刻限どおり
雷撃の国の国境には誰もいなかった。街道の脇に石の柱が一本立っていて、こちら側に炎と氷の紋、向こう側に稲妻の紋が刻まれている。それだけだった。
「……今度は、待ってねえのか」
リアムが荷台から首を伸ばした。
「柱にもたれて、偉そうにしてる奴」
「いないわね」
ベルは少し物足りなさそうだった。
蓮は柱を見ていた。稲妻の紋の下に、革の筒が紐で結わえてあった。筒の表には白墨で字が書いてあった。
『移動』の名代へ。
フィールが筒を外して、中から細く巻いた紙を取り出した。広げると、角ばった小さな字が並んでいた。一画もはみ出していなかった。
――国境から都まで、馬車で一日半。
――一日目の宿は、二つ目の駅。馬の替えは手配済み。
――三つ目の駅と四つ目の駅の間は、荷馬車の列が昼に通る。刻の鐘が六つ鳴るまでに抜けること。
――都への到着は、明後日の昼。鐘が七つの時に、館の門を開ける。
――遅れる場合は、駅の鳥舎から鳥を。半刻より長く遅れるなら、会う順番を入れ替える。
――ライラ
フィールは紙を二度読んだ。
「……迎えは、来ないということね」
「来る必要がないからだと思う」
蓮は言った。
「道のりも宿も刻限も、全部書いてある。迎えの者を一人、一日半立たせておくより、紙を一枚結んでおく方がずっと安い」
「感心してるの?」
ベルが蓮を横目で見た。
「段取りがいい」
「レンが、もう一人いるみたいで嫌だわ」
ロイが噴き出した。フィールは紙を巻き直して、筒に戻した。
「刻限どおりに、行きましょう」
雷撃の国は音のする国だった。
街道沿いの村を通るたびに、低い唸りが聞こえた。ごうん、ごうん、と。村の外れの小屋から太い木の軸が突き出して回っていて、軸の先では石の臼がひとりでに麦を挽いていた。
川はなかった。風車もない。馬もつながれていなかった。
「何で回ってるんだ、あれ」
リアムが訊くと、小屋の番をしていた男が顎で軸の根元を指した。鉄の輪に、握り拳ほどの灰色の石が一つはめ込んであった。石の中には青白い筋が細く走っていた。
「雷石だ。当主様の雷を込めた石さ。あれを輪にはめると、軸が回る。月に一つ、都から届く」
「月に一つで、ずっと回るのか」
「昼も夜もな。この村の粉は全部あれで挽く」
男は少し得意そうだった。
「水の国の水を畑へ汲み上げるのも、鍛冶場の風を送るのも、雷石だ。この国じゃ、人は臼を回さん。臼が人の代わりに回る」
ミラが荷台から身を乗り出して、鉄の輪の石をじっと見ていた。陣は刻まれていなかった。力を詰めただけの石で、空になれば終わる。フレアの国の塔の石と同じ理屈だった。
駅は街道沿いに同じ間を置いて並んでいて、どの駅にも鐘楼があった。一つ目の駅で鐘が四つ鳴ると、少しして遠くの二つ目の駅から同じ四つが聞こえた。その向こうからも聞こえた。鐘が街道を走っていった。
「刻を揃えてるんだ」
蓮は言った。
「国じゅうで、同じ時に同じ数を鳴らす。だから、刻限が紙に書ける」
「うるさい国ね」
ベルは耳を押さえていた。
三つ目の駅を過ぎた所で、荷馬車の列とすれ違った。二十台はあった。どの荷台にも木の箱が隙間なく積んであり、箱の横には稲妻の紋が入っている。幌には別の紋があった。
翼を広げた鳥。
蓮は身を起こした。『移動』の紋だった。
先頭の荷馬車の御者がこちらの幌を見上げた。五百二羽の鳥を。それからフィールの胸の徽章を。
御者は手綱を引いて荷馬車を止めた。後ろの十九台が次々に止まった。荷台から飛び降りたのは、日に焼けた五十がらみの男だった。徽章からフィールの顔へ目を上げて、その目が見開かれた。
「……隊長」
男は右の拳を左の胸に当てた。後ろの荷馬車からも御者たちが次々に降りてきて、同じ礼をした。
「『移動』の第二部隊、物流隊であります。雷石を、水の国へ運ぶ途中で」
フィールは馬車を下りて、一人ずつ顔を見ていた。
「無事だったのね」
声が少しかすれた。
「国境の夜、物流隊はどこに」
「水の国におりました。戻った時には、隊が、あの有様で。……イグレイン副長から聞いております。隊長は外で遠征を続けておられると」
御者はフィールの胸の徽章をもう一度見た。縁の細い線を。何も言わなかった。ただ、礼が少し深くなった。
「こんな所まで来ているのね」
「どの国へも参ります」
御者は笑った。
「雷石も水の割り当ての樽も、回復の国の薬草も。国境を越えて運べるのはうちの隊だけです。当主様が跳ばれるのは、人。わしらが運ぶのは、物だ」
「運び賃はどうなっているの」
フィールが訊いた。隊長なのに知らなかった、という顔だった。遠征と調査ばかりで、荷のことは副長に任せてきたのだ。
「麦と、塩と、布でいただきます」
御者は後ろの箱の山を親指で指した。
「雷石二十箱で、麦が一俵。届け先の国が払う。うちの国の都の市場に並ぶ麦は半分がそれです。砂ばかりの国が食えておるのは、わしらが車を引いておるからで」
「石ではもらわないのか」
蓮が訊いた。
「もらいません」
御者は首を振った。
「石は一つ残らず行き先が決まっております。途中で一箱抜いたら、数が合わなくなる。数の合わない荷は都で受け取ってもらえません」
それから道端の小屋を見た。ひとりでに回っている臼を。
「毎月、何百箱と運びますがね。うちの村の臼は今も馬が回しております。石は運ぶばかりで使ったことがない」
笑ってはいた。笑いの端に、少しだけ別のものが混じっていた。
蓮は二十台の荷馬車を見た。『移動』の貴族は物流を担う。そう聞いてはいたが、都の中にいる間は見たことがなかった。よその国の街道の上で初めて見た。
「鐘が六つ鳴る前に、ここを抜けろと言われた」
蓮は言った。
「この列のことだったのか」
「ライラ様でしょう」
御者は肩を竦めた。
「あの方の紙は半刻と狂いません。わしらの列が何刻にどこを通るか、わしらより先に知っておられる。……ただ、遅れると怖い」
「怒るのか」
「怒りません。黙って、次から列の順を入れ替えられる。遅れた者がいちばん損をするように」
御者は鐘楼の方をちらりと見た。
「では。六つまでに、四つ目の駅を越えねばなりませんので」
荷馬車の列は動き出した。きっちり、同じ間を空けて。
都の門が開いたのは鐘が七つ鳴った時だった。一つ目が鳴った時に門がきしみ、七つ目が鳴り終わった時には馬車は門の内側にいた。
館は、館というより大きな仕事場だった。中庭に木の箱が山のように積んであり、従士たちが帳面を片手に箱の数を数えていた。誰も走っていなかった。誰も立ち止まっていなかった。
通された部屋の壁は一面が黒い石の板だった。白墨で升目が引いてあり、縦に村の名、横に月が並んでいる。升目の一つ一つに数字が書いてあった。何百もの数字だった。
その前に人が背を向けて立っていた。
若い女だった。十七か、八。黒い髪をうなじで一つに束ねていて、袖口が白墨の粉で白かった。女は升目の一つを指で消して書き直し、それから振り向いた。
目が蓮たちを端から順に数えた。
七人。
「刻限どおりですね」
静かな声だった。愛想はなかった。冷たくもなかった。
「助かります。半刻ずれると今日の残りを全部組み直すことになるので」
フィールが拳を胸に当てた。
「『移動』の第二部隊長、フィール。当主キネシス様の名代として」
「『雷撃』の継承候補、ライラです。当主は充填所におります。日暮れまで戻りません」
ライラは拳を胸に当てなかった。代わりに白墨を置いた。
「ご用件を伺います。四つ以内で」
「……四つ?」
「鳥でキネシス様から伺っています。石。火の決まり。国の端。見張りの日誌。四つのはずです。増えていれば、先に言ってください。時間の割り当てが変わります」
蓮はフィールと顔を見合わせた。フィールが小さく頷いた。任せる、という顔だった。
「増えていません。ただ、一つ目はありません」
蓮は言った。
「砂の火の石は九つしか刻めませんでした。同盟の三家と、俺たちの分で終わりです。この国に置く分の石は、今はない」
「分かりました。一つ目は消します」
ライラは黒い板の隅に書いてあった四行のうち、一行を指で消した。惜しそうな顔もしなかった。
「二つ目。火の決まり」
「村に火の台を置いて、悪魔が来たら、数だけ焚きます。隣の村が継いで館まで届ける。鳥より数刻早い」
蓮は炎氷の国での数を話した。鳥より五刻早いこと。二晩目に間に合えば取られるのは一晩ぶんで済むこと。東の砦の村では三十の戸のうち二十六が残ったこと。
ライラは黙って聞いていた。一度も口を挟まなかった。聞き終えて、頷いた。
「理屈は通っています。数も合っている」
「では」
「要りません」
フィールの眉が動いた。
ライラは黒い板の右の端を指した。
村の名が四つ。
その四つの行だけ、来月から先の升目が空だった。数字が書かれていなかった。
「東の外れの四つの村です。先月、そのうちの一つで家が三軒空になりました。十一人です」
「聞いています」
「この四つの村は来月の末までに引き払います」
静かな声のままだった。
「二百三十四人。内側の村へ移します。受け入れる村も、家も、畑の割り当ても、もう組んであります。雷石の配り先からも来月で外します」
蓮は空の升目を見た。
四つの行。来月から先が白い。
「村を捨てるんですか」
「捨てるのではありません。動かすのです」
ライラは言った。
「当主は跳べません。館から東の外れまで馬で一日と少し。火を置いても着くのは二晩目です。あなたの数の通りなら、三つに一つは取られる。二百三十四人の、三つに一つ。七十八人」
白墨を取って、板の隅に数字を書いた。
七十八。
その隣にもう一つ。
零。
「人を動かせば取られるのは零です。あれらは、人のいない村には来ません。畑は惜しい。四つの村で麦が年に千二百俵。ですが、七十八人と千二百俵なら、私は人を取ります」
蓮は何も言えなかった。
間違っていなかった。どこも間違っていなかった。
火を置いて三つに一つを取られるより、人を動かして零にする方がいい。
数だけを見れば、そうだった。
「……村の人は、何と」
フィールが訊いた。
「まだ伝えていません。明後日、私が行って伝えます」
「嫌だと言ったら」
「雷石が届かなくなれば臼は回りません。水も畑へ上がりません。暮らせなくなれば、動きます」
ライラは白墨を置いた。
「恨まれるのは承知しています。恨まれて二百三十四人が生きているなら、その方が安い」
ベルが何か言いかけた。蓮はその袖をそっと引いた。
ライラはそれを見ていた。
「数える方」
初めて蓮をそう呼んだ。
「キネシス様の鳥に書いてありました。段取りを組む従士がいる、と。……引き払いの段取りは私が一人で組みました。受け入れる村。荷車の数。道順。日取り。穴があるかどうかを、自分では確かめられません」
黒い板の右の端を、もう一度指した。
「明日の朝、東へ発ちます。一緒に来て、見ていただけませんか。穴があれば教えてください。直します」
頼む声ではなかった。仕事を割り振る声だった。
それでも、蓮には分かった。自分の組んだ表を誰かに見せるのは怖い。穴を見つけてくれと言うのは、もっと怖い。
「行きます」
蓮は言った。
「三つ目と四つ目の用も東にあるので」
「助かります」
ライラは頷いた。
その時、廊下で床が鳴った。どすどすと、誰かが大股で歩いてきていた。
扉が開いた。というより、押し破られた。
「おう!! 着いとったか、『移動』の!!」
大きな男だった。縦にも横にも。髭は煤で黒く、外套の袖は両方とも肘までまくり上げてあった。腕の毛が一本残らず逆立っていた。
男は部屋を見回した。七人を。蓮の所で目が止まった。
「お前だな!! キネシスの所の、数える小僧は!!」
歩いてきて、大きな手で蓮の背中をばしん、と叩いた。
息が止まった。叩かれた所が、ぴりっと痺れた。
「はっはっは!! 細いな!! 飯を食え、飯を!!」
「当主」
ライラが言った。声の高さが少しも変わらなかった。
「充填は今日あと二度残っています。日暮れまで戻られない割り当てでした」
「分かっとる!! 分かっとるが、キネシスの所の者が来たと聞いて顔を見ずにおれるか!! ムーヴの奴には世話になったんだ!!」
「二度ぶんの遅れは明日の朝に回します。明日は夜明けの鐘が二つの時に充填所へ」
「二つ!? 早すぎるぞ!!」
「今、ここにおられる分です」
ボルツは、ぐう、と唸った。それから蓮の肩を掴んで、ぐいと引き寄せた。耳元で囁いた。囁いたつもりの大声だった。
「見たか。あれがうちの跡継ぎだ。鐘が一つ狂うと機嫌が悪くなる。……だがな、この国が四百五十年でいちばんよく回っとるのは、あれが板の前に立つようになってからだ」
ボルツはにやりと笑った。
「仲良くしてやってくれ。数える者同士だ」
ライラは聞こえないふりをしていた。黒い板に向き直って、明日の朝の升目を一つ書き直した。
袖口の白墨の粉が、少し舞った。




