届かぬ剣、視えぬ魔法
翌日、討伐の隊は宿に留め置かれたまま、見張りからの報せを待つことになった。
いつ報せが来るか分からない。来るまでは、することがなかった。
蓮には、一つ気がかりがあった。
弓だった。
ギードの作戦では、悪魔を見つけたら従士が一斉に矢を放つ。全部の矢が、一呼吸のずれもなく同時に届くように。
蓮は弓が得意ではなかった。養成所では剣の型を覚えるので手一杯で、弓は人並みにも引けなかった。あの輪の中で一人だけ遅れたら、全部が崩れる。
朝、宿の食堂でイライザが一人で朝食をとっていた。
蓮はその前に立った。
「イライザさん。少し、いいですか」
「あら。どうしたの、そんな顔をして」
蓮は話した。弓が得意ではないこと。一斉射撃で足を引っ張るかもしれないこと。
イライザは匙を持ったまま、最後まで聞いた。
それから匙を置いて、少し笑った。
「知ってるわよ」
「……知ってる?」
「あなた、弓兵じゃないもの。ムーヴ様もそれを承知で選んでいらっしゃる」
イライザは茶を一口飲んだ。
「あなたは弓を撃たなくていいの。ムーヴ様の傍にいて、まわりを見ていること。それがあなたの持ち場」
さらりとした言い方だった。慰めている響きはなかった。決まっていることを伝えているだけだった。
蓮の肩から、少しだけ力が抜けた。
それから、別のことが気になった。
なら、自分はあの場で何をすればいいのか。
イライザは朝食を食べ終えて、席を立った。
「――ねえ、蓮」
イライザは言った。
「今日は、枝じゃなくて剣でやってみない?」
イライザに連れていかれたのは、街の従士の訓練所の一角にある、がらんとした練習室だった。
イライザは壁際の棚から剣を一振り取って、蓮に渡した。
本物の刃だった。
「イライザさん、これじゃ」
「大丈夫よ。当たらないから」
イライザはそう言って、窓の外の木から折ってきたらしい細い枝を一本、手に取った。
道中の朝と同じ枝だった。
「本気でおいで。道中のは、稽古。今日は手合わせ」
イライザは枝の先を下げて立った。
「教えたこと、覚えてる?」
「……まず、手を見る」
「そう」
イライザは微笑んだ。
「――では、始めましょうか」
次の瞬間。
イライザの姿が、消えた。
ひやり、と。
喉元に何かが触れていた。
枝の先だった。
見えなかった。
手を見ていたはずだった。イライザの右手を、ずっと見ていた。
その手が動いたのが、見えなかった。
「ほら」
イライザが言った。
「本気でおいで?」
枝が喉元から離れた。
蓮は剣を握り直した。
踏み込む。
斬る。
ヒュッ。
空を切った。
返す刀。下段から。
ヒュッ。
枝の先が、刃の腹をちょんと叩いて逸らした。
右。
左。
突き。
ヒュッ。ヒュッ。ヒュンッ。
掠りもしなかった。
蓮はイライザの手を見続けた。
道中の朝、自分の手首はいつも、斬る前に叩かれた。手がしゃべっていたからだった。
イライザの手は、何もしゃべらなかった。
握りが変わらない。手首が向かない。枝の先が、ただそこにある。そう思った時には、もう別の所にある。
蓮の刃が来る場所を、最初から知っているように。イライザの体は、いつもそこから半歩ずれていた。
息が切れた。
腕が上がらなくなった。
蓮が剣を下ろした時、イライザはまだ一歩も息を乱していなかった。
「……手を、見てたんですけど」
「見てたわね。いい目だったわ」
イライザは枝を指先で回した。
「でも、私の手は、しゃべらないようにしてあるの。何年もかけて」
蓮は肩で息をしながら、イライザの右手を見た。
白い手だった。指が長かった。
「しゃべらない手と向き合ったら、どうすればいいんですか」
「その時は、もっとよく見ること」
イライザは言った。
「しゃべらない手でも、何もしないわけじゃないから」
それから、イライザはすっと後ろへ下がった。
距離を取った。
枝を持っていない方の手。左の手のひらを、蓮へまっすぐ向けた。
その手のひらの先に。
見たこともない模様が、音もなく広がっていった。
光の線が円を描いた。
内側に、文字のような線が編み込まれていく。
一つ。
二つ。
三つ。
――なんだ、あれは。
カッ!!
閃光が弾けた。
ドォンッ!!
耳が鳴った。体ごと叩かれた。
蓮は数歩分吹き飛ばされて、練習室の床に転がった。
目の前が白く霞んでいた。体中が痛かった。痛みが、何が起きたのかをようやく教えてくれた。
イライザがゆっくり歩いてきた。懐から回復の石を出して、蓮の上にかざした。淡い光が、痛みを少しずつ引かせていった。
「……今のは」
「魔法よ」
イライザは言った。
「もともとは魔物や悪魔の使う力。人の中にも、覚えて使える者が少しずつ出てきたの」
イライザは石を懐へしまった。
「だいぶ抑えて撃ってもこれよ。あなたはもう戦えなくなった。……悪魔が本気で撃ったら、どうなると思う?」
蓮は答えられなかった。
背中が冷たくなった。
抑えた一撃で、これだった。
「……撃つ時は、手を向けるだけなんですか」
蓮は床に手をついて、体を起こした。
「向けたら、すぐに撃てるんですか」
「いいえ」
イライザは自分の左の手のひらを、蓮の目の前でひらりと返した。
「人の使い手はね、手のひらで陣を編むの。手を向けた先に、陣が生まれる。描き上げて撃てるまでに、数呼吸はかかるわ。その間、撃つ方は無防備よ」
「悪魔は」
「悪魔でも、一呼吸くらいは要るはずよ。……魔物には、角や口で編むのもいるけれど。悪魔がどうやって編むのかは、誰も確かめたことがない」
イライザは、返した手のひらをゆっくり握った。
「でも、悪魔も人の形をしているわ」
イライザは蓮を見た。
「言ったでしょう。まず、手を見ること」
静かな声だった。
「魔法も同じよ。手のひらがどこを向いているか。人の使い手なら、手を塞いでしまえば何も撃てない」
蓮は、さっきの光の模様を思い出した。
イライザの左の手のひらの先に、陣は生まれていた。
剣の手合わせの間、イライザの手は何もしゃべらなかった。
それでも、魔法を撃つ前だけは、手のひらが蓮の方を向いた。
しゃべらない手でも、何もしないわけじゃない。
「……一呼吸」
蓮は呟いた。
悪魔が魔法を撃つ前に、手のひらを向けるなら。その一呼吸の間に、陣を編むなら。
そこだけが、隙になる。
イライザは何も言わずに、蓮を見ていた。
「でも、その一呼吸に間に合わなかったら」
蓮は言った。
「貴族様を守るには、結局、誰かが盾になるしかない」
「そうね」
イライザはあっさり言った。
「だから、撃たれる前に討つの」
イライザは枝を窓の外へ放った。
「誰も盾にしないで済む道は、それしかないわ」
蓮は自分の右手を見下ろした。
剣を握っていた手だった。
あの夜、悪魔に刃が通った手だった。
イライザは練習室の戸口で振り返った。
「手袋、なくしてないわね」
「……はい」
蓮は外套の内側を押さえた。包みの感触があった。
「ならいいわ」
イライザはそれだけ言って、出ていった。




