偽りの故郷、本当の一歩
城壁の門をくぐった瞬間、蓮は思わず足を止めた。
石畳の大通りを荷馬車が行き交い、露店の呼び声が飛び交っていた。軒を連ねる建物はどれも石造りで、窓辺には見たこともない色の花が咲いていた。香辛料の匂い。鍛冶場から響く槌の音。どこかで子どもが笑っていた。
行き交う人々は、誰も蓮を見なかった。籠を抱えた女も、荷を担いだ男も、自分の今日の用事で手一杯という顔をしていた。
ここはもう日本ではない。
分かっていたはずのことが、雑踏の真ん中に立って初めて、腹の底にずしりと落ちてきた。
宿舎へ向かう道すがら、フィールが横目で蓮を見た。
「これから何度も訊かれるわよ。どこの生まれで、何をしていた人なのか」
蓮は頷いた。空から落ちてきたとは言えない。なら、言えることを先に決めておく必要があった。
「辺境の生まれにしましょう。北の、小さな開拓村の出。流行り病で村ごと失って、身寄りがない。……っていうのはどう?」
蓮は少しだけ口の端を上げた。
「随分と、本当に近いな」
「あら、そう?」
「身寄りがないのは本当だ。こっちに来る前から、ずっと」
フィールは一瞬だけ黙った。
それから何も聞かなかったような顔で続けた。
「歳は」
「二十二」
「なら見た目とも合うわね。名前は」
「蓮でいい。姓は……ここじゃ名乗らない方が自然なんだろ」
フィールは黙って頷いた。
北の開拓村の生まれ。流行り病で村を失った。身寄りはない。
蓮は口の中で何度か繰り返した。嘘のはずなのに、身寄りがないという所だけが、あまりにもすんなりと口に馴染んだ。
蓮は少しだけ笑った。
宿舎に荷を下ろす間もなく、フィールは蓮を館の一角にある従士の詰所へ連れていった。
石造りの建物の前で足を止めると、フィールは振り返った。
「言っておくけど、従士になるには試験があるの。誰でもなれるわけじゃない」
「試験か」
「学科と実技。学科は算術と、地理と、法規の基礎。実技は剣か、何かの武器で戦うの」
学科と聞いて、蓮は少しだけ肩の力が抜けた。算術なら毎日やっていた。商社で伝票と見積もりを相手に二年、数字で躓いたことはなかった。
実技の方は、まるで想像がつかなかった。武器と呼べるものを握ったことすらない。刃物といえば、せいぜい台所の包丁くらいだった。
「……実技は、正直きついと思う」
「でしょうね」
フィールはあっさり頷いた。
「あなたを拾ったのは私よ。拾ったぶんの面倒くらいは見るわ」
フィールは詰所の中庭の向こうを指した。低い塀に囲まれた砂地の広場と、その奥の細長い建物が見えた。広場では、木剣を持った若者たちが走らされていた。
「あそこが従士の養成所。話は通しておく。明日から入りなさい」
フィールは蓮の顔を見た。
「きついわよ。たぶん、あなたが思ってる何倍も」
「……分かった」
「逃げたくなったら、砂漠のことを思い出して」
それだけ言って、フィールは詰所の中へ入っていった。
振り返らなかった。
翌朝、蓮は養成所の門をくぐった。
広場の真ん中に、男が一人立っていた。
五十を過ぎたくらいに見えた。白髪交じりの髪を短く刈り上げていて、左の頬に古い傷が一本走っていた。
男は蓮を見た。
上から下まで、一度だけ。
それから足元の木剣を一本拾って、蓮に放った。
蓮は慌てて受け止めた。思っていたより重かった。
「握ってみろ」
蓮は握った。
男は少しの間それを見ていた。
「指導官のガレンだ」
男は言った。
「お前は今、包丁を握っている」
ガレンは蓮の手から木剣を取り上げて、握り直させた。指を一本ずつ、柄に巻きつけるように。
「刃物を握ったことはないな」
「……ありません」
「なら、癖がない。それだけはいい」
ガレンは蓮に背を向けた。
「走れ。日が真上に来るまで」
それから、毎日が同じだった。
日の出とともに叩き起こされて、まず走らされた。息が整わないうちに木剣を持たされ、型の一つも満足に振れないまま、何度も地面に転がされた。
「遅い!!」
「足が止まっている!!」
「立て。立てないなら、ここで終わりだ」
ガレンは怒鳴ったが、手を貸すことは一度もなかった。転がった者が自分で立つまで、黙って見下ろしていた。
夜、宿舎に戻る頃には指一本動かす気力も残っていなかった。体のあちこちに、日ごとに新しい痣が増えていった。
それでも蓮は、毎朝その門をくぐった。
砂漠のことを思い出していた。
月明かりの下で毒針が光っていた。あの時、蓮は逃げることしかできなかった。転んで、目を閉じることしかできなかった。
あいつらがどうなったのかを確かめに行くなら、まず、あの砂漠で生き残れるようにならなければならなかった。
半月ほど経った頃だった。
「おい、お前」
休憩の合間に木陰でへたり込んでいた蓮に、同期の一人が声をかけてきた。日に焼けた顔の、よく笑う男だった。
「お前、蓮だろ。俺はロイ」
ロイは蓮の隣にどかりと腰を下ろした。
「お前さ、しぶといよな」
「……そうか?」
「そうだよ。俺なんか三日目で本気で逃げようと思ったもん。荷物まとめて、門の前まで行ったんだぜ。そしたらガレン教官が門の前に立っててさ。何も言わねえの。ただ立ってんの。……怖えだろ、あれ」
蓮は少しだけ笑った。
「お前は毎日、同じ顔で戻ってくる。何回転がされても。だから気になってた」
ロイは蓮の手元の木剣を顎で指した。
「それに、握りがもう変わってる。半月前は包丁みてえだったのに。……お前、飲み込みは早えよ」
「転がされるのが得意なだけだ」
「それ、得意って言わねえよ」
ロイは声を上げて笑った。
その向こう、少し離れた木陰に、一人の少女が座っていた。
同期のミラだった。弓兵志望で、口数が少ない。誰とも群れなかった。食堂ではいつも隅の席で、一人で黙々とパンを齧っていた。
蓮はその横顔を見ていて、ふと思い出した。
訓練校の教室で、一人で弁当をつついていた自分を。
その夜、蓮は食堂の隅の席に自分の盆を置いた。
ミラの隣だった。
ミラが顔を上げた。警戒の色がはっきりと浮かんでいた。何を企んでいるのか。何を求めているのか。
蓮にはその目がよく分かった。
「お前、いっつも一人で飯食ってるよな」
言ってから、自分で少し笑ってしまった。
まったく同じ台詞だった。
ミラは何も答えなかった。
ただ、席を立つこともしなかった。
次の日も、蓮はミラの隣に座った。その次の日も。そのうちロイが「なんだよ、ずりいぞ」と盆を持って割り込んできて、隅の席は三人になった。
それから、いつの間にか。
蓮がガレンに転がされるたび、誰より先に水筒を差し出してくるのはミラになっていた。何も言わずに、ぐいと押しつけてくる。
夜の食堂で、固いパンを齧りながら話をした。今日のガレンがどれだけ容赦なかったか。明日の走り込みが何周になるか。ミラはたいてい黙って聞いていて、時々小さく頷いた。
ある晩、ロイがガレンの口真似をして「立て。立てないなら、ここで終わりだ」と言った。ミラが飲みかけの水を吹き出した。
蓮も笑った。
笑いながら、週末の飲み屋のことを思い出していた。直哉がジョッキを掲げて、店員に注意されていた。
あの夜と、少しだけ似ていた。
その夜、蓮は宿舎の硬い寝台に横になって、天井の染みを見ていた。
直哉の顔が浮かんだ。佐伯の横顔。田村さんの背中。
あの三人がどうなったのかは、まだ分からなかった。
――それ、生き延びてるだけだろ。
直哉の声がした。
ここで一人で歯を食いしばっているだけなら、きっと、あいつに笑われる。
ロイの馬鹿笑い。ミラの水筒。振り返らずに詰所へ入っていった、フィールの背中。
ここでも、生きていける。
蓮は目を閉じた。
体中の痣が痛かった。
明日の朝も、あの門をくぐる。
もう足取りに迷いはなかった。




