二行目
砦に戻ったのは昼前だった。門は開いていた。
中庭に村の者たちが座り込んでいた。屋根を抜かれた家の者。戸を破られた家の者。怪我をした者には、布が巻いてあった。
その真ん中をフレアが歩いていた。外套の袖を肘までまくっていた。手に炭のかけらを持っていた。
砦の内壁に字が並んでいた。炭で書いた名前だった。端から端まで。三十軒ぶん。一軒ごとに、線で区切ってあった。
名前の横に小さな印がついているものと、ついていないものがあった。
フレアは馬の蹄の音に振り向いた。テルモを見た。額の乾いた血を。
それから、ベルの馬を。ベルの前に女の子が座っていた。ベルの指をまだ握っていた。その後ろの馬に足に添え木を当てた女がフィールに支えられていた。
フレアの肩から力が抜けた。
壁に歩いていった。いちばん端の一軒の二つの名前の横に炭で印をつけた。
マルタ。
ノエ。
「……百六十三人」
フレアは言った。壁を見たまま。
「この村の者だ。全員、名を訊いた。印のあるのが、今ここにいる者。ないのが、いない者だ。……ゆうべ連れていかれた者で、印のないのは、もう一人もいない」
テルモは馬を下りた。壁の前に立った。百六十三の名前を、端から見ていった。長い間。
「一晩で、これを」
「することが、なかった」
フレアはぶっきらぼうに言った。
「壁の外へ出るなと言ったのは、当主だ。村を見ろ、名を訊けと言ったのも。だから、訊いた。訊いたら、忘れるのが怖くなった。だから、書いた」
テルモは懐に手を入れた。小さな靴を出した。フレアの手に、載せた。
「何だ、これは」
「底を、読め」
フレアは靴を裏返した。彫られた字を読んだ。唇が動いた。
それから、壁を見た。百六十三の名前の中に、その名は、なかった。
「……この村の者じゃ、ない」
「先に消えた三つの村の、誰かだ」
テルモは言った。
「東の端に、あれらが人を運ぶ場所がある。黒い石の床だ。その上に靴が四十一落ちていた。人は、いなかった。……持ち帰れたのは、その一つだけだ」
フレアの手が靴を握った。握った手が震えていた。
「三つの村の者の名を、私は一つも知らない」
テルモは壁の名前を見ていた。
「四百五十年、塔を回ってきた。石に力を込めて、次へ行く。それが当主の務めだと思っていた。村の者は、私の顔を知っている。私は、誰の顔も知らない」
それから、フレアを見た。
「お前は、一晩で百六十三、訊いた」
「……」
「三つの村の縁者を探せ。近くの村に嫁いだ者や、出稼ぎに出た者がいるはずだ。消えた者の名を、全部、訊いてこい。あの壁に、書き足せ」
「俺が」
「私は塔を回らねばならん。八日ぶん、遅れている。……名を訊くのは、お前の方が上手い」
フレアは口を開けた。閉じた。耳が赤くなった。
靴を懐に入れた。留め具のすぐ下に。
ラズロが進み出て、膝をついた。
「当主様。昨夜の悪魔のことは兵たちに、どう」
「私が、焼いた」
テルモは言った。蓮を見なかった。
「継承候補の火を種にして、当主が焼いた。砂にしたのは、当主だ。そう言え。……半分より多くは、本当だ」
ラズロは蓮を見た。剣を突き出した従士を壁の上から見ていたはずだった。
何も、言わなかった。
「は」
それだけ言って、頭を下げた。
三日、砦にいた。
ベルはラズロと兵を二人、毎朝空になるまで撃たせた。フレアもその列に並んだ。
継承候補が従士の隣で石を握るのを、ラズロは初めは居心地悪そうに見ていた。三日目には、慣れていた。
ミラは村の三十軒の戸口に札を下げた。家の者の名前と、数。火が上がった夜に、誰がいて、誰がいないのかを、すぐ数えられるように。
フレアが壁に書いた名前を、一軒ずつ写したものだった。
三日目の夕方、都から鳥が着いた。筒が二つあった。
一つはテルモ宛てだった。テルモは中庭の隅で読んだ。読み終えて、蓮とフィールを呼んだ。
「『水』の家からだ」
紙を見せはしなかった。
「北の街道の三つの塔の下に、水を三日のうちに流す。割り当てを破った件は、当主同士で話す。……私が頭を下げに行くまでもなく、向こうから日取りを言ってきた」
鋭い目が蓮を見た。
「私は、まだ『水』の家に鳥を出していない。誰が、知らせた」
蓮は答えなかった。ベルに言わないでくれと頼まれていた。
テルモはしばらく蓮の顔を見ていた。それから、もう一つの筒を指でつまみ上げた。
「こちらは、宛名が違う」
細い紙の端に流れるような字で、名が書いてあった。
ベル。
「この砦に、そういう名の者は、一人しかいないな」
テルモは筒を蓮の手に落とした。それ以上は、訊かなかった。
ベルは櫓の上にいた。東の砂漠を見ていた。白い砂丘は、ここからは見えなかった。
蓮が筒を差し出すと、ベルは宛名を見て、固まった。
「……来たの」
「来た」
「怒ってる?」
「読んでない」
ベルは筒を受け取った。開けなかった。指の間で何度も転がした。
「……読んで」
「俺が?」
「あたし、読めない。怖くて」
蓮は紙を抜いた。広げた。短かった。ベルの手紙と、同じくらいに。
――ベル。
――水は流す。お前が頼まなくても、流した。
――書庫の陣の本が、一冊足りない。持って出たのなら、帰る時に返しなさい。
――荷台に隠れて出ていった娘を、一年探さなかった。探せば、お前は帰ってきただろう。帰ってきたお前は、また書庫に籠もっただろう。
――元気だと書いてあった。それで足りる。
――怒るのは、顔を見てからにする。
――アクアリス
蓮は読み終えた。
ベルは動かなかった。櫓の手すりを握っていた。
「……何よ、それ」
かすれた声だった。
「探さなかったって。……キネシス様が鳥で訊いた時も、好きにさせてやってくれ、の一行だったくせに」
「うん」
「放っておいたくせに」
「放っておいたんだと思う。わざと」
ベルは唇を噛んだ。目の縁が赤かった。
「本、持って出てないわよ。全部、頭に入れたもの。……一冊足りないのは、あたしのせいじゃないわ」
「帰った時に、そう言えばいい」
「言うわよ」
ベルは蓮の手から紙をひったくった。小さくたたんで懐の奥にしまった。
それから、乱暴に袖で目をこすった。
「怒るのは顔を見てから、ですって。……結局、怒るんじゃない」
声が、少し笑っていた。
発つ朝。砦の門の前に馬車が止まっていた。都からラズロの兵が引いてきたものだった。
幌の縁に、糸が三本。三本目はこの三日で増えたものだった。砦の村の子どもたちが、蓮とベルに教わって折った。北の街道の村からもヨナスが使いに持たせてきた。
蓮は数えた。
都で足された四十三。砦の村で、三十八。北の村から、五十一。三百六十九に、足した。
「五百一」
「半分、越えたわね」
ベルが言った。膝の上にノエが座っていた。羽が三枚ある鳥を、握っていた。
「数える奴」
フレアが門の柱にもたれていた。腕を組んでいた。国境の柱の時と同じ格好だった。襟の留め具が磨いてあった。
「三本勝負の、決着がついていない」
「二対一で、こっちの勝ちよ」
ベルが言った。
「それが気に入らないと言っている。四本目だ」
「四本目って何よ。三本勝負でしょ」
「うるさい。これだ」
フレアは懐から紙を一枚出した。蓮の方へ、突きつけた。
「鳥を折る。速い方が勝ちだ」
リアムが荷台の上で噴き出した。
「お前、三日前に覚えたばっかだろ」
「三日あれば、足りる」
フレアは紙を構えた。
蓮は少し笑った。荷から紙を一枚出した。
「ミラ。数えてくれ」
「……一」
フレアの指が動いた。
速かった。
角と角がぴたりと合った。折り目が爪の一撫でで、まっすぐについた。二つ数える間に陣を編む指だった。
蓮は三つ目の折りで、もう遅れていた。
「……七」
フレアの手のひらに鳥が立っていた。首がまっすぐだった。
蓮の鳥ができたのは、十一だった。
「二対二だ」
フレアは胸を張った。
「ずるい!!」
ベルが叫んだ。
「あんたの指が速いのは、最初から分かってたじゃない!! それで勝負を選ぶなんて!!」
「勝負を選ぶのも、腕のうちだ」
「レン!! 何か言いなさいよ!!」
「速かった」
蓮は正直に言った。
「俺が教えた中で、いちばん速い。……二番目は、紙売りだった」
「誰だ、それは」
「遠い国の、友達だ」
フレアは怪訝そうな顔をした。
それから、自分の鳥を幌の糸の端に結びつけた。不器用に。結び目は指ほどには速くなかった。
「五百二だ」
ぼそりと、言った。
「千になったら、数えに戻れ。……その時に、五本目をやる」
テルモは門の脇に立っていた。片袖のない外套は新しいものに替わっていた。額に細い傷が残っていた。
蓮の前に石を一つ差し出した。黒い陣の埋まった、砂の火の石だった。この国に置いた二つのうちの、一つ。
「これは」
「返すのではない」
テルモは石をフレアの方へ放った。フレアが慌てて両手で受けた。
「当主?」
「お前に、持たせる」
フレアの目が見開かれた。
「ただし、握るのは、砦の壁の上でだけだ。合図は、握る前に決めておけ。眉を焦がされた者がいるのを、忘れるな」
「俺の眉の話は、もういいだろ……」
リアムが荷台でぼやいた。
フレアは石を見下ろしていた。長い間。
それから、右の拳を、左の胸に当てた。石を握り込んだまま。
テルモはフィールに向き直った。
「名代。キネシスに伝えろ」
「はい」
「跳べる当主が羨ましい、と言ったのは、取り消す」
フィールが瞬きをした。
「私は跳べない。東の外れまで、馬で一日かかる。それは、変わらない。……だが、私の左には、二つ数えるうちに火を編む者が立つ。右には、数える従士を貸せとは言わんが、数え方は盗ませてもらった」
鋭い目がほんの少しだけ和らいだ。
「三つに一つでいい。半分なら、なおいい。そう伝えろ」
「必ず」
フィールは拳を胸に当てた。徽章が朝日を受けた。
テルモはそれを見た。
「イライザの印は、まだ傷がついていないな」
「お返しする日まで、つけません」
「そうしろ」
馬車が動き出した。
からからから、と風車が回った。五百二羽が一斉に羽を揺らした。
ノエが母親の腕の中から手を振っていた。三枚羽の鳥を握ったまま。ベルが荷台の後ろから振り返していた。
門が小さくなった。
その前に、二つの影が立っていた。痩せた影とその左に、少し背の低い影。
角を曲がるまでどちらも、動かなかった。
南へ向かう街道の上で、蓮は帳面を開いた。
十三の行。一行目にはもう印がついていた。
二。炎氷。
その横に、書いていった。
砂の火の石、二。一つは砦のラズロ。一つはフレア。
篝火の決まり。二十の塔と、東の砦に。火は、鳥より五刻早い。
気候の塔、三つ。畑、四百十のうち百五十二。種田、五十七。『水』の家に、借り。
人の火に、貴族の熱。種火。合図は、数で。
東の砦。悪魔、三体。一体は砂。二体は逃げた。攫われた者、二人。二人とも、取り返した。
東の端。柱、七本。靴、四十一。
鳥、五百二。
書き終えて、二行目の頭に印をつけた。
残りは、十一行。
それから、少し考えて、行の下に小さく書き足した。
フレア、十九。本人には、言った。
言った時の顔を、蓮は思い出した。
二十だ、とフレアは言った。お前たちが戻るまでに、二十にしておく、と。
馬車は、南へ進んでいた。
次は、雷撃の国だった。家が三軒、朝になったら空だったという、国だった。




