ミッドランドという世界
蠍の群れが動かなくなるまで、さほど時間はかからなかった。
兵たちは声も上げずに、一匹ずつ確実に仕留めていった。誰も無駄に剣を振らなかった。誰も勝ったと叫ばなかった。蓮は輪の真ん中に膝をついたまま、それを見ていることしかできなかった。
最後の一匹が砂の上に崩れ落ちると、先頭にいた少女が剣を鞘に収めて、蓮の前まで歩いてきた。
上から下まで、じっと見た。
「怪我は。……ないみたいね」
少女は眉を寄せた。
「その割に、随分ひどい格好だけど」
言われて見下ろせば、確かにひどかった。焼け焦げて色の抜けた布が、体にかろうじて引っかかっているだけだった。
「誰か、予備の服を一着出してあげて」
「……俺のでいいなら」
髭面の兵がぶつぶつ言いながら荷袋を漁り、生成りの上下と薄手の外套を放ってよこした。受け止めた布からは、砂と汗と、知らない土地の干し草の匂いがした。
「大きさは知らねえぞ。あと、返さなくていいからな。その……それ、もう服じゃねえよ」
蓮は礼を言って砂丘の陰へ回った。崩れかけた布を剥がして、借りた服に袖を通した。少し大きかった。それでも肌を隠せるというだけで、ずいぶん人間に戻れた気がした。
脱いだ服の切れ端を拾って戻ると、少女がそれに目を留めた。
「それ、見せて」
蓮が渡すと、少女は焦げた布を指でつまんで、焚き火の明かりにかざした。
表を撫でた。裏を返した。端の縫い目を爪でなぞった。
「……何で織ったの、これ」
「何でって」
化繊だった。何で織ったのかと訊かれても、蓮にも答えられなかった。
少女はしばらく布を見ていた。
それから蓮の足元を見た。砂にまみれた運動靴を。
何も言わなかった。
兵たちは砂丘の窪みに火を起こして、夜明けまでそこで休むことにしたらしかった。
蓮は火の端に座らされて、水袋を渡された。一口飲んだら止まらなくなって、半分ほど一気に飲んでしまった。髭面の兵が「おい」と言ったが、取り上げはしなかった。
少女が向かいに腰を下ろした。
「名前は」
「蓮」
「フィール」
少女は短く名乗った。
「蓮。あなた、どこから来たの」
蓮は答えに詰まった。
どこから、と訊かれて、どう答えればいいのか分からなかった。日本と言って通じるとは思えなかった。この砂漠も、あの蠍も、跳んできた兵たちも、蓮の知っている世界のどこにもないものだった。
適当な嘘をつくこともできた。
だが蓮は、嘘をつき通せるほど器用ではなかった。それに、この少女に嘘をつくのは嫌だった。見ず知らずの自分を、命がけで助けてくれた相手だった。
「……信じてもらえないと思うけど」
蓮は話した。
日本という国から来たこと。友人たちと旅行に行く途中、乗っていた飛行機が落ちたこと。海に落ちたはずなのに、目が覚めたらこの砂漠にいたこと。
「ひこうき」
「空を飛ぶ乗り物だ。人が何百人も乗れる」
フィールは何も言わなかった。
焚き火の爆ぜる音だけがしていた。
近くにいた兵の何人かが、こちらを見ていた。髭面の兵が、口を開けて蓮の顔を見ていた。
フィールは手の中の布の切れ端を、もう一度見下ろした。
長いこと見ていた。
「――その話」
やがてフィールが言った。
「他の人には、絶対にしない方がいい」
思っていたより真剣な声だった。
「信じるかどうかは、私にも分からない。でも、どこの村の出かも言えない、名前しか持っていない男が、空を飛んできたって言いだしたら」
フィールは布の切れ端を火の明かりの下で裏返した。
「頭がおかしいと思われるか、何か隠してると思われるか。どっちにしても、ろくなことにならないわ」
「……分かった」
「みんなも」
フィールは兵たちを見回した。
「今の話は聞かなかったこと。いいわね」
兵たちが目を逸らした。髭面の兵が、慌てて口を閉じた。
「一つ、訊いてもいいか」
蓮は言った。
「さっきは、どこから来たんだ。何もない所に、いきなり現れただろ」
「ああ、あれ」
フィールは腰の革袋から小さな石を一つ取り出した。焚き火の光を受けて、石の奥で淡い光がゆらりと揺れた。
「移動の魔石。見える所になら、一瞬で跳べる。持っている人のまわり数歩にいる人も一緒にね」
「見える所なら、どこでも?」
「見える所だけよ。だから見張りが砂丘の上であなたを見つけて、みんなで一か所に集まって、あなたのすぐそばの砂の上を目がけて跳んだの」
フィールは石を袋に戻して、口の紐をきつく締めた。
「言っとくけど、すごく貴重なのよ、これ。上級の石で、遠征のたびに数えるほどしか預けられない。一つ使っちゃったから、帰ったら報告書を書かなきゃいけないの」
「……ありがとう。本当に」
蓮が頭を下げると、フィールは少しだけ面食らったような顔をした。
それから、ふいと焚き火に目を戻した。
「見捨てたら寝覚めが悪いだけよ」
小枝を一本、火にくべた。
「その石は、誰が作ってるんだ」
「作ってるんじゃないわ。込めてるの。移動の貴族様が」
フィールはそこで言葉を切って、蓮の顔を見た。
蓮がきょとんとしているのを見て、小さく息を吐いた。
「……本当に、何も知らないのね」
「悪い」
「子どもでも知ってることよ」
そう言いながら、フィールは焚き火の向こうの暗い砂漠を指した。
「この世界はミッドランド。真ん中に王様の城があって、そのまわりを十四の国が囲んでいるの。国ごとに貴族様が一人いて、それぞれが一つずつ、王様から力を授かっている」
「力」
「水を出す力。炎と氷を操る力。傷を治す力。……私たちが仕えているのは、移動の貴族様。見える所へ跳ぶ力よ。その力のことを、スキルって呼んでる」
「王様は」
「お城にいらっしゃるわ。でも、お姿を見たことがある人なんて、ほとんどいない。世界を回しているのは貴族様たちよ」
「さっきの石は、その貴族様の力を」
「そう。石に込めて、私たちが持ち歩くの」
フィールの手が、腰の革袋の上に置かれた。
「水の国の石があるから、こんな砂漠でも水に困らない。回復の国の石があるから、怪我をしても帰ってこられる。どこの国の人も、貴族様の力で暮らしてるのよ」
「それに、貴族様には何も効かねえんだ」
横から口を挟んだのは髭面の兵だった。聞かなかったことにしろと言われた手前、気まずそうにしながらも、黙っていられなかったらしい。
「剣も矢も、魔物の牙も通らねえ。力と一緒に王様からもらう守りだ。加護ってんだよ」
「……誰も、傷つけられない?」
「だから俺たちは安心して暮らせるってわけだ」
髭面の兵は自分のことのように胸を張った。
蓮はフィールを見た。
フィールは頷いた。迷いのない頷き方だった。
この世界の人間にとって、それは疑う必要のないことなのだと蓮は思った。
「じゃあ、あんたたちは」
「従士よ」
フィールは言った。
「貴族様にお仕えして、石を預かって、魔物を狩ったり、こうして遠くまで調べに出たりする。私たちは移動の第二部隊。外周の端まで行って、帰るところだったの」
「外周の端」
「この砂漠の、ずっと先。十年に一度、端まで行って、異常がないか確かめるの」
「端には、何があるんだ」
蓮は訊いた。
フィールは少し不思議そうな顔をした。
「海よ」
「海」
蓮の胸のどこかが、小さく跳ねた。
海に落ちたはずだった。
「どんな海だった」
「どんなって」
フィールは少し考えた。
「青くて、広かったわ」
それだけだった。
蓮はもう少し何か続くのを待った。波の音とか、潮の匂いとか。
フィールはそれ以上何も言わなかった。言うことがないという顔だった。
蓮もそれ以上は訊かなかった。
何を訊けばいいのか、まだ分からなかった。
夜が更けて、兵たちは交代で眠り始めた。
蓮は眠れなかった。借りた外套にくるまって火の端に座っていた。
フィールも起きていた。見張りの番だった。
「蓮」
フィールが火の向こうから言った。
「これから、どうするつもり」
「……分からない」
蓮は正直に言った。
「帰る方法があるのかどうかも、分からない」
「帰りたいの」
蓮は少し考えた。
直哉の顔が浮かんだ。佐伯の横顔。田村さんの背中。あの三人がどうなったのか、蓮には分からなかった。
「確かめたい」
蓮は言った。
「あいつらが、どうなったのか」
フィールはしばらく黙っていた。
火に小枝をくべた。
「どこの村の生まれでもない人間が、一人で暮らしていけるほど、この世界は甘くないわ」
フィールは言った。
「仕事ももらえない。家も借りられない。何かあっても、誰も庇ってくれない」
蓮は黙って聞いていた。
「従士にならない?」
フィールは言った。
蓮は顔を上げた。
「従士の養成所は、生まれを問わないの。試験に受かれば、それでいい。受かれば身分がもらえる。……それに、移動の部隊は国の境を越えて動ける。どこへでも行くわ。帰る方法を探すなら、一つの村に閉じこもっているより、ずっと見て回れる」
「危ない仕事なんだろ」
「危ないわよ」
フィールはあっさり言った。
「さっきみたいなのと、これから何度も向き合うことになる」
蓮は焚き火を見た。
あの毒針を思い出した。月明かりを鈍く照り返していた先端を。
それから、そこへ跳んできた兵たちの背中を思い出した。
「……なるよ」
蓮は言った。
「従士に」
フィールは小さく頷いた。
頷いて、また焚き火の方へ目を戻した。
「なら、明日から歩き方を覚えて。砂の上の」
「歩き方」
「今日のあなた、半日歩いただけで死にかけてたもの」
フィールの口の端が、ほんの少しだけ上がった。
初めて見る顔だった。
砂漠を抜けるのに四日かかった。
五日目の朝、荒れ地の向こうに低い城壁が見えた。
城壁の内側に、石造りの家々が整然と並んでいた。その真ん中に、ひときわ大きな館が建っていた。館の屋根の上を、鳥が何羽も飛び交っていた。どの鳥も、足に小さな筒をつけていた。
「着いたわ」
フィールが言った。
「移動の国の、都よ」
蓮は城壁を見上げた。
知らない国の、知らない都だった。
それでも砂漠よりはずっと、人の匂いがした。




