紅き砂海、迫る死
目を開けた瞬間、蓮の網膜に飛び込んできたのは、どこまでも続く赤茶けた砂の海だった。
海に落ちたはずだった。機体が真っ逆さまに墜落し、眼下に広がっていたのは間違いなく青い海面だった。それなのに今、蓮の頬を撫でるのは湿った潮風ではなく、肌を焼くような乾いた熱風だ。口の中はざらつき、喉の奥にまで砂の匂いが染み渡っている。
体を起こす。
着ていたはずの服はひどい有様だった。ところどころ焼け焦げ、破れ、色という色が抜け落ちている。袖を掴むと、布はまるで古い紙のように指の間でぼろりと崩れた。
それなのに。
体のどこにも、痛みがない。
腕を見た。脚を見た。擦り傷一つなかった。
おかしい、と思った。
思っただけだった。喉が渇いていた。
――どういうことだ。ここは、どこだ。
立ち上がり四方を見渡しても、答えなど返ってくるはずもない。視界の果てまで埋め尽くすのは、風に波打つ砂丘の稜線だけ。太陽はやけに近く、やけに白く、容赦なく蓮の全身から水分を奪っていく。
「直哉! 佐伯! 田村さん!」
叫んだ。
声は乾いた空気に吸い込まれるようにして、あっけなく消えていった。
蓮は歩き出した。歩く以外に、何ができるというのか。当てもなく、ただ足を前に出し続けた。一歩。また一歩。
喉の渇きが限界を超え、頭がぼんやりとしてくる頃には、太陽がずいぶんと傾いていた。数時間は歩いただろうか。それでも景色は変わらない。同じ砂丘。同じ空。同じ静けさ。
やがて日は落ち、砂漠は凍えるような夜に変わった。
空には白々とした月が浮かんでいた。
もう駄目かもしれない。そう思い始めた時だった。
背後の砂が、かさり、と乾いた音を立てた。
振り返った蓮の目に映ったのは、体長二メートルはあろうかという巨大な蠍だった。
艶やかな黒褐色の甲殻に覆われた体。天を突くように反り返った毒針。こちらを捉えて微動だにしない、無数に並んだ複眼。
それが、一匹ではない。
左右の砂丘の陰から、次々と同じ姿の化け物が現れる。じりじりと、しかし確実に、蓮との距離を詰めてくる。
あれは動物ではない。少なくとも、蓮の知るどんな生き物でもない。
考えるより早く、蓮の足は砂を蹴っていた。
走る。
走る。
走る!!
振り返る余裕などない。背後から響く無数の脚が砂を掻く音だけが、確実に迫ってくる。
ザザッ。ザザザッ。
右からも。左からも。
囲まれている。逃がさないように左右から回り込んで、退路を塞いでいる。
狩られている。
足がもつれる。息が上がる。喉が焼けるように痛む。止まれば終わりだと分かっているのに、体力はとうに底をついていた。乾いた砂に足を取られ、蓮の体は無様に転がった。
顔を上げる。
すぐそこまで迫った毒針が、月明かりを鈍く照り返していた。
ああ。
駄目だ。
その瞬間、不思議なほど頭の中が静かになった。
訓練校で肩を組んで笑っていた直哉の顔。愚痴を言い合いながら隣にいてくれた佐伯の横顔。不器用な優しさで支えてくれた田村さんの背中。
熱にうなされた、あのアパートの夜。ぬるい粥の味。
――それ、生き延びてるだけだろ。
――ありがとう。お前らのおかげで、俺は独りじゃなかった。
目を閉じた。
ヒュンッ。
空気が裂ける音がした。
目を開ける。
蓮と蠍の群れの間に、人影が並んでいた。
ついさっきまで誰もいなかった場所だった。足音も、砂を踏む音もしなかった。月明かりを背に、剣と盾を構えて隊列を組んでいた。
跳んできた。
そうとしか思えなかった。
「――伏せて!!」
先頭の一人が叫んだ。
若い女の声だった。
腰の剣が一閃した。
ザシュッ!!
蓮の頭上をかすめた毒針ごと、蠍の一匹が両断された。
少女だった。整った顔に、張りつめた鋭さがあった。肩越しに砂に伏せたままの蓮を一瞥すると、怒っているような、ほっとしたような声で叫んだ。
「動けるなら今すぐ立って! 輪の真ん中まで下がって、そこから絶対に出ないで!」
蓮はただ夢中で頷いた。
砂を掻くようにして立ち上がり、よろめきながら後ろへ下がる。兵たちがさっと左右に割れて蓮を通し、すぐにまた隙間を閉じた。気づけば蓮は、剣と盾を外へ向けた兵たちの輪の、ちょうど真ん中に立っていた。
誰なのか。何が起きているのか。何一つ分からなかった。
ただ、自分はまだ生きていた。
輪の外で、少女と兵たちが蠍の群れへ斬りかかっていく。剣が閃く。甲殻が砕ける。砂が舞う。
蓮は輪の真ん中で膝をついた。
もう立っていられなかった。
それでも目は閉じなかった。
月明かりの下で剣を振るう、少女の背中を見ていた。




