消えた貴族
街に着くと、二人は休まずに館の方へ馬を走らせた。
館の門の脇に、第一部隊の詰所があった。貴族様に何か伝えるなら、まずここを通さなければならない。
門番に名を告げると、すぐに奥から男が一人出てきた。
大きな男だった。肩幅が戸口ほどもあった。顔にも腕にも、古い傷がいくつも走っていた。
第一部隊長のギードだった。
ギードはフィールの顔を見た瞬間に、目つきを変えた。
「フィール隊長。何があった」
「緊急の報告です」
フィールは馬から下りて言った。
「国境沿いの集落へ調べに出た私の小隊が、悪魔と出くわしました」
詰所の空気が止まった。
奥にいた兵たちが、手を止めてこちらを見た。
「……悪魔だと。確かか」
「間違いありません。下級でしょうけど、本物です」
フィールは一度だけ息を吸った。
「十五人で出て、六人を失いました。五人が深手です」
ギードはしばらく黙っていた。
フィールの顔を見て、それから蓮の脇腹の、血の滲んだ布を見た。
「……悪魔と出くわして、生きて帰ってきた従士は」
ギードは低い声で言った。
「俺は、聞いたことがない」
蓮は何も言わなかった。
生きて帰ってこられたのは、フィールがすぐに引けと言ったからだった。
それと、あの時、自分の手の中で起きた何かのせいだった。
どちらかが欠けていたら、あの森で全員死んでいた。
「すぐに取り次ぐ。ここで待て」
ギードは踵を返して、館の奥へ消えた。
詰所の待合で、二人は硬い椅子に並んで座った。
フィールは両手を固く組んで、床を見ていた。
蓮は脇腹を押さえていた。布の下で、傷がずきずきと脈を打っていた。
誰も話しかけてこなかった。廊下の向こうで、兵たちが小声で何か言い交わしていた。
ギードが戻ってきたのは、思っていたより早かった。
「二人とも、来い。ムーヴ様が、直に話を聞きたいと仰っている」
「直に、ですか」
フィールが顔を上げた。
補充式典の日、ムーヴは十人の新任に一言だけ告げて、すぐに出ていった。
その人が、従士二人のために時間を割こうとしていた。
謁見の間で、ムーヴが待っていた。
あの日と同じ顔だった。目の下の濃い隈。鋭い目。
あの日と違うのは、立っていたことだった。椅子に座らずに、謁見の間の真ん中に立って、二人が入ってくるのを待っていた。
その半歩後ろに、あの若い男が控えていた。
「ギードから大筋は聞いた」
ムーヴは言った。
「お前たちの口から聞きたい。何を見た。何が起きた。全部話せ」
フィールが話した。
集落で聞いた話。森の外れでの待ち伏せ。現れた悪魔。矢も火も剣も通らなかったこと。一人ずつ倒れていった仲間のこと。
フィールは声を揺らさなかった。死んだ六人の名を、一人ずつ言った。
ダインの名を言う時だけ、ほんの少し間が空いた。
それから、フィールは蓮を見た。
少しだけ迷うような顔をして、また前を向いた。
「最後に、悪魔が私に爪を振り上げました」
フィールは言った。
「その時、蓮が割って入りました。蓮の剣が、悪魔の腕を斬りました。……傷が、つきました」
ムーヴの目が、蓮に向いた。
「お前が」
ムーヴは言った。
「悪魔に、傷をつけたのか」
「……はい」
蓮は言った。
「何が起きたのか、自分でも分かりません」
ムーヴは黙った。
蓮を見ていた。
顔ではなかった。蓮の右手を見ていた。剣を握っていた手を。
謁見の間が静かになった。
長かった。
ムーヴの後ろで、若い男がわずかに眉を動かした。主がこれほど長く黙るのを、見たことがないという顔だった。
やがてムーヴは、小さく息を吐いた。
「――ご苦労」
短く言った。
「あとは、こちらで対処する」
ムーヴの目が、謁見の間の高い窓へ向いた。
窓の向こう、街の外壁の上に、見張りの塔が立っていた。
次の瞬間、ムーヴの姿が消えた。
蓮は窓を見上げた。
遠い塔のてっぺんに、豆粒ほどの人影が一瞬だけ見えた。
すぐに、それも消えた。
砂漠でフィールが使った石と、同じ力だった。
石に込めて持ち歩いていた力の、本当の持ち主だった。
若い男が、主の消えた場所に一礼して、足早に出ていった。
蓮とフィールは、しばらくその場に立ち尽くしていた。
待合に戻ると、ギードが待っていた。
「集落に置いてきた怪我人と、森の六人は、第三部隊に回収を頼んでおいた」
ギードは言った。
「お前たちは、もう気にするな」
「……ありがとうございます」
フィールは、それだけ言うのがやっとだった。
第三部隊。
ロイとミラのいる部隊だった。
あの二人が、ダインを運ぶことになるのかもしれない。つい先日、同じ卓で肉を頬張っていた男を。
蓮はその考えを、どうしても振り払えなかった。
「今日はもう休め」
ギードは言った。
「お前たちは、よくやった」
二人とも、何も答えられなかった。
詰所を出て、夕暮れの通りを歩いた。
店じまいを始めた露店。家路を急ぐ人。どこかで子どもが母親を呼んでいた。
昨日の夜、森で何があったのか、この通りの誰も知らなかった。
二人とも、一言も話さなかった。
宿舎の前まで来て、フィールが足を止めた。
「……蓮」
フィールは言った。
その先は、出てこなかった。
蓮も、何を言えばいいのか分からなかった。
「……また、明日」
フィールはそれだけ言って、自分の宿舎の方へ歩いていった。
蓮は部屋に戻った。
四人部屋だった。寝台が四つあった。
そのうちの一つに、厚手の毛布が畳んで置いてあった。蓮の寝台の上だった。ダインの予備の毛布だった。
返すのは、自分のを買ってからでいい、と言われていた。
まだ、買っていなかった。
ダインの寝台には、誰もいなかった。
蓮は毛布を広げて、それにくるまって横になった。
少しだけ、煙の匂いがした。
目を閉じると、ムーヴの長い沈黙が浮かんだ。
あの人は、蓮の顔ではなく、手を見ていた。
何を見ていたのか、蓮には分からなかった。




