崩れゆく確信
百人近い従士が、一つの生き物のように隊列を保ったまま、荒れ野を駆けていった。
地を蹴る足音が重なって、地面そのものが震えていた。
その最中に、ムーヴの姿が蓮の隣からふっと消えた。
「――このまま走って!!」
イライザが叫んだ。
蓮は走り続けた。
数呼吸で、ムーヴは元の場所に戻ってきた。
一人ではなかった。
隣に、青年が一人立っていた。
細身で、背筋がまっすぐだった。謁見の間でいつもムーヴの半歩後ろにいた、あの若い男だった。腕に書類の束はなかった。代わりに、腰に淡く光る石を一つ下げていた。
青年は何も言わずに、当たり前のようにムーヴの半歩後ろについて走り出した。
あの馬車の、紙をめくる音。
イライザにはぐらかされた問いの答えが、一瞬だけ蓮の頭の中で繋がった。
考えている暇はなかった。
「寄れ」
ムーヴが言った。
イライザとクレベスが、ムーヴの両脇にぴたりと寄った。蓮も慌てて詰めた。青年は、もうムーヴの背に触れるほど近くにいた。
五人が、ムーヴの数歩の中に収まった。
「――跳ぶ」
景色が、塗り替わった。
さっきまで目の前にあった荒れ野の土の色が、別の色に変わっていた。
蓮は振り返った。
黒い背中があった。
翼があった。
悪魔の、真後ろだった。
悪魔の向こうに、駆けてくる隊列が見えた。百人近い従士が、波のように押し寄せてきていた。先頭に、ギードがいた。
悪魔は、そちらを向いていた。
蓮たちには、背を向けていた。
その右手が、上がった。
手のひらが、押し寄せる隊列の方を向いた。
手のひらの先に、光の線が走った。
円を描いた。
内側に、線が編み込まれていく。
一つ。
二つ。
三つ。
――手が。
イライザの練習室で見たのと、同じだった。
ずっと大きかった。
「伏せろおおおッ!!」
蓮は叫んだ。
届く距離ではなかった。
カッ!!
閃光が、荒れ野を白く染めた。
ドゴォォォォンッ!!
音が、腹の底を殴った。
土が噴き上がった。
隊列の真ん中に、黒い煙の柱が立った。
煙の中から、人が飛んだ。
一人。
五人。
数えられなかった。
土煙が晴れていった。
押し寄せていた波は、もうなかった。
荒れ野に、人が転がっていた。動かない人が、数えきれないほど転がっていた。
立っている者は、まばらだった。
ギードが、片膝をついて剣を杖にしていた。その周りに、ほんの数人。
百人近くいた隊が。
一度で。
蓮の喉から、声にならない音が漏れた。
「……見ないで」
隣で、イライザが言った。
声が低かった。
「今は、前だけ見なさい」
左の方で、土が鳴った。
タイタンだった。上級の移動の石で跳んできたのだった。傍らに、力の国の従士が三人。
右に、テルモが現れた。こちらも傍らに護衛が三人。
ムーヴと五人が後ろ。タイタンが左。テルモが右。
前には、ギードと、生き残ったわずかな者たち。
悪魔は、囲まれていた。
十数人に。
悪魔がゆっくりと振り返った。
黒い肌。赤く光る目。歪な翼。
国境の森で見た、あの悪魔だった。
蓮が斬りつけた腕に、もう傷はなかった。
力の国の護衛が三人、左右から一斉に斬りかかった。
悪魔は、見もしなかった。
腕を一本、横に払っただけだった。
バキィッ!!
ドガッ!!
三人の体が木の葉のように宙を舞って、地面に叩きつけられた。
動かなかった。
「――ラアアアッ!!」
タイタンが吼えた。
石の力で、悪魔の目の前へ跳んだ。
岩のような拳が、まっすぐに悪魔へ。
悪魔はそれを、腕で受け止めた。
ガァンッ!!
拳と腕がぶつかった。空気が軋んだ。
タイタンは離れなかった。受け止められた拳をそのまま押し込んで、もう片方の手で悪魔の腕を掴んだ。
組み合った。
その瞬間、離れた所からテルモが手を上げた。
「――絶炎ッ!!」
悪魔の真上に、炎の柱が立った。
ゴオオオオオオッ!!
紅蓮の柱が、悪魔の体だけを呑み込んだ。組み合ったタイタンは焼かれていなかった。すぐ傍の地面の草が、一瞬で黒く縮れた。離れた蓮の頬にまで、灼けるような熱が届いた。
一呼吸。
二呼吸。
悪魔の腕を掴むタイタンの両腕から、白い煙が上がり始めた。
炎は、タイタンを焼いていない。テルモの炎は、悪魔だけを選んでいる。
それなのに、悪魔を握りしめるタイタンの手が、手首が、前腕が、赤く爛れていった。
燃え上がる悪魔の体の熱が、組み合った腕を、じりじりと炙っていた。
――貴族様には、加護があるんじゃないのか。
三呼吸。
「ぐ……ッ、おおおッ!!」
タイタンが歯を食いしばって、悪魔の腕を突き放した。石の力で、炎の外へ跳んだ。
着地したタイタンの両腕は、肘の先まで赤黒く焼けていた。
それでもタイタンは顔色一つ変えずに、炎の柱を睨んでいた。
炎が勢いを失って、消えた。
悪魔は、立っていた。
両腕は半ばまで焼け落ちていた。体の半分以上が、炭になっていた。
それでも、立っていた。
「まだ動くのか……!!」
誰かが叫んだ。
テルモが、間を置かずに手を上げた。
「もう一度だ――絶炎ッ!!」
炎の柱が、再び悪魔を包んだ。
だが。
今度は、違った。
悪魔が、歩き出した。
燃え盛る炎の中を。
何もないかのような足取りで。
テルモの方へ。
焦げ跡が、一つも増えていなかった。
誰も、声が出なかった。
一度目は、あれほど焼けたのに。
二度目は、何も起きなかった。
「――いくぞ」
ムーヴが言った。
景色が歪んだ。
気がつくと、蓮は悪魔のすぐ横に立っていた。
ムーヴ。青年。イライザ。クレベス。蓮。
五人が、悪魔の間合いの中に跳んでいた。
同時に、反対側からタイタンが躍りかかった。
挟み撃ちだった。
ムーヴの剣が、タイタンの拳よりわずかに早く、悪魔の体へ振り下ろされた。
カァンッ!!
弾かれた。
見えない壁に当たったように。傷一つ、つかなかった。
悪魔はムーヴを見もしなかった。半ば焼け落ちた腕で、タイタンの拳を真正面から受け止めた。
ガァンッ!!
組み合った。
タイタンの腕と、悪魔の焼けた腕が、軋みながら絡み合った。
一呼吸。
――今だ。
蓮にも見えた。悪魔の目は、タイタンだけを見ていた。脇腹が、がら空きだった。
蓮がそう思った時には。
イライザは、もう動いていた。
二呼吸。
ザシュッ!!
イライザの剣が、悪魔の脇腹に深々と入った。
通った。
「――ッ!!」
悪魔の顔が、初めて歪んだ。
「離れろ!!」
ムーヴの声と一緒に、景色が飛んだ。
五人は悪魔から十歩離れた所に立っていた。
悪魔は脇腹を押さえたまま、その場に立っていた。
「――よくやった」
ムーヴが言った。
「ありがとうございます」
イライザは、いつもと同じ涼しい声で答えた。
剣を振って、刃の黒いものを払った。
蓮はその剣を見ていた。
――待て。
ムーヴの剣は、弾かれた。
イライザの剣は、通った。
同じ剣なのに。
一度目の絶炎は、焼いた。
二度目は、焼かなかった。
同じ炎なのに。
何が違う。
何が。
「――一気に畳みかける!!」
ムーヴの声が、考えを断ち切った。
景色が、また飛んだ。
今度は、テルモも石の力で輪の中に跳んできていた。
タイタンの手が、悪魔の腕を掴んで引き寄せた。
テルモの手が、炎を纏った。
ムーヴの剣が、振りかぶられた。
三つが、同時に。
ズンッ!!
ムーヴの剣が、悪魔の胸を深々と貫いた。
ゴオッ!!
テルモの絶炎が、悪魔を内側から焼いた。
ドゴォッ!!
タイタンの拳が、悪魔の腕を突き破って、腹へめり込んだ。
――倒した。
誰もが、そう思った。
蓮も、そう思った。
剣を構えることも忘れて、崩れていく悪魔を見ていた。
だから、見えた。
焼け焦げた腕の先。
炭になりかけた、悪魔の手が。
ゆっくりと。
手のひらを、下へ向けた。
――まず、手を見なさい。手が先に動くの。
イライザの声が、耳の奥で鳴った。
さっき、隊列を吹き飛ばした時と、同じだった。
手のひらの先の地面に、光の線が走った。
――手が。
しゃべった。
その時にはもう、イライザとクレベスが、ムーヴに向かって身を投げ出していた。
イライザは、蓮より先に見ていた。
蓮の体は。
動かなかった。
次の瞬間。
言葉にならない衝撃が、蓮の全身を打ちのめした。
目の前が、白く塗り潰された。
蓮の意識は、そこで。
途切れた。




