五十二の升目
四つの村は一刻ずつ離れていた。一晩で五十二軒を回るには、七人で割るしかなかった。
「一つ目の村は蓮とベル。十四軒」
フィールが言った。日はもう落ちていた。
「二つ目は私とヴァイス。十三軒。三つ目はロイとリアム。十五軒。四つ目はミラ。十軒」
「ミラ一人で?」
ロイが訊いた。
「私の従士を一人つけます」
ライラが言った。馬から下りて、膝の板を胸に抱えていた。
「道案内に。……訊くのは一つだけですね」
「一つだけです」
蓮は言った。
「火が上がった晩にどうしても置いていけないものは何ですか。答えは言われた通りに書く。まとめない。言い直さない」
「夜明けの鐘が三つ鳴るまでにここへ戻って」
フィールが六人の顔を見回した。
「引き払いのことは言わない。訊くだけ」
六人が頷いた。馬の蹄の音が、三つの方角へ散っていった。
ライラは村の入り口に残った。打ちつけられた三軒の戸の前に立って、鉢の花を見ていた。
二軒目は若い夫婦だった。
戸口に赤ん坊を抱いた女が出てきて、後ろから亭主が顔を出した。置いていけないもの、と訊くと、二人は顔を見合わせた。
「鍋と、この子と」
「それは持って出るものだろ」
「あ、そうか」
女は少し考えた。それから通りの向こうを見た。井戸端の、あの女の家だった。
「……隣の婆さま」
「隣の人、ですか」
「この子を取り上げてくれたのが、あの婆さまで。うちの親はどっちも早くに死んだから。火が上がっても婆さまは逃げないって言うんです。あの三軒の鉢があるから、って」
亭主が頭を掻いた。
「婆さまが残るならうちも残るしかねえかなって。置いて逃げたら寝覚めが悪い」
蓮は書いた。
二軒目。隣の婆さま。
五軒目は四十がらみの男だった。戸口に腕を組んで立ち、置いていけないもの、と訊くと鼻で笑った。
「畑だ」
「畑は持って出られません」
「だから、置いていけねえって言ってんだ」
男は顎で家の裏を指した。暗がりの中に、石を積んだ低い垣が見えた。
「親父が砂の中から石を一つずつ除けて作った畑だ。十年かかった。親父はその垣の脇に埋まってる。俺が出てったら三年で砂に戻る」
蓮は書いた。
五軒目。親父の畑。垣の脇の墓。
八軒目は子どもが戸を開けた。七つくらいの男の子で、親は奥で寝ていた。ベルがしゃがんだ。
「ねえ。悪魔が来たら逃げるでしょ。その時絶対に置いていけないものってある?」
男の子はベルをじっと見た。
「……ハチ」
「蜂?」
「犬。足が悪い。走れない」
戸の陰から茶色い鼻先が覗いた。後ろ足を一本引きずっていた。
「荷車に乗せればいいじゃない」
「父ちゃんが犬は乗せないって言う」
ベルは振り返って蓮を睨んだ。書きなさいよ、という目だった。
蓮は書いた。
八軒目。ハチ。足の悪い犬。
十一軒目は独り者の男だった。酒の匂いがした。
「置いていけねえもの? ねえよ、そんなもん」
男は戸を閉めかけて、止まった。
「……臼」
「臼ですか」
「村の外れの。あの、ごうんごうんいうやつ。あれが鳴ってねえと眠れねえんだ。生まれた時から鳴ってるから」
男はばつが悪そうに鼻をこすった。
「馬鹿みてえだろ」
「書いておきます」
「書くな、そんなもん」
戸が閉まった。
蓮は書いた。
十一軒目。臼の音。
ベルが隣で小さく笑った。
「変なの」
「変じゃない」
「変よ。……でも分かるわ。あたしもお養父様の書庫の埃の匂いがしないと、最初は眠れなかったもの」
それから慌てて付け足した。
「今は平気よ。全然」
最後の家を出た時、月はもう西に傾いていた。
夜明けの鐘が三つ鳴った。遠くの駅から、かすかに聞こえた。
村の入り口に七人が戻っていた。誰も眠っていなかった。リアムは珍しく黙っていて、ロイがその肩を叩いた。
「こいつ十軒目で泣いたんだ」
「泣いてねえ」
「泣いてたろ」
「……目に砂が入ったんだよ」
ミラは帳面を一枚、蓮に差し出した。四つ目の村の十軒ぶんだった。一つもまとめていなかった。言われた通りの言葉が細い字で並んでいた。
蓮は四つの村の紙を地面に並べた。
五十二の答え。
端から読んだ。
ライラはその脇に立っていた。一晩、打ちつけられた戸の前から動かなかったらしい。膝の板をまだ抱えていた。
「読み上げてください」
静かな声だった。
「一軒ずつ。私が板に書きます」
蓮は読んだ。ライラは書いた。
七つ目の欄の、一つ目の升目。
隣の三軒。帰ってくるかもしれない十一人の、帰る場所。
二つ目。
隣の婆さま。
三つ目。
升目は小さかった。言葉ははみ出した。ライラは字を小さくして書き続けた。
親父の畑。垣の脇の墓。
ハチ。足の悪い犬。
臼の音。
向かいの家の幼なじみ。
死んだ女房が植えた、戸口の木。
村の井戸。うちの爺さんが掘った。
隣の家の嫁さん。うちの娘の乳をもらっている。
母ちゃんの墓。
祭りの太鼓。村に一つしかない。
向かいの爺さま。目が見えない。毎朝手を引いて畑まで連れていく。
何もない。
何もない。……いや。この村の朝の匂い。
五十二。
最後の升目が埋まった。
ライラは白墨を下ろした。板を見ていた。
六つの欄は数字だった。七つ目の欄だけが字で真っ白で、升目からはみ出していた。
「……読めません」
ライラは言った。かすれた声だった。
「一つ一つは読めます。でもこの欄を上から下まで見ても、何も決められない。数字なら足せば答えが出ます。これは足せない」
「足せます」
ミラだった。蓮の隣にしゃがんで、帳面の新しい頁を開いていた。
「同じ答えを束ねる。束がいくつあるか数える」
「まとめない、と言ったのはあなた方です」
「訊く時は、まとめない」
蓮は言った。
「訊いた人が先にまとめたら、言ってないことまで言ったことになる。でも全部並んだ後なら束ねていい。……どの答えをどの束に入れたかが、後から見て分かるようにしておけば」
蓮とミラは数えた。一つずつ読んで、どの束に入れるかを声に出して決めた。迷うものはライラに訊いた。
「向かいの爺さま、目が見えない。これは人ですか。それとも務めですか」
「……人、だと思います」
ライラは少し考えてから答えた。
「その方がいなければ手を引く務めもありませんから」
束は六つになった。蓮は読み上げた。
「人。隣の家や向かいの家の誰か。二十一軒」
ライラの眉が動いた。
「墓。十二軒」
「畑や家や井戸や木。親や連れ合いが作ったもの。九軒」
「帰りを待つ。この村の三軒のことです。四軒」
「生きもの。犬が二、山羊が一。三軒」
「その他。臼の音。太鼓。朝の匂い。三軒」
足した。
五十二。
合っていた。何もない、と最後まで言った家は一軒もなかった。
ライラは六つの数を板の隅に書いた。
二十一。十二。九。四。三。三。
長い間、それを見ていた。
「二十一」
ぽつりと言った。
「五十二軒のうち二十一軒が、置いていけないのは物ではなく、隣の人だと言っている」
「はい」
「私の表はその二十一軒を別々の村へ送ることになっています」
ライラの指が、板の行き先の欄をたどった。
西の二つ目。北。西の一つ目。南。
隣同士の行が、ばらばらの村の名になっていた。
「空き家の数に合わせるのが、いちばん安かった。家を一軒も建てずに済む。……それで二十一軒が、いちばん置いていけないものを置いていくことになる」
蓮は何も言わなかった。責めるつもりはなかった。自分が組んでも同じ表になった。昨日、そう思った。
「組み直せますか」
フィールが訊いた。
「村ごと同じ所へ。隣同士が隣同士のままで」
ライラは白墨を取って、板の隅で数え始めた。速かった。
「受け入れる村を六つから四つに絞ります。一つの村を丸ごと一つの村へ。空き家は足りません。足りない分は間借りで、一軒に二家族。……半年は窮屈です。その間に家を建てる」
「日取りは」
「荷車の道順が変わります。受け入れる側の村にも間借りの話を通さなければならない。使いを出して返事を待って。……三日延びます」
白墨が止まった。
「夜が三つ増えます」
三つの夜。
先月は三十の夜のうち、一晩で三軒だった。
蓮は数えた。三十に一つ。それが三晩なら、十に一つ。十に一つの割で、三軒。
十一人。
「十に一つの割で、十一人」
ライラは同じ数を声に出していた。
「対して二十一軒が隣の者と一緒に動ける。……比べられません。片方は人の数で、片方は」
言葉が途切れた。板の七つ目の欄を見ていた。字で真っ白な欄を。
「蓮さんなら、どうしますか」
初めて名を呼んだ。
蓮は首を横に振った。
「俺は決められません」
「数える方でしょう」
「数えるだけです。この国の者じゃない。三日延ばして、その三晩に戸が開いたら俺はその責めを負えない。負えない者が決めてはいけないと思います」
北の村の、畦の上。
フレアに同じことを言った。丘の上を捨てろとは、俺には言えない。決められる者は、ここに一人しかいない。
ライラは蓮を見ていた。それから打ちつけられた三軒の戸を見た。鉢の花を見た。夜が明けて、花びらに露が載っていた。
「……墓は」
ライラは言った。
「十二軒。墓は荷車に載りません。これはどうにもならない」
「石なら、載る」
ミラが言った。全員がミラを見た。ミラは膝の上の革袋をぽんと叩いた。
「名前を刻む。手のひらくらいの石に。墓の土を一握り袋に入れる。石と土を持っていく。……墓そのものじゃない。でも何も持たないよりは」
ライラはミラの指を見た。灰色に汚れた指先を。
「一つ刻むのに、どのくらい」
「名前だけなら四半刻」
「十二軒で三刻」
ライラは板の隅に書いた。
石。十二。三刻。
「それは割り当てに入ります。荷車を待つ間に済む」
「待つ人は」
蓮は言った。
「四軒。帰ってくるかもしれない十一人を待っている」
「……それは本当に、どうにもなりません」
ライラの声が低くなった。
「帰ってくるかどうかを私は知りません。知らないものを板には」
「札を立てませんか」
「札?」
「打ちつけた戸に。この村の者はどこそこの村へ移った、と。もし帰ってきた者がいたらそれを読めば行き先が分かる。……鉢は枯れるかもしれません。でも、誰も待っていなかったとは思わない」
ライラは黙っていた。帰ってこない。そう思っている顔だった。
蓮もそう思っていた。知っていた。
それでも。
「札は、板が三枚と釘が十二本です」
蓮は言った。
「安いと思います」
ライラの口の端が、ほんの少しだけ動いた。笑ったのかどうか分からないくらいに。
「……安いですね」
板の隅に書いた。
札。三。
それから白墨を握り直して、行き先の欄を手のひらで端から消し始めた。
五十二の行。
六つの村の名が、白い粉になって落ちていった。
「組み直します」
ライラは言った。
「村ごと。隣同士のまま。三日延ばします。三つの夜の責めは、私が負います」
顔を上げた。
「鐘が四つまで、あと一刻です。一人では間に合いません。……手伝ってください」
蓮は頷いた。ライラの隣にしゃがんで、帳面を開いた。
二人の間に板が置かれた。白墨とペン。升目が端から埋まり始めた。
ベルが少し離れた所で、腕を組んでそれを見ていた。板を挟んで同じ姿勢でしゃがんでいる二人を。同じ速さで数を書いている二人を。
唇が尖っていた。
「……ほら。レンが二人になったじゃない」
誰に言うでもなく言った。
「だから嫌だって国境で言ったのよ。あの紙を見た時に」
「妬いてんのか」
リアムが言った。
「妬いてないわよ!!」
ロイが噴き出した。
東の空が白くなっていった。




