五人の貴族
エスクーダまでは、五日の道のりだった。
道中、隊は何度か魔物に出くわした。どれも蓮が何度も相手にしてきた、ありふれた魔物だった。第一部隊の三十人は、足を止めることもなく片付けていった。誰も深手を負わなかった。
それでも、剣を振るたびに、蓮の頭にはあの夜が浮かんだ。弾かれた矢。霧のように散った火。跳ね返された剣。
今、目の前にいるのは、ただの魔物だ。
蓮はそのたびに、自分にそう言い聞かせた。
二日目の朝だった。
隊が野営を畳んでいる間、蓮は少し離れた木陰で木剣を振っていた。
「脇が甘い」
後ろから声がした。
振り返ると、イライザが立っていた。手に、拾ったばかりらしい細い木の枝を一本持っていた。
「振ってごらんなさい。私に向かって」
「……木剣で、ですか」
「ええ。当てていいわよ」
イライザは枝を軽く持ち上げた。
構えらしい構えではなかった。ただ、枝の先を下げて立っているだけだった。
蓮は一礼して、木剣を振り下ろした。
こつん。
枝の先が、蓮の右の手首を叩いた。
木剣はイライザに届く前に、横へ流れていた。
「もう一度」
蓮は振った。
こつん。
また手首だった。
「もう一度」
横薙ぎに振った。
こつん。
今度は、振り始める前だった。腕が動くより先に、手首を叩かれていた。
蓮は木剣を下ろした。
叩かれた手首を見た。少し赤くなっていた。
「どうして」
「あなたの手が、教えてくれるのよ」
イライザは枝の先で、蓮の右手を指した。
「どこへ斬るか。いつ斬るか。……あなたの手は、斬る前に全部しゃべってる。握りが変わる。手首が向く。だから、そこを叩けばいいの」
蓮は自分の手を見下ろした。
ガレンに一本ずつ巻きつけさせられた指だった。
「相手を見る時はね」
イライザは言った。
「目を見ても駄目。目は嘘をつくから。剣を見ても遅い。剣が動いた時には、もう斬られてる」
イライザは枝を持っていない方の手を、蓮の前で開いて見せた。
「まず、手を見なさい。手が先に動くの。人も、獣も」
イライザは枝を放り投げた。
「明日の朝も、ここで」
そう言って、イライザは野営の方へ戻っていった。
途中で、荷を積んでいた若い従士の名を呼んで、縄の結び方を直してやっていた。三十八人の誰の名前も、イライザは間違えずに呼んでいた。
それから毎朝、蓮は枝で手首を叩かれた。
三日目の朝は、十回振って十回叩かれた。
四日目の朝は、十回のうち一回だけ、枝が手首に届く前に蓮が木剣を引いた。
「あら」
イライザは少しだけ眉を上げた。
「今の、どうして引いたの」
「……イライザさんの手が、先に動いたので」
イライザは一瞬黙った。
それから、楽しそうに笑った。
「覚えが早いのね。……あの子と同じ」
「あの子?」
「あなたの隊長よ」
イライザは枝の先で、北の空を指した。都のある方だった。
「フィールがまだ従士になったばかりの頃、毎朝こうやって叩いてあげたの。あの子、意地っ張りでね。手首が腫れ上がっても、明日も来ます、って」
蓮はイライザを見た。
フィールの剣の構えを思い出した。肘が低くて、手首が硬い。ガレンの型とは少し違う構えだった。
「隊長になった時、真っ先にお祝いを言いに行ったわ」
イライザは枝を指先で回した。
「……それからは、ほとんど会えてないけれど」
「会えないんですか」
「貴族付きはね、ムーヴ様のお側を離れられないの」
イライザはさらりと言った。
「あの子は外を歩く仕事。私は館の中の仕事。同じ国にいても、すれ違うばかりよ」
四日目の夜、野営の焚き火の前で、イライザが蓮の隣に腰を下ろした。
手に、小さな布の包みを持っていた。
「蓮。頼みがあるの」
「はい」
「帰ったら、これをフィールに渡して」
イライザは包みを開いた。
革の手袋が一組入っていた。
新しかった。柔らかく鞣した茶色い革で、手首の所に細い紐が通してあった。指先だけが、ほんの少し薄く削いであった。
「隊長になったお祝いに、作らせたの。……渡しそびれたまま、一年経っちゃった」
イライザは手袋の指先を撫でた。
「あの子、剣を握る時に手首が硬いでしょう。昔、私が叩きすぎたせいかもしれない。……これなら、指先で柄が感じられるから」
蓮は手袋を見た。
それから、イライザを見た。
「ご自分で渡した方が」
「そうね」
イライザは笑った。
「でも、帰ってからだと、また渡しそびれる気がするの。……あなたなら、帰ったらすぐに会うでしょう」
イライザは包みを閉じて、蓮の手に載せた。
軽かった。
「なくさないでね」
「なくしません」
蓮は包みを外套の内側にしまった。
焚き火の向こうで、無口な貴族付きの男――クレベスが、黙ってこちらを見ていた。
イライザと目が合うと、クレベスは小さく肩をすくめた。
「……何よ」
イライザが言った。
クレベスは何も言わなかった。ただ、口の端がほんの少しだけ上がっていた。
五日目の昼下がり、地平線の向こうにエスクーダの北門が見えてきた。
門のまわりは、見渡す限りの牧場だった。
牛に似た大きな獣が、柵の中で草を食んでいた。丸々と肥えた豚のような獣。けたたましく鳴く、鶏に似た小さな獣。どの柵にも、数えきれないほどいた。
「壮観でしょう」
隣を歩いていたイライザが言った。
「エスクーダは、この国でいちばんの畜産の町よ。……あの大きいのはモーズ。脂が乗っていて、口の中でとろけるの。無事に終わったら、ご褒美に振る舞われるかもしれないわね」
蓮は少し笑った。
それから、柵の中の獣を見た。
悪魔は、生き物の多い方へ動く。ムーヴはそう言っていた。
人の数だけなら、エスクーダより大きな町はいくつもあるはずだった。
それでも悪魔がここへ向かっているのなら、狙いはこの獣たちの方なのかもしれなかった。人も獣も区別せずに。
国境の集落でも、家畜は殺されて、食われもせずに転がっていた。
食べるために殺しているのではないのかもしれない。
蓮はその考えを、口には出さなかった。
北門を抜けて街の中心の広場へ入ると、炎氷と力の国の隊が、もう並んでいた。
三つの隊が合わさると、広場は従士で埋まった。百人に近かった。
隊長たちが手筈を確かめ合い始めた、その時だった。
広場の真ん中の石畳が、淡く光り始めた。
「――なんだ?」
誰かが言った。
光はみるみる強くなった。
そして広場の真ん中に、黒い門が、音もなく立ち上がった。
門の向こうから、人影が歩み出てきた。
一人。
二人。
五人。
炎氷。力。門。洗脳。
それから、移動。
五人の貴族が、そこに揃っていた。
広場の従士たちが、一斉に背筋を伸ばした。誰からともなく、右の拳が左の胸に当てられた。百人近い従士が、一つの音もなく並んだ。
蓮も敬礼をしながら、目だけを動かした。
門から出てきた五人の中に、ムーヴがいた。
やっぱり、と蓮は思った。
あの馬車に、ムーヴは乗っていなかった。
なら、紙をめくっていたのは誰なのか。
隊の最後尾の馬車は、今も帳を下ろしたまま、広場の端に停まっていた。
五人の装いは、それぞれ違った。ムーヴは謁見の時と同じ、飾りのない上衣。炎と氷の模様を織り込んだ上衣の男。袖のない胴着一枚の、岩のような大男。
門を開いた男と、白い衣の女だけは、少し違って見えた。
襟の刺繍が細かかった。女の袖口で、小さな銀の飾りが揺れていた。
貴族様は皆、驚くほど質素だ。前にフィールがそう言っていたのを、蓮はふと思い出した。
岩のような大男が、一歩前へ出た。
広場じゅうの目が、その背中に集まった。




