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番外編 移動する者

番外編 貴族ムーブ

 夜の帳が完全に下りきる頃、ムーヴは自らの力で見張り塔から見張り塔へと跳び継ぎ、「門」の貴族の館へと向かっていた。


 本来なら、伝令の一人でも寄越せば済む話だ。だが、これから伝えねばならない報せの重さを思えば、他人任せになど到底できなかった。


 悪魔が、人の住む地に現れた。


 その一報を聞いてから、ムーヴの頭の中では、幾度となく同じ問いが渦を巻いていた。


 フィールの報告を精査する限り、恐らくは下級。それも、単独での出現。だとすれば、まだ致命的な段階ではないと、そう信じたい自分がいる。だが同時に、油断は決して許されないという冷徹な警戒心もまた、胸の内に根強く居座っていた。


 ――貴族の戦いには、必ず危険が伴う。


 それは、ただの慎重論ではない。この国の歴史そのものだった。


 先々代の時代。ムーヴがこの力を受け継ぐよりもずっと前、悪魔が現れた折、対処にあたった貴族の一人が、その戦いの中で命を落とした。力は儀を経ぬまま、まったく別の血筋へと移り、由緒あった貴族家の一つが入れ替わった。


 その入れ替わった家が、今夜これから訪ねる「門」の家であることを、ムーヴは知っていた。


 貴族は死なない。どんな刃も届かない。民も、従士も、多くの貴族でさえ、そう信じている。


 だが「移動」の家に代々伝わる記録は、それとは違うということを、ムーヴに告げていた。


 だからこそ。今回の一件、できることならば貴族自らが矢面に立つのではなく、王より賜りし天使の力によって収めてほしい。それが、ムーヴの偽らざる本音だった。天使ならば、たとえ損なわれようとも、兵器の損耗として処理される。だが貴族が一人欠けるということは、この国の均衡そのものに、直に亀裂を生じさせかねない。


 跳ぶ。次の塔の火が見える。また跳ぶ。


 ふと、あの新入りの従士の顔が、脳裏をよぎった。


 ――お前が、悪魔に傷を負わせただと?


 あの男は、嘘をついている顔ではなかった。フィールも、見たままを語っていた。


 あり得ないことだった。記録のどこにも、そんな話は載っていない。


 ムーヴは、その一件をゲートに伝えるべきかどうか、跳び継ぎながら考え続けた。


 結論は、塔を三つ越えたところで出た。


 ――まだ、伏せておく。


 理由を問われても、うまくは答えられない。ただ、確かめる前に広めるべき話ではないと、四百年この国の物流と報せを捌いてきた勘が、そう告げていた。




 「門」の貴族の館に着いたムーヴを出迎えたのは、この国のあらゆる移動の要――「門」を司る貴族、ゲートその人だった。


 通された応接間を見回して、ムーヴはわずかに目を細めた。


 壁に掛けられた織物。卓の上の、細工の凝った銀の燭台。磨き上げられた、見慣れぬ異国風の調度。どれも決して華美というほどではない。だが、貴族の館としては、珍しく手が込んでいる。前に訪れた時には、なかったものばかりだった。


 ゲートは、飄々とした掴みどころのない笑みを常に湛えている男だった。その男が、ムーヴの表情を一目見るなり、すっと笑みを引っ込めた。


「――随分と切迫した顔をしているな、ムーヴ殿。何があった」


「単刀直入に申し上げる。悪魔が現れた。国境付近の集落で、私の配下の小隊が遭遇し、十五人中六名を失っている」


 ゲートの纏う空気が、明らかに変わった。飄々とした態度の下に隠していた、貴族としての本来の鋭さが、その双眸に宿る。


「……確かな話か」


「間違いない。生還した従士からの報告だ。私は、王への謁見を願いたい。悪魔への対処、できることならば、天使の派遣をもって当たっていただきたいのだ」


 ゲートは、しばし沈黙した。夜更けの応接間に、重苦しい静寂が満ちる。


「――気持ちは分かる。だが、生憎もう夜だ。王への謁見は、いかに火急の用件であろうと、然るべき手順を踏まねばならん。明朝までに、私の方で王へお伝えし、謁見の許しを取り付けておこう」


「……承知した。急かして悪いが、頼む」


 ゲートは頷き、ムーヴの疲れの色の濃い顔をちらりと一瞥すると、控えていた侍女に目配せをした。


「今夜はもう遅い。客間を用意させる。休めるうちに休んでおけ、ムーヴ殿。明日は、恐らく長い一日になる」


 その言葉に甘え、ムーヴは従士の侍女に連れられて、客間へと足を運んだ。


 寝台に体を横たえても、頭の中を渦巻く不安が消えることはなかった。ムーヴはしばらくの間、浅い眠りと覚醒の狭間を、行きつ戻りつした。




 翌朝。身支度を整えたムーヴが応接間に姿を現すと、そこには、予想していなかった人物の姿があった。


 白を基調とした、どこか神秘的な意匠の衣を纏った、線の細い女性。「洗脳」の貴族、メンタルだった。


「……これは。おはようございます、メンタル殿。何故、ここに」


 ムーヴが訝しげに尋ねると、ゲートが横から、こともなげに口を挟んだ。


「メンタル殿が、今回の件、自分も同行したいと言っていてな。悪魔が出たとなれば民が怯える。民の心を鎮めるのは自分の役目だ、というのが彼女の弁だ」


「どうぞ、よろしくお願いいたしますね、ムーヴ殿」


 メンタルは柔らかく微笑み、両の手を差し出してきた。


 ムーヴは一瞬ためらい、それから、形ばかりに指先だけを触れて、すぐに手を引いた。握手は苦手だった。それだけのことだった。


 ゲートが、幻影のファントム、そしてメンタルの二人と、近頃とくに親しくしているという噂は、ムーヴの耳にも届いていた。とはいえ、それは貴族同士の私的な交友の話であり、深く詮索するようなことでもない。むしろ、人の心に作用する力を持つ彼女が同行するのなら、民の動揺を抑える意味でも心強い。


 ムーヴは、さしたる疑問も抱かぬまま、それを了承した。


「分かった。では――三人で、王のもとへ」


 ゲートが小さく頷き、右手をゆっくりと宙に掲げた。


 何もない虚空に、見る者を圧倒する威容を纏った漆黒の門が、音もなく現れる。


 これこそがゲートの司る力。ミッドランドのあらゆる場所を繋ぎ、そして王城の結界の内へと通じる、ただ一つの道。


 三人の貴族は、その門を潜った。




 門の先に広がっていたのは、ムーヴが五年ごとに足を運んできたはずの、王城の風景だった。


 だが――何かが、おかしい。


 王城の各所には、神が遣わした守りの兵器、天使たちが、寸分の隙もなく警護に立っているはずだった。


 今、ムーヴの目に映る天使たちは、まるで時が止まったかのように、その場に立ち尽くしていた。一切の反応を示さない。精巧に作られた彫像のように、微動だにしない。


「……天使たちが、動いていない?」


 思わず漏れた呟きに、ゲートもメンタルも、怪訝そうに眉を寄せた。


「王のお考えあってのことだろう」


 ゲートが、短く言った。


 奇妙なことに、本来なら厳重を極めるはずの警護をすり抜けるようにして、三人の貴族は、何の妨げもなく、王の間へと続く長い回廊を進むことができてしまった。


 その異様さに、ムーヴの背筋に、うっすらとした寒気が走った。


 これは幸運と呼ぶべきなのか。それとも、もっと不吉な何かの前触れなのか。判然としないまま、今は悪魔の一件を優先せねばならないという使命感が、その違和感を強引に押し留めていた。




 王の間は、静謐という言葉がそのまま形を成したかのような、荘厳な空間だった。


 玉座の前には、薄い帳が垂れ下がっていた。王は決して、その顔を人前に晒さない。それが、この国に古くから伝わる慣わしだった。


 帳の向こうに、王の影があった。


 静かに、しかしこの世界そのものを内側から支えているかのような、圧倒的な存在感。


 その左右には、二対、計四体の天使が控えていた。回廊の天使たちとは違う。この四体だけは、確かに生きているかのように、わずかに翼を揺らし、静かな威圧を放っていた。


 三人は膝をつき、深く頭を垂れた。


「――王よ。火急の用件にて、無礼な訪問、深くお詫び申し上げます」


 ムーヴは、努めて落ち着いた声で口上を切り出した。


 王からの返答はない。ただ、静かにこちらを見据える圧だけが、続きを促していた。


「国境付近にて、悪魔の出現を確認いたしました。私の配下の小隊が遭遇し、十五名中六名を失う被害が出ております。悪魔への対処、貴族自らが赴くには危険が大きいと判断いたしました。恐れながら――天使の派遣を、賜りたく存じます」


 言い終えると、ムーヴは深く頭を下げたまま、王の返答を待った。


 ゲートも、メンタルも、同じく頭を垂れたまま、沈黙を保っている。


 王の間に満ちる沈黙は、あまりにも重く、あまりにも長かった。


 やがて。


 帳の向こうから、短く、抑揚のない声が発せられた。


「――『移動』『炎氷』『力』、三名で対処せよ」


 それだけだった。


 それ以外の言葉は、一切なかった。


 ムーヴは、思わず顔を上げかけた。すんでのところで、思い留まった。王の意向に異を唱えるという道は、この国のいかなる貴族にも許されていない。それがどれほど理不尽に思えたとしても、だ。


 帳の向こうの影が、静かに手を掲げる。


 その瞬間、王の傍らの虚空に、漆黒の門が音もなく現れた。


 どこか見覚えのある、ゲートの操るものと寸分違わぬ門だった。


「王の『門』……?」


 驚愕の呟きが、ムーヴの口から漏れた。


 王は全ての力を持つ。ならば「門」の力を使えても、何の不思議もない。そう分かってはいても、目の当たりにすると、息を呑まずにはいられなかった。


 それが何を意味するのか、深く考える余裕さえ、今のムーヴには残されていなかった。ただ一つ理解できたのは、この場において、自分たちにはもはや選ぶ余地など残されていないという、揺るぎない事実だけだった。


「……ゲート殿、メンタル殿。行くしかないようだ」


 二人は無言で頷いた。


 三人は立ち上がり、王が開いたその門へと、踏み込んでいった。




 門を抜けた先にあったのは、炎と氷、相反する二つの意匠が絶妙な均衡を保って館全体を彩る、独特な威容の屋敷だった。


 「炎氷」の貴族、テルモの館だった。


「……ここは」


「炎氷殿の館、か。まずは炎氷殿と合流し、策を練れという王のお計らいだろう」


 ゲートが、状況を整理するように呟いた。メンタルも静かに頷きながら、館の門を見据えている。


「王の命だ。行くしかあるまい」


 ムーヴの言葉に、異を挟む者はいなかった。


 天使の派遣という、ムーヴが望んだ形とは、まるで違う結末だった。だが、王の裁定は絶対だ。この国に生きる貴族である以上、それに従うほかに道はない。


 三人は、互いに顔を見合わせることもなく、黙々と「炎氷」の館の門を潜っていった。


 悪魔という脅威に、貴族自らが立ち向かう。決して望んではいなかった現実が、今まさに動き出そうとしていた。


 ――記録にある通りなら。


 貴族もまた、死ぬ。


 ムーヴは、その一行を、胸の奥に沈めた。

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