一斉射撃
南門が開いてから、半刻ほどが過ぎた。
誰も口をきかなかった。百人近い従士が、開いた門の向こうの荒れ野を、黙って見ていた。
日は沈みきって、地平の縁だけがまだ赤かった。
蓮は剣の柄を握りしめていた。
気がつくと、指の一本一本に力が入っていた。腕が痺れ始めていた。それでも、手を緩められなかった。
こつん、と。
手首を、指先で軽く叩かれた。
イライザだった。前を向いたまま、蓮の右の手首を、人差し指で一度だけ叩いていた。
道中の朝の、枝と同じ所だった。
「その手」
イライザは前を見たまま、小声で言った。
「今から斬ります、って叫んでるわよ」
蓮は自分の手を見下ろした。
柄を握る指の節が、白くなっていた。
「柄は、小鳥を持つくらいでいいの。握り潰さないように。逃がさないように」
イライザの声は、いつもと変わらなかった。
「力を入れるのは、斬る時だけ。……それまでは、手を黙らせておきなさい」
蓮は息を吐いた。
指をほどいて、握り直した。
小鳥を持つくらいに。
腕の痺れが、少しずつ引いていった。
「それから」
イライザは言った。
「あなたの持ち場は、前じゃないわ。……ムーヴ様のまわり、全部よ」
蓮は顔を上げた。
前ばかり見ていた。門の向こうの、悪魔がいるはずの所ばかり。
蓮は首を回した。
右にクレベスがいた。左にイライザ。後ろにムーヴ。その向こうに、炎氷の隊と力の隊。篝火。南門の両脇の壁。
全部を、一度に見た。
イライザは何も言わなかった。
口の端が、ほんの少しだけ上がっていた。
――ざわ。
前の方の隊列が、かすかに揺れた。
誰かが、何かを見つけた。
「……波状陣」
ギードの声がした。
大きな声ではなかった。それでも、全員の耳に届いた。
従士たちが、一斉に動いた。隊列が崩れて、組み替わった。波が打ち寄せるように、幾重にも並んだ列。何度も叩き込まれた動きが、乱れなく形になった。
「……一斉射撃、用意」
ムーヴのまわりを固める蓮たちを除いた全員が、弓を構えた。
ギードの片腕が、ゆっくりと上がった。
ざわめきが消えた。
弦を引く音だけがした。
百本近い弦が、一斉に引き絞られる、細い音。
それも止まった。
蓮の耳には、自分の心臓の音しか聞こえなかった。
ギードの腕が。
振り下ろされた。
ビィンッ!!
弦の音が、何重にも重なって夕闇を裂いた。
百本近い矢が、空に上がった。
ほとんど散らばらなかった。一つの塊になって、遠くの一点へ吸い込まれていった。
あれだけの数で、あれだけ遠くへ。
揃っていた。ぞっとするほどに。
矢が、地に届く。
その瞬間。
ムーヴの姿が消えた。
少し離れた所にいたテルモとタイタンも、同時に消えていた。
「――そのまま」
イライザが言った。
「動かないで」
蓮は剣を構えたまま、その場に立っていた。
手を、小鳥を持つくらいに握っていた。
今、遠いあの場所で、三人の貴族様が悪魔と向き合っている。
一呼吸。
二呼吸。
三呼吸。
四呼吸目で。
ムーヴが、元の場所に戻ってきた。
テルモとタイタンも、それぞれの隊の中に戻っていた。
三人とも、無傷だった。
早すぎた。
蓮がそう思った、次の瞬間だった。
「――全軍、突撃ッ!!」
号令が、夕闇を裂いた。
従士たちは迷わなかった。波状の隊列のまま、一斉に地を蹴った。悪魔がいるはずの一点へ。
蓮も駆け出した。
奇襲が、しくじった。
それしか考えられなかった。うまくいったなら、この号令は出ないはずだった。
――奇襲がしくじったら、従士は悪魔へ突っ込む。乱戦にして、悪魔の目を散らせ。貴族様が仕掛ける隙を作れ。
ギードの声が、耳の奥で鳴った。
盾になれ。
蓮は走った。
すぐ前を、イライザの黒髪が揺れていた。
イライザは走りながら、一度だけ振り返った。
蓮の手を見た。
それから、何も言わずに前を向いた。




