立派な最期
目の前が、少しずつ戻ってきた。
悪魔の姿は、どこにもなかった。
体が動かなかった。指一本、言うことをきかなかった。目だけが開いていて、目の前のものを映していた。
地面が、大きく抉れていた。
土が黒く焦げて、あちこちに亀裂が走っていた。
抉れた地面の真ん中で、黒い砂が、風に吹かれて細く散っていた。
少し離れた所に、テルモとタイタンがいた。
タイタンが、赤黒く焼けた手でテルモの肩を掴んでいた。もう片方の手で、回復の石をテルモの体にかざしていた。テルモもタイタンの腕に触れたまま、自分の石を掲げていた。二つの淡い光が、何度か明滅した。
タイタンが、踵を返した。
こちらへ。
違った。
ムーヴの方へ。
「ムーヴ殿!!」
叫び声が、蓮の耳にも届いた。
テルモがムーヴの傍らに膝をついた。手を取った。震える手で、上級の回復の石をかざした。
光が放たれた。
何度も。
何度も。
ムーヴは、指先一本動かなかった。
タイタンも石をかざした。光が重なった。
ムーヴは動かなかった。
やがて、二人は手を離した。
「……ムーヴ殿」
タイタンが、絞り出すように言った。
「立派な最期であった」
蓮の後ろに、あの青年が立っていた。
テルモとタイタンが、ゆっくりと青年の前に歩み寄った。
そして、深く頭を垂れた。
「――すまぬ」
テルモが顔を上げた。
青年の顔を、じっと見た。
悼む目ではなかった。何か信じられないものを見る目だった。
「……魂に、刻まれたか」
儀も経ずに。この戦場で。
問いの奥に、そう聞こえた。
青年は、迷わなかった。
「……はい。私が、後継者です」
その声を最後に。
蓮の目の前は、また暗くなった。
次に目を開けた時、蓮は知らない天井を見ていた。
寝台の上だった。
横に、フィールが座っていた。
蓮が目を開けたのに気づいて、フィールは大きく息を呑んだ。
「――ああ」
声が震えていた。
「良かった……」
三日、目を覚まさなかったのだと、フィールは言った。ここは移動の館の一室だった。ムーヴの館だった。
フィールは、聞いた話を順に話してくれた。
悪魔は、とどめを刺されたその瞬間に、自爆したのだという。
タイタンは自身の力で、その衝撃に耐えた。テルモは、傍らの護衛が身を投げ出して、命を拾った。二人はすぐに互いに触れて回復の石を使い、ムーヴのもとへ駆けつけた。
ムーヴは、もう息をしていなかった。
「イライザさんと、クレベスさんも……」
フィールの声が途切れた。
膝の上で組んだ指に、力がこもった。
一つ、息を吸い直した。
「……ムーヴ様に、覆いかぶさったまま。亡くなっていたって」
あの青年は、キネシスという名だった。ムーヴの後継者として育てられていたのだという。まだ教えの途中で、ムーヴは大勢に守られた行軍で、戦場の空気を見せておくつもりだったらしい。
蓮が生き延びたのは、そのキネシスのすぐ前に立っていたからだった。キネシスは上級の結界の石を預かっていて、悪魔の間近へ跳ぶ時、それを使っていた。その守りが、蓮に届くはずだった衝撃を、大きく削いでくれたのだった。
蓮は天井を見ていた。
生きている。
あの時、悪魔の手が下を向いた。
蓮は、それを見ていた。
見ていたのに。
イライザは、蓮より先に見ていた。クレベスも動いていた。誰もが勝ったと思ったその瞬間に、二人は主の前へ身を投げ出していた。
蓮は、立っていただけだった。
――悪魔の指一本、貴族様に触れさせるな。
――盾となれ。
あの時、自分が動いていたら。
自分が盾になっていたら。
「……俺が」
声が出た。
「俺が、動いてたら」
フィールが、手を伸ばした。
何も言わずに、蓮の体を抱きしめた。
「――あなたは、生きて帰ってきたわ」
「何も、してない」
蓮の声が潰れた。
「何も……!」
涙が、勝手にあふれた。
フィールは何も言わなかった。
ただ、抱きしめていた。
どれくらい経ったのか、分からなかった。
蓮はフィールの肩から顔を上げた。
それから、思い出した。
「……フィール」
「うん」
「俺の外套、どこにある」
フィールは少し不思議そうな顔をした。
寝台の脇の椅子に、畳んで掛けてあった。焦げて、裾が破れていた。
蓮は手を伸ばして、外套の内側を探った。
あった。
布の包みだった。端が少し焦げていた。それでも、破れてはいなかった。
蓮はそれを、フィールの膝の上に置いた。
「イライザさんから」
フィールの手が止まった。
「道中で、預かった。……帰ったら、すぐに渡してって」
フィールは包みを見下ろしていた。
しばらく、動かなかった。
それから、ゆっくりと紐を解いた。
革の手袋が一組、出てきた。
柔らかく鞣した茶色い革だった。手首に細い紐が通してあった。
「隊長になったお祝いに、作らせたって」
蓮は言った。
「渡しそびれたまま、一年経ったって。……帰ってからだと、また渡しそびれる気がするから、って」
フィールは手袋を手に取った。
指先を、親指でなぞった。
そこだけ、革が薄く削いであった。
「……あの子、剣を握る時に手首が硬いでしょう、って」
蓮は、イライザの声を思い出しながら言った。
「昔、叩きすぎたせいかもしれないって。……これなら、指先で柄が分かるからって」
フィールの肩が、小さく震えた。
手袋を握りしめていた。
声は出さなかった。
唇を噛んで、手袋を胸に押し当てていた。
さっきまで蓮を抱きしめていた人が、今は自分の膝の上で、手袋を抱えて震えていた。
蓮は、フィールの背中に手を置いた。
それしか、できなかった。
しばらくして、フィールは手袋を片方、右手にはめようとした。
指先まで入れかけて、止まった。
そのまま、そっと抜いた。
「……まだ、着けられない」
フィールは手袋を二つ揃えて、元の布で丁寧に包み直した。焦げた端を、指でそっと撫でた。
「これを着けたら、汚れるもの。剣を握って、血がついて」
フィールは包みを膝の上に置いて、両手で押さえた。
「いつか。……イライザさんと一緒に行かなきゃいけない時が来たら。その時に着ける」
それから、包みを押さえている自分の素手を見下ろした。
「……まず、手を見なさい」
フィールが、小さく言った。
蓮は顔を上げた。
「イライザさんの口癖。……毎朝、枝で叩かれながら、そればっかり言われてた」
フィールは包みの上で、素手をゆっくりと握った。
「あなたも、言われたのね」
「……言われた」
「そう」
フィールは少しだけ笑った。
泣きながら、笑った。
「なら、あの人の弟子は、二人になったのね」
窓の外で、鳥が鳴いていた。
足に小さな筒をつけた、伝書の鳥だった。




