さよなら
「お前、いっつも一人で飯食ってるよな」
悪びれもせず、声をかけてきたのは橋本直哉という同級生だった。
物心ついた頃には、蓮の隣には誰もいなかった。当たり前に隣にいてくれる誰かというものが、蓮には存在しなかった。両親はなく、親戚と呼べる人間もなく、施設を出た十八の春から彼はずっと一人だった。一人で飯を食い、一人で泣き、一人で笑って、それを当たり前だと何度も自分に言い聞かせて、ようやく当たり前になった。天涯孤独。その四文字は蓮にとって呪いであると同時に、これ以上何も失わずに済むという免罪符でもあった。
だから職業訓練校の教室で隣の席に座った男――橋本直哉が声をかけてきた時、蓮は反射的に身構えた。何を企んでいるのか。何を求めているのか。理由もなく誰かが近づいてくるということが、蓮にはどうしても信じられなかった。
けれど直哉は蓮の警戒などまるで意に介さず、コンビニの唐揚げ弁当を机の上にどかりと置いて、当然のように隣に座り続けた。次の日も。その次の日も。
蓮はそのたびに少しずつ席をずらした。話しかけられれば短く答え、笑いかけられれば目を逸らした。近づいてくる人間は、いつか離れていく。だったら最初から、隣に誰もいない方がいい。失うものがなければ、失わずに済む。そう考えていた。
訓練校に通い始めて三か月目。蓮は熱を出した。
ただの風邪だと思っていた。だが熱は三日経っても下がらず、四日目の朝には布団から起き上がることもできなくなっていた。狭いアパートの天井がぐるぐると回る。喉が焼けるように渇くのに、台所の水道まで這っていく力が出ない。スマートフォンの連絡先には、訓練校の事務室と施設の番号しか入っていなかった。
――このまま、ここで死んでも。
誰も、気づかないんだろうな。
そう思った時、怖さよりも先に妙な納得があった。そうだ。一人で生きるというのは、こういうことだ。分かっていたはずだ。
玄関のチャイムが鳴った。
一度。二度。それから、ドアを乱暴に叩く音。
「おい、蓮! いるんだろ! 開けろって!」
直哉の声だった。
どうやって住所を知ったのかは、後で聞いた。事務室に頭を下げて無理やり聞き出したのだという。三日も連絡なしで休むなんて、お前らしくない、と。
鍵を開けるのにずいぶん時間がかかった。ドアの向こうに立っていた直哉は、スポーツドリンクとレトルトの粥がぎっしり詰まったコンビニの袋を両手に提げていて、蓮の顔を見るなり盛大に顔をしかめた。
「うわ、ひでえ顔。ほら、寝てろ寝てろ」
直哉は勝手に上がり込み、勝手に台所を使い、勝手に粥を温めて、布団の横にどかりと座った。
「……なんで、来たんだよ」
かすれた声で蓮は言った。
「三日もお前の顔見なかったからだよ。お前、休んだことなんか一回もなかったろ。そりゃ心配にもなるって」
「……それだけで、わざわざ」
「それだけで十分だろ」
直哉はスプーンを蓮の手に押しつけた。
「お前さ。一人で生きていけるって顔してるけどさ」
直哉は少し考えるような顔をした。
「それ、生き延びてるだけだろ」
蓮は答えられなかった。
「俺はさ、誰かと馬鹿みたいなことで笑ってる方がいいんだよ。だから、お前の隣に座ってんの。それだけ」
直哉は照れくさそうに頭を掻いて、それきり粥の話しかしなかった。
粥は少しぬるかった。
味もよく分からなかった。
それなのに一口すするたびに目の奥が熱くなって、どうしようもなかった。
それから、蓮は席をずらすのをやめた。
気づけば昼休みは三人になり、五人になり、半年が過ぎる頃には蓮の周りにはいつも誰かの笑い声があった。今度は蓮の方から声をかけることも覚えた。一人で飯を食っている誰かを見つけると、放っておけなくなった。あの日の直哉がそうしてくれたように。
誰かが、蓮の名前を呼ぶ。
それだけのことがこんなにも胸を温めるのだと、蓮は二十歳を過ぎてから初めて知った。
資格を取り、訓練校を卒業し、蓮は都内の中堅商社に就職が決まった。直哉は別の会社に入ったが、週末になると決まって「飲み行こうぜ」と連絡をよこしてきた。
配属先の営業二課で出会った先輩の田村さんは、失敗ばかりの蓮を怒鳴りもせず根気強く付き合ってくれた。同期の佐伯とは、残業終わりに愚痴を言い合う仲になった。
ある週末、蓮は二人を直哉との飲み会に誘ってみた。自分から誰かを誘うのは、それが初めてだった。
心配は最初の一杯で消えた。直哉は田村さんと十年来の友人のように笑い合い、佐伯とは好きなラーメン屋の話で店員に注意されるほど盛り上がった。その日から、週末の飲み会は四人になった。
蓮が天涯孤独だと知っても、誰も態度を変えなかった。ある晩、酔った直哉がジョッキを掲げて「じゃあ余計に、俺らがいるじゃん」と笑い、田村さんと佐伯が「そうそう」と当たり前のように頷いた。
蓮は笑って、ジョッキを合わせた。
手が少しだけ震えていたのを、誰にも気づかれなかったと思う。
社会人二年目の夏、直哉が四人でハワイへ行こうと言い出した。「パスポート初めて取ったわ」と佐伯が笑い、「蓮、絶対はしゃぎすぎて日焼けで死ぬタイプだろ」と田村さんにからかわれた。蓮は言い返しながら、取ったばかりのパスポートを何度も鞄の中で確かめていた。
出発当日。成田空港の搭乗ゲート前で、四人は眠い目をこすりながら笑い合っていた。直哉が撮った集合写真の中で、蓮は柄にもなく満面の笑みを浮かべている。搭乗案内のアナウンスが響き、列に並びながら佐伯が「向こうに着いたら真っ先に海入ろうね」とはしゃぎ、田村さんが「日焼け止め忘れんなよ」と釘を刺した。
機体がゆっくりと滑走路を走り出し、窓の外の景色が加速していく。ふわりと体が浮くような感覚とともに機体が空へ舞い上がった。蓮は思わず窓に額を寄せて、小さくなっていく成田の街並みを眺めていた。
隣の席で、直哉がもう寝息を立てていた。
――ああ。俺は今、ちゃんと幸せなんだな。
そう思った、次の瞬間だった。
機体が大きく傾いだ。
シートベルト着用サインが甲高い電子音とともに点滅し、機内アナウンスが悲鳴じみた早口に変わる。窓の外、雲の切れ間から見えるはずのない光が奔り、機体全体を殴りつけるような衝撃が突き上げてきた。
悲鳴。怒号。荷物が天井から降り注ぐ音。酸素マスクが次々と落ちてくる乾いた音。直哉が何かを叫んでいる。佐伯が蓮の腕を掴んでいる。田村さんの顔が蒼白に染まっている。
傾いた翼の上に。
誰かが、立っていた気がした。
吹き荒れる風の中で、髪一本揺らさずに。
瞬きをした。もう、いなかった。
視界が激しく回転する。上も下も分からない。直哉の声が遠ざかる。腕を掴んでいたはずの佐伯の手の感触が、ふっと消えた。
最後に見えたのは、窓の外いっぱいに迫ってくる、どこまでも青く逃げ場のない海だった。




