろした。
噴水は止まることなく水を噴き上げていた。石の水盤から溢れた水が、細い溝を伝って広場の外へ流れ出ていた。
砂漠を四日歩いてきた蓮には、それが少し不思議だった。この国のまわりには川らしい川を見なかった。
「この水、どこから来てるんだ」
蓮が言うと、ロイがきょとんとした。
「どこって。水の貴族様だろ」
「水の貴族様」
「川も井戸も、雨だってそうだぞ。……開拓村じゃ違ったのか?」
蓮は一瞬だけ詰まった。
「井戸しかなかった。どこから湧いてるかなんて、考えたこともなかった」
「まあ、そんなもんか」
ロイはあっさり納得して、串焼きの串で噴水を指した。
「世界中の水は、水の貴族様が一人で出してるんだ。朝から晩まで、ずっと」
「一人で」
「だから水の貴族様は、館からほとんど出られないんですって」
フィールが言った。
噴水の水を見ていた。
「あの方が力を止めたら、川も井戸も、雨も涸れる。……私たちが遠征に持っていく水の石も、あの方の力よ」
フィールは腰の水筒を外して、蓮に渡した。
「だから、無駄にはしないの」
蓮は水筒を受け取って、一口だけ飲んだ。
砂漠で、半分を一気に飲んでしまった水袋のことを思い出した。髭面の兵が「おい」と言っていた。
あれは、こういうことだったのだと、今になって分かった。
「よし。試験の型、見せてやる」
ロイが噴水の縁に立ち上がった。
木剣の代わりに串を構えて、ガレンに叩き込まれた型を振ってみせた。一つ。二つ。三つ目で足を滑らせた。
ばしゃん、と派手な音がした。
ロイは水盤の中に尻もちをついていた。頭から水をかぶって、串だけを高く掲げていた。
ミラが声を上げて笑った。
腹を抱えて笑っていた。
「……水、無駄にしないでって言ったでしょ」
フィールが言った。
言いながら、口元を押さえていた。
蓮も笑った。
噴水の水が、夕日を受けて光っていた。
その夜、宿舎の一室に四人が集まって、床に地図と教本を広げた。
登用試験まで、十日を切っていた。
「実技は、今さら付け焼き刃じゃどうにもならねえ。型を体に叩き込むしかねえな」
ロイが言った。
「学科は……蓮は心配ないよな」
「ない」
ミラがぼそりと言った。
「心配なのは、ロイの算術」
「おい、言うなよそれ!!」
フィールが吹き出した。
蓮は教本の頁をめくりながら、三人の顔を順に見た。
ロイは地図の上に突っ伏して唸っていた。ミラはその横で、黙って算術の問題を一つ、ロイの前に置いた。フィールは膝を抱えて、それを眺めていた。
十日後、この四人のうち三人が試験を受ける。
三人とも受かる、と蓮は決めた。
決めてから、ロイの前の問題を覗き込んだ。




