板にない欄
発ったのは、夜明けの鐘が三つ鳴った時だった。
ライラは馬に乗っていた。鞍の前に、膝に載る大きさの黒い石の板を一枚くくりつけていて、白墨が紐で結んであった。
「東の外れまで、馬車で一日です。日が沈む前に着きます」
ライラは馬を寄せてきて言った。
「昼は四つ目の駅で。鐘が六つの時に着き、七つの時に発ちます。食事は駅に頼んであります」
「飯の刻まで決まってんのか」
リアムが言った。
「決めておかないと、駅の者が竈の火をいつ入れればいいか分かりません」
「腹が減った時に食えばいいだろ」
「七人と御者がばらばらに腹を空かせたら、駅は一日じゅう竈を焚くことになります。薪の無駄です」
リアムは口を開けた。言い返す言葉を探していたが、見つからなかった。
「……この人、苦手だわ」
ベルが蓮の耳元で囁いた。
「レンよりひどい」
「俺は飯の刻までは決めない」
「決めそうよ。そのうち」
ライラは聞こえていないのか、聞こえていても気にしていないのか、前を向いたままだった。それから懐から細く巻いた紙を出して、蓮の方へ差し出した。
「引き払いの段取りです。板に書いたものの写しです。着くまでに見ておいてください」
蓮は受け取って広げた。長かった。荷台の端から端まで届いた。
馬車に揺られながら、蓮は紙を読んだ。
よくできていた。
四つの村。二百三十四人。五十二軒。一軒ごとに行があって、家の者の数と年寄りの数と乳飲み子の数が書いてあり、その横に行き先が書いてあった。
受け入れる村は六つあった。どの村に空き家が何軒あるか。空き家のない村では、どの家に何人を間借りさせるか。間借りさせる家の部屋の数まで書いてあった。
荷車は十八台で、一日に一つの村、四日で四つ。道順と出る刻限と着く刻限、途中の駅で馬を替える刻限。年寄りと乳飲み子は荷車の一台目に乗せ、家畜は最後の荷車の後ろにつないで歩かせる。鶏は籠に入れる。受け入れる村の畑のどの畝を誰に割り当てるか。四つの村の雷石四つは、受け入れる六つの村のうち人のいちばん増える四つへ付け替える。それで臼が挽く粉の量が足りるかどうか。
足りる。
数字が合っていた。
蓮は紙から顔を上げた。ライラは馬の上で、膝の板に何か書いていた。
「一つ訊いていいですか」
「どうぞ」
「四つの村を空けたら、その内側の村が新しい外れになります。あれらはそこへ来るだけじゃないですか」
「来ます」
ライラは白墨を止めなかった。
「ですから、内側の村から都までの道のりを測りました。馬で半日と少し。今の外れからは一日と少しです」
板を蓮の方へ傾けた。線が二本引いてあった。長い線と、その半分の線。
「あなたの火の決まりを新しい外れに置きます。火は半刻で都に届く。当主が夜のうちに発てば、着くのは一晩目が明ける前です。……取られるのは三つに一つではなく、最初の一刻ぶんだけになります」
蓮は黙った。
火の決まりは要らない、とライラは言った。今の外れには要らない。新しい外れに置く。そういう意味だった。
「……水は」
「受け入れる六つの村の割り当てを二百三十四人ぶん増やしていただくよう、『水』の家に先月鳥を出しました。返事は来ています。来月の一日から」
「麦は。刈り入れまであと一月でしょう。今動いたら、四つの村の千二百俵が」
「捨てます」
ライラは言った。
「刈り入れまで待てば、夜が三十あります。先月は三十の夜のうち、一晩で三軒でした。次の三十の夜に何軒開けられるかは分かりません。千二百俵は他の村の蔵から回せます。人は回せません」
どこにも穴がなかった。
蓮は紙を巻き直した。ベルが荷台の向かいから、蓮の顔を覗き込んでいた。
「……負けたの?」
「勝ち負けじゃない」
「負けた顔してるわよ」
負けてはいなかった。ただ探しても見つからなかった。自分が組んでも、たぶん同じ表になった。同じ表になることが、少し落ち着かなかった。
四つ目の駅には、鐘が六つ鳴った時に着いた。卓の上に八人ぶんの椀が湯気を立てて並んでいて、リアムは文句を言うのを忘れて食べた。うまかった。食べ終えた頃に、鐘が七つ鳴った。
日が傾いていた。
街道の両脇の畑がまばらになって、臼の唸りが遠くなった。蓮は巻いた紙をもう一度広げていた。三度目だった。
五十二の行を、上から順に指でたどった。家の者の数。年寄り。乳飲み子。行き先。荷車。畑。欄は六つあって、どの行も六つとも埋まっていた。埋まっていない升目は一つもなかった。
フィールが蓮の手元を見ていた。
「何を探しているの」
「分からない」
蓮は言った。
「穴はない。数は全部合ってる。それなのに、何か足りない気がする」
「何が」
「それが分からない」
フィールは紙を覗き込んで、行の一つを指で押さえた。
「この家は五人ね。行き先は西の二つ目の村」
「うん」
「隣の行の家は四人。行き先は北の村。……同じ村の隣同士の家でしょう。行き先が別なのね」
蓮は二つの行を見比べた。その通りだった。その下の家は、また別の村へ行く。五十二軒が六つの村にばらばらに散っていた。
「空き家の数に合わせたんだ」
蓮は言った。
「西の村に空き家が三軒あれば、三軒ぶん送る。北に二軒なら二軒。そうすれば新しく家を建てなくて済む。いちばん安い」
「隣の家が別の村へ行くのに?」
蓮は答えなかった。回復の国の通りを思い出していた。
九十三の震えた線。付き添いのいた者は順番まで持ちこたえ、いなかった者から先にいなくなった。水を飲ませる人。夜中に息が細いのに気づく人。あれは家族だけではなかった。隣の寝台の者が気づいて、兵を呼んだこともあった。
この紙には、家の中の人の数は書いてあった。家と家の間のことは書いていなかった。
蓮は紙の余白を見た。六つの欄の右は白かった。
七つ目の欄が、なかった。
「ライラさん」
蓮は馬車の縁から声をかけた。ライラが馬を寄せてきた。
「穴がありましたか」
「穴はありません。数は全部合っています」
「では」
「欄が一つ足りないと思います」
ライラの白墨が止まった。
「何の欄ですか」
「その家の人が、置いていくものの欄です」
ライラは蓮を見た。初めて、少しだけ眉が動いた。
「荷車に載らないものは全部置いていきます。家。畑。井戸。それは数えてあります。五十二軒。千二百俵ぶんの畑。井戸は村ごとに二つ」
「それじゃなくて」
蓮は言葉を探した。
「隣の家です。この紙だと、隣同士の家が別の村へ行く。……それから、たぶん墓も。親の建てた家も。俺には分からないけど、他にもあると思います」
「数えられないものは、板には書けません」
ライラは言った。冷たい声ではなかった。事実を言っている声だった。
「隣の家と離れるのが麦何俵ぶんの損なのか。墓を置いていくのが何人ぶんの重さなのか。それが数になるなら書きます。ならないものを欄にしても、升目は埋まりません。埋まらない升目は判断を遅らせます」
「埋まります」
蓮は言った。
「訊けば」
「訊く?」
「一軒ずつ。何を置いていけませんか、と。答えをそのまま書く。数にはならなくても、欄は埋まります」
ライラは黙った。馬の蹄の音だけがしていた。
「……五十二軒に、ですか」
「前に十人に十の問いを訊いたことがあります。三日かかりました。五十二軒に一つの問いなら、二日あれば」
「二日はありません。明日の朝、鐘が四つの時に一つ目の村で伝えます。荷車は明後日の朝に着く割り当てです」
「なら、今夜と明日の朝までで、訊ける分だけ」
「訊いて、どうするのですか」
ライラの目がまっすぐに蓮を見ていた。試す目ではなかった。本当に分からないのだった。
「置いていけないと言われたものを、置いていかずに済むようにはできません。墓は荷車に載らない。隣の家を同じ村へ送れば空き家が足りなくなって、家を建てる日数がかかる。その日数ぶん、夜が増える」
「全部は無理だと思います」
蓮は正直に言った。
「でも、五十二軒の答えが並べば、同じ答えが何軒もあるはずです。いちばん多い答えが分かれば、そこだけは何とかできるかもしれない。……できなくても、何を置いていかせるのかを知った上で動かすのと、知らずに動かすのとは、違うと思います」
ライラは長い間何も言わなかった。膝の上の板を見下ろしていた。六つの欄と、その右の何も書いていない所を。
「……今夜と、明日の鐘が四つまで」
やがてライラは言った。
「その間をあなたに割り当てます。村の者には、まだ引き払いのことは言わないでください。伝えるのは私の役目です」
「言いません。火の決まりを置きに来た、と言います。火が上がった夜にどこへ逃げるか。その時何を持って出るか。何を置いていけないか。……それなら嘘じゃない」
ライラは頷いた。白墨を取って、膝の板の六つの欄の右に線を一本引いた。
七つ目の欄だった。
上に何と書くか、少し迷っていた。それから書いた。
――置いていけないもの。
升目は五十二、空いていた。
「埋まらなかったら消します」
「はい」
「埋まったら」
ライラはそこで言葉を切った。その先をまだ決めていない顔だった。
一つ目の村に着いたのは、日が沈む少し前だった。
東の外れの、家が十四軒の村だった。その先は砂だった。
村の入り口に近い三軒は、戸が板で打ちつけてあった。十一人がいなくなった家だった。軒先には干した菜が吊るしたままになっていて、誰も取り込んでいなかった。
井戸端に、六十を越えた女が一人いた。桶に水を汲んで、打ちつけられた戸の前へ運んでいた。戸口の脇には鉢が並んでいて、花が植わっていた。女はその鉢に水をやっていた。
一軒目。二軒目。三軒目。
どの家の鉢にも、同じように。
蓮は馬車を下りた。フィールが後ろについてきた。胸の徽章を見て、女は手を止めた。
「どちらの従士様で」
「『移動』の者です。火の決まりを置きに来ました。悪魔が来た晩に、都へ知らせる火です」
「……ああ」
女は打ちつけられた戸を見た。
「一月、遅うございましたな」
責める声ではなかった。ただ、そうだ、と言っただけだった。
「一つ訊いてもいいですか」
蓮は言った。
「火が上がった晩に、村の人には内側の村の方へ逃げてもらうことになります。その時持って出るものと置いていくものを、決めておいてほしいんです。……どうしても置いていけないものは、ありますか」
女は桶を置いて、腰を伸ばした。しばらく考えていた。
「鍋と種籾は持って出ます。あとは置いていきます。年寄りの一人暮らしだ。大したものはない」
「置いていけないものは」
「ありませんよ。そんなもの」
女は笑った。それから笑ったまま、戸口の鉢を見た。
三軒ぶんの鉢を。
「……ああ。一つ、ありました」
「何ですか」
「この家です」
女は打ちつけられた戸を、節の太い指で指した。
「わたしの家じゃあありません。隣の三軒だ。若い夫婦と子が三人。その隣が兄弟と嫁さん。いちばん端が爺さんと婆さんと孫娘」
十一人。
蓮は頭の中で数えた。合っていた。
「あの晩、わたしは戸の内側で布団をかぶっておりました。物音がして、朝になったら三軒とも空だった。……死んだとは誰も言うておりません。亡骸がない。連れていかれただけだ」
女は鉢の花に指で触れた。
「帰ってくるかもしれんでしょう」
蓮は息を止めた。
「いつか。ひょっこりと。その時に村に誰もおらなんだら、あの子らはどこへ帰ればいいんです。鉢が枯れておったら、誰も待っておらなんだと思うでしょう」
東の端の、黒い石の床。
片方だけの靴。
四十一。
蓮はそれを見てきた。帰ってこないと知っていた。知っていて、言えなかった。
あれは炎氷の国の話だった。この村の十一人の靴を、蓮はまだ見ていない。見ていないものは言えない。
「だから、わたしはここを動けません」
女は桶を持ち上げた。
「火が上がっても、よそへは行きません。置いていけないものは、それです。……書いておいてくださいな、従士様」
蓮は帳面を開いた。手が少し重かった。
書いた。
一軒目。置いていけないもの。
――隣の三軒。帰ってくるかもしれない十一人の、帰る場所。
馬車の脇で、ライラが馬に乗ったまま、それを聞いていた。
膝の上の板に、白墨が触れていた。
七つ目の欄の、一つ目の升目。
何も書けずにいた。
数ではなかった。麦何俵ぶんでも、何人ぶんでもなかった。
升目は白いままだった。
それでもライラは、白墨を板から離さなかった。




