板にない動き
二晩目も火は上がらなかった。
三晩目の夕方、ミラは十二個目の石を刻み終えた。手のひらほどの灰色の石で、一つに一つずつ名前が入っていた。四十がらみの男は、垣の石を三つ戸口に並べていた。独り者の男は村の外れの臼小屋の前に座って、唸る軸を見ていた。聞き納めだ、と言った。
あと二晩で荷車が来る。
蓮は火の台の脇で帳面を開いていた。隣でライラが、膝の板に新しい升目を引いていた。
「今夜の火の番は、鐘が九つまで私。九つから十二までがロイさん。十二から夜明けまでがヴァイスさんです」
「自分の分を組んだんですね」
「言われましたので」
ライラは白墨を置いて、東の砂を見た。日が沈みかけていた。
「板の上では、今夜火が上がる割は三十に一つです」
「はい」
「三十に一つは、零ではありません」
それだけ言って黙った。指が板の縁を握っていた。
怖いのだ、と蓮は思った。板の上で数えるのと、砂を見ながら待つのは違う。それをこの三日で知ったのだった。
来たのは、鐘が八つ鳴った後だった。
日は落ちていた。月はまだ出ていなかった。
臼小屋の屋根の上で、リアムが身を起こした。斥候の目だった。
「……フィール」
低い声だった。ふざけた響きがどこにもなかった。
「東。砂の上。低い。三つ」
蓮は東を見た。
何も見えなかった。
それから、見えた。
星が消えていた。地平の少し上で、星を隠して動くものが三つ。
音がしなかった。
「火を!!」
フィールの声が飛んだ。
ライラが松明を掴んでいた。手が震えていた。火の台に投げ込んだ。
一つ。
もう一本。
二つ。
三本目を掴もうとして、落とした。蓮が拾って投げ込んだ。
三つ。
三つの火が夜空に上がった。西の闇の中で、遠く小さな火が三つ返った。
継がれた。
「臼小屋へ!!」
フィールが村の通りへ駆け出していた。
「全員、臼小屋へ!! 石の壁で、戸が一つ!! 昼に決めた通りに!!」
戸が次々に開いた。
赤ん坊を抱いた女。亭主。井戸端の女が、鉢を一つ胸に抱えて出てきた。四十がらみの男が、目の見えない爺さまの手を引いていた。男の子が、足の悪い犬を両腕で抱え上げていた。
ロイとヴァイスが通りの両脇に立って、人を臼小屋の方へ押し流した。
「走れ!! 鍋はいい!! 走れ!!」
ミラが臼小屋の戸口に立っていた。一人入るごとに、戸口に下げた札を指で押さえていた。
一軒目。二人。
二軒目。三人。
声には出さなかった。唇だけが動いていた。
蓮は東を見ていた。
三つの影が、村の端に降りる所だった。
入り口からいちばん遠い側。
東の端の二軒。
「端の二軒は!!」
「まだ出てきてねえ!!」
リアムが屋根の上から叫んだ。
「戸が開いてねえ!!」
独り者の男の家と、その隣だった。臼小屋からは通りを挟んで、村の反対の端にあった。
影の一つが屋根に降りた。
踏み抜いた。
もう一つが、隣の家の戸を蹴り破った。
悲鳴が上がった。
三つ目は通りの真ん中に立った。
こちらを見ていた。
見張りだった。
ベルが走り出していた。右手に石を握っていた。
「ベル!!」
蓮はその腕を掴んだ。
「離して!! あそこに人が!!」
「窓がない!!」
蓮は怒鳴った。
「貴族がいない。石を握っても弾かれるだけだ。剣も通らない。行っても、連れていかれる人が一人増えるだけだ!!」
ベルの腕が震えていた。歯を食いしばっていた。
分かっているのだった。
分かっていて、足が止まらないのだった。
悪魔は三体。二体が端の二軒の中。一体が通りの見張り。
臼小屋に入った者は、ミラの札で三十九人。
村は四十三人。
四人足りない。
端の二軒の四人だった。
貴族はいない。ボルツは四つ目の駅にいる。火は今、継がれている所だった。駅に届くまで四半刻。そこから馬で四刻。
その間、ここにいる者は誰一人、悪魔に傷をつけられない。
「守るのは臼小屋」
フィールが言った。蓮の隣に戻ってきていた。息が上がっていた。
「三十九人。戸は一つ。私の盾が三枚。ベルが編めば五枚。リアムの六角が五枚。……私とベルの盾は一枚で二撃。六角は一撃。保たせられるのは、数えるほどの間よ」
「四刻は無理だ」
「無理ね」
フィールは端の二軒を見ていた。
屋根を踏み抜いた影が、出てくる所だった。
両脇に人を抱えていた。
二人。
隣の家からも。
二人。
小さい方が手足をばたつかせていた。
その足元で、何かが吠えていた。細い、必死な声だった。
犬ではなかった。あの家の犬は、男の子が抱えて臼小屋に入った。
吠えていたのは人だった。
独り者の男だった。
悪魔の脇に抱えられたまま、もう一体の腕の中の子どもに向かって叫んでいた。
「目ぇつぶってろ!! 下を見るな!! 目ぇつぶってろ!!」
隣の家の子だった。
蓮はその声を、帳面に書くことはできなかった。手が動かなかった。
二つの影が地を蹴った。
翼が広がった。
重そうに空気を叩いた。
低く。
東へ。
見張りの一体は通りに残っていた。臼小屋を見ていた。石の壁を。一つしかない戸を。
歩いてきた。
ゆっくりと。
「ベル。戸の前に」
「……分かってるわよ」
ベルの声は低かった。いつもの調子がどこにもなかった。
臼小屋の戸の前に立った。指が動いた。
三つ。
青白い盾が戸を覆った。その後ろにフィール。その両脇にロイとヴァイス。通らない剣を抜いていた。
悪魔は盾の前で足を止めた。
赤い目が盾を見た。
その向こうの戸を。
戸の向こうの三十九人を。
爪が上がった。
叩いた。
ひび。
もう一度。
割れた。
フィールが石を握った。
一枚。
ひび。
割れた。
二枚。
三枚。
「リアム!!」
「張る!!」
屋根の上から、六角の光が二つ、続けて戸の前に降った。
紙のように裂かれた。
裂かれる間に、ベルが次を編んでいた。
三つ。
間に合った。
ひび。
蓮は数えていた。
数えることしかできなかった。
フィールの盾。三枚のうち三枚。
ベルの盾。二枚目。
リアムの六角。五枚のうち二枚。
残りは、ベルが三枚。リアムが三枚。蓮の六角が三枚。
ベルの盾は一枚で二撃。六角は一撃。
十二撃。
悪魔が一撃ごとに息を継ぐとして、百数える間も保たない。
その後は。
戸、一枚だった。
臼小屋の中から、赤ん坊の泣き声が漏れていた。
誰かが祈るような声で、数を数えていた。
ライラだった。
中にいた。三十九人と一緒に。板を抱えて、一人ずつ名を呼んで数えていた。
昨夜覚えたばかりの名を。
蓮は拳を握った。
六角の光。
裂かれた。
その時。
音がした。
西から。
蹄だった。
それより先に、声が来た。
「おおおおおおおおおおいッ!!」
割れ鐘のような声だった。
村の入り口の闇から、馬が飛び出してきた。乗っている者が大きすぎて、馬が小さく見えた。髭が風になびいていた。外套は着ていなかった。寝間着の上に、帯を一本締めただけだった。
ボルツだった。
悪魔が振り向いた。
赤い目が見開かれた。
いないはずの貴族だった。
ボルツは馬を止めなかった。
鞍の上から、飛んだ。
巨体が宙を舞った。
悪魔の真上に、落ちた。
どおんッ!!
砂が舞い上がった。
太い腕が、悪魔の首に巻きついていた。
後ろから。
丸太で締め上げるように。
「捕まえたぞ、この野郎ッ!!」
ばちッ!!
青白い光が走った。
ボルツの腕から、悪魔の首へ。
窓の開いた、首の内側へ。
「ギイイイイイイイッ!!」
悪魔の体が跳ねた。
手足がばらばらの方へ突っ張った。
爪が空を掻いた。
掻いたが、狙いが定まっていなかった。
痺れていた。
ばちばちばちッ!!
光が首から肩へ、肩から胸へ、這っていった。
窓が広がるのを追いかけるように。
焦げた匂いがした。
悪魔は吠えた。
翼をめちゃくちゃに打った。
ボルツの巨体が浮いた。
振り落とされた。
砂の上を二度転がった。
悪魔はよろけながら地を蹴った。
飛んだ。
まっすぐには飛べていなかった。右へ左へ傾ぎながら、東へ。
ボルツは砂の上に大の字になっていた。胸が大きく上下していた。
「……くそ。重いくせに、よう暴れる」
起き上がった。寝間着の袖が片方ちぎれていた。腕の毛が一本残らず逆立っていた。
臼小屋の戸が、内側から細く開いた。
ライラの顔が覗いた。青ざめて、板を胸に抱きしめていた。ボルツを見て、目が見開かれた。
「……当主」
「おう」
「なぜ、ここに」
声がかすれていた。
「火が上がってから、まだ半刻も経っていません。四つ目の駅からは四刻かかります。板の上では、今はまだ」
「駅にはおらなんだ」
ボルツは砂を払った。
「あの寝床は板みたいに硬くて眠れん。二晩で腰をやった。今夜は、この村の手前の街道沿いの納屋で、藁にもぐって寝とった。ここから馬で四半刻だ」
ライラは口を開けた。閉じた。
「……割り当てと違います」
「違うな」
「充填の箱は駅にあります。明日の朝の分は」
「朝になったら戻ってやる。うるさいことを言うな」
ボルツは大きな手で頭を掻いた。
「お前の板はよくできとる。四百五十年で、いちばんだ。だがなライラ。わしは板の通りに寝られるほど、行儀がよくない」
にやりと笑った。
「たまには役に立つだろう。大雑把も」
ライラは何も言わなかった。言えなかった。
板を抱く腕が震えていた。怒っているのではなかった。泣きそうなのをこらえている顔だった。そんな顔を、この人がするとは蓮は思っていなかった。
「……今夜だけは」
やっとライラは言った。
「今夜だけは、板より当主の腰の方が安くつきました」
「褒めとるのか、それは」
「数えた結果です」
ボルツは声を上げて笑った。それから笑いを消して、通りの端を見た。戸の破られた二軒を。
「何人だ」
「四人です」
蓮が答えた。
「端の二軒。大人が三人、子どもが一人。二体が抱えて東へ」
ボルツの顔から表情が消えた。大きな拳が握られた。ばち、と小さな光が指の間で跳ねた。
「追う」
「待ってください」
フィールが言った。屋根の上を見ていた。
リアムがいなかった。
ミラも戸口から消えていた。
札だけが残っていた。
「うちの斥候が、もう追っています」
フィールは言った。
「あれらは二人抱えると、低く遅くしか飛べません。馬の駆け足ほどです。足の速い者なら、砂丘の陰を伝って見失わずについていける」
「ついていってどうする。従士では斬れんのだろう」
「斬りません。見るだけです。どこへ運ぶのかを」
蓮は東の闇を見ていた。
炎氷の国では、端まで馬で一晩かかった。ここから端までどのくらいあるのかは知らない。
だが先月、この村では一晩で三軒が空になった。
十一人。
一体で二人。三体で六人。一度では運びきれない数だった。端まで一晩かかるなら、同じ夜のうちに戻ってこられるはずがなかった。
「近くに置いているんだと思います」
蓮は言った。ボルツが蓮を見た。
「一晩で十一人を、三体で端まで運ぶのは数が合いません。村の近くのどこかにいったん集めて、そこから先へ送っている。……集めている場所が、あるはずです」
「そこに四人がおるのか」
「今なら、たぶん。まだ」
東の砂丘の向こうで、光が一つ瞬いた。
青白い六角の光だった。
一つ。
少し置いて、二つ。
消えた。
リアムだった。見つけた、という合図だった。
ボルツはもう馬に跨っていた。
「数える小僧。後ろに乗れ」
大きな手が蓮の襟首を掴んで、引き上げた。
「場所を数えて教えろ。わしは、そういうのは苦手だ」




