鐘が四つ
鐘が四つ鳴った。
一つ目の村の井戸端に、十四軒の者が集まっていた。四十人と少し。ライラは井戸の縁の石の上に立って、膝の板を胸の前に抱えていた。
愛想はなかった。前置きもなかった。
「この村と東の外れの残り三つの村は、来月の末までに引き払います」
ざわめきが止まった。
「二百三十四人。内側の村へ移っていただきます。先月この村で三軒が空になりました。当主は跳べません。火を置いても着くのは二晩目です。ここに人を置いておく限り、三つに一つは取られます」
誰も声を出さなかった。出せなかった。
「荷車は五日後の朝に着きます。雷石は来月からこの村には届きません」
そこで声が上がった。
「待ってくれ!!」
「引き払うって、どこへだ!!」
「畑はどうなる!! 刈り入れまであと一月だぞ!!」
「雷石を止めるってのは、出ていかなきゃ干すってことか!!」
四十がらみの男が前に出ていた。親父の畑、と言った男だった。拳が震えていた。
ライラは動じなかった。動じないのが火に油だった。
「畑は置いていきます。麦は他の村の蔵から回します。数は足ります」
「数の話をしてんじゃねえ!!」
蓮は人の輪の外で、それを見ていた。フィールが半歩前に出かけた。蓮は首を横に振った。
ライラは板を見ていた。六つの欄ではなかった。七つ目の、字で真っ白な欄を。
息を一つ吸った。
「昨夜『移動』の従士の方々が、皆さんの家を回りました」
声の調子が少しだけ変わった。
「火が上がった晩に、置いていけないものは何か、と訊いて。五十二軒全部の答えを私はここに書きました」
板を人々の方へ向けた。小さな字がびっしりと並んでいた。
「読みます」
誰も何も言わなかった。
「隣の婆さま。この子を取り上げてくれた」
赤ん坊を抱いた女が、はっと顔を上げた。
「親父が砂から石を除けて作った畑。垣の脇に親父が埋まっている」
四十がらみの男の拳が止まった。
「足の悪い犬。名前はハチ」
人の輪の後ろで、男の子が父親の袖を掴んだ。
「死んだ女房が植えた、戸口の木」
「向かいの爺さま。目が見えない。毎朝手を引いて畑へ連れていく」
「臼の音。生まれた時から鳴っている」
独り者の男が顔を赤くして、そっぽを向いた。誰かが小さく笑った。笑い声はすぐに消えた。
ライラは読み続けた。一つも飛ばさなかった。言い直しもしなかった。書いてある通りに十四軒ぶんを読んで、板を下ろした。
「私の最初の表では皆さんを六つの村へ分けて送ることになっていました。空き家の数に合わせて。隣同士の家が別々の村へ行く表です。それがいちばん安かった」
井戸端が静まり返っていた。
「五十二軒のうち二十一軒が、置いていけないのは隣の人だと答えました。私はそれを知らずに表を組んでいました」
ライラは板をもう一度人々の方へ向けた。行き先の欄に、消して書き直した跡が白く残っていた。
「組み直しました。この村は十四軒とも、西の二つ目の村へ行きます。隣は隣のままです。空き家は足りないので、半年は一軒に二家族で暮らしていただきます。窮屈です。その間に家を建てます」
赤ん坊を抱いた女が、亭主の顔を見た。
「墓は荷車に載りません。代わりに名前を刻んだ石と墓の土を持っていっていただきます。石はあちらの従士の方が刻みます」
ミラが人の輪の外で、小さく頭を下げた。四十がらみの男がミラの指を見た。灰色の指先を。
「犬は」
ライラは板の隅を見た。
「一匹麦半俵ほどの重さです。載ります。山羊も載ります」
男の子が父親の顔を見上げた。父親は頭を掻いた。
「……載るってよ」
「臼は」
ライラは独り者の男を見た。表情は変わらなかった。
「西の二つ目の村にもあります。同じ雷石で、同じ軸で、同じ音がするはずです。今朝使いを出して確かめさせています」
男は口を開けた。それから吹き出した。
「確かめさせてんのかよ。臼の音を」
「はい」
「馬鹿だな、あんた」
「よく言われます」
今度は笑い声が少し長く続いた。ライラは笑わなかった。ただ、耳の先がほんの少し赤かった。
「畑は持っていけません」
ライラは四十がらみの男に向き直った。
「お父上が十年かけた畑です。三年で砂に戻る、と仰ったそうですね。その通りだと思います。私にはそれをどうすることもできません」
男は唇を噛んでいた。
「恨んでください。雷石を止めると決めたのは私です。……ただ、垣の石を一つだけ持っていってください。あちらの畑の、垣の最初の一つにしてください。お父上の畑の続きを、あちらで作っていただきたいのです」
男は長い間黙っていた。拳はもう震えていなかった。
「……一つじゃ足りねえ」
低い声で言った。
「三つは持っていく。荷車に載るんだろうな」
「載せます」
ライラは板の隅に書いた。
石。三。
最後まで首を縦に振らなかったのは、井戸端の女だった。皆が散った後も、打ちつけられた戸の前に立っていた。
「わたしは行きませんよ」
静かな声だった。
「札を立ててくださるのはありがたい。あの子らが帰ってきたら読めるでしょう。だが札は水をやりません。鉢は枯れる」
「鉢は載ります」
ライラは言った。
「持っていってあちらで世話をしていただけます」
「帰ってきた時に戸口に花がなかったら同じことだ」
女は首を振った。
「わたしは年寄りだ。あれらが来ても連れていく甲斐もないでしょう。一人くらい残っても板の数は狂いませんよ」
ライラは答えられなかった。板の、七つ目の欄の一つ目の升目を見ていた。
そこへ足音がした。赤ん坊を抱いた女だった。亭主が後ろについてきていた。
「婆さま」
「何だい」
「婆さまが残るならうちも残ります」
井戸端の女の顔が強張った。
「馬鹿をお言い。その子がいるだろう」
「この子を取り上げてくれたのは婆さまです。うちは親がいない。婆さまを置いてよその村で窮屈な間借りなんかできません」
「わたしは鉢があるから」
「じゃあうちも鉢の水やりを手伝います」
赤ん坊がぐずり始めた。井戸端の女はその小さな顔を見た。節の太い指が、鉢の縁を握っていた。
長い間。
「……ずるいね、お前さんは」
かすれた声だった。
「年寄りに、それを言うのかい」
「言います」
若い女は泣きそうな顔で笑っていた。
井戸端の女は鉢を見下ろした。三軒ぶんの花を。
「従士様」
蓮の方を見た。
「札には何と書いてくださるんです」
「この村の者は西の二つ目の村にいる、と」
「それだけじゃ足りません」
女は言った。
「鉢は井戸端の婆が預かっている、と書いてくださいな。花は枯らしておらん、と。帰ったら取りに来い、と」
蓮は帳面を開いて、言われた通りに書いた。
ミラが札の板に鑿を当てた。文字が一画ずつ刻まれていった。墨ではなかった。砂に吹かれても消えない深さだった。
ライラは膝の板に書いていた。
十四軒。十四軒とも、行く。
それから七つ目の欄の一つ目の升目を、長い間見ていた。
消さなかった。
日が暮れた。
村の外れに火の台が組んであった。ロイとヴァイスが昼の間に石を積んだ、荷車が着くまでの五つの夜のための台だった。ライラはその脇に立って、東の砂を見ていた。
「当主は荷車が着くまでの五晩、四つ目の駅で寝ます」
蓮が隣に来ると、ライラは振り向かずに言った。
「充填所をその間だけそこへ移しました。空の石を詰めた箱を物流隊に運んでもらって。駅で充填すれば都でするのと石の数は変わりません。……四つ目の駅からここまでは、馬で四刻です」
蓮は数えた。火が駅に届くのに四半刻。馬で四刻。夜の初めに火が上がれば、夜半には着く。
一晩目のうちに。
「都から一日と少しだったのが四刻に」
「当主を動かすのではなく、当主の仕事場を動かしました。充填の数を落とさずに済むいちばん安いやり方です」
ライラは少し黙った。
「三日延ばしたのは私です。延ばした分も入れて五晩。その間は三つに一つではなく取られるものを最初の四刻ぶんにしたい。……板の上では、そうなっています」
「板の上では」
「板の上でしか私には分かりません」
東の空に星が出始めていた。やけに近い星だった。
「一つ訊いていいですか」
蓮は言った。
「なぜ数なんですか。全部を数で決めるのは」
ライラはすぐには答えなかった。膝の板を胸に抱え直した。
「十二の時に祖母が死にました」
静かな声だった。
「西の端の小さな村です。その冬雷石が届きませんでした。臼が止まり水が畑に上がらなくなった。祖母は手で臼を挽きました。一冬。春に倒れました」
蓮は黙って聞いていた。
「石が届かなかったのは、足りなかったからではありません。その頃配り先を決めていたのは板ではなく人でした。声の大きい村の長が当主の所へ来て、うちへ先に、と言う。当主は大雑把な方です。おう分かった、と言う。……声の小さい村は後になる。後になった村に石が残っていないことがある」
白墨の粉が、袖口から少し落ちた。
「数で決めれば声は関係ありません。村に何人いて、臼がいくつあって、月に何俵挽くか。それだけで決まる。祖母の村は石を受け取れたはずでした」
ライラは東の砂を見ていた。
「効率、と人は言います。冷たい、とも。……私はあれより公平なやり方を知りません」
蓮は何も言えなかった。
板の六つの欄は冷たいものだと思っていた。違った。声の小さい者が後回しにされないための欄だった。
「七つ目の欄は」
ライラは言った。
「声を板に入れることになります。置いていけないものは声の大きい者ほどたくさん言うでしょう。それが怖かった。……ですが昨夜の五十二軒は、どの家も一つずつでした。一つずつ訊けば声の大きさは関係がない」
ライラは初めて蓮の方を見た。
「訊き方を教えていただきました。ありがとうございます」
礼を言う声まで、割り振るような調子だった。それでも蓮には分かった。本当にそう思っている声だった。
「鐘がいくつ鳴ったら交代しますか」
蓮は訊いた。
「火の番です。五晩一人で立つつもりでしょう」
ライラは瞬きをした。
「……割り当てを組んでいませんでした」
「自分の分だけ組まない人ですね」
「あなたに言われたくありません」
どちらも少しだけ笑った。
その晩、火は上がらなかった。東の砂は朝まで黒いままだった。
蓮は帳面に書いた。
荷車が着くまで、五晩。一晩目。火、零。
あと、四晩。




