片方の靴
夜の砂漠を四頭の馬が走った。
テルモが先頭だった。馬の蹄の先で砂が薄く凍っていった。氷の道だった。沈む砂の上に、固い道を一筋引いていた。
蓮はその後ろを走った。フィール。ベル。
ベルは鞍にしがみついていた。馬に乗り慣れていなかった。それでも、遅れなかった。
前を、黒い影が飛んでいた。
低く。
砂丘の稜線を、かすめながら。
翼が重そうに空気を叩いていた。脇に抱えた小さな足はもう暴れていなかった。
一刻、追った。
二刻。
影との間は、少しずつ縮まっていた。
東の空の端が白み始めた。
砂に白い欠片が混じり始めていた。貝殻だった。
蓮は手綱を握り直した。
近い。
風が弱くなっていた。前方に、大きな白い砂丘が横たわっていた。最後の砂丘だった。
影はその手前で、一度高度を落とした。
翼が砂を擦った。
立て直した。
振り返った。
赤い目が、追ってくる四頭を見た。
先頭の、貴族を。
仲間を一体、砂にした貴族を。
影が、迷った。
ほんの一呼吸。
それから。
両腕を、開いた。
抱えていたものが、落ちた。
二つ。
大きい方は、砂丘の斜面に落ちて、転がった。
小さい方は。
高かった。
屋根ほどの高さから、まっすぐに。
「ベル!!」
蓮の声より先に、ベルは鞍の上で石を握っていた。
蓮の器は、夜の合図で空になっていた。六角の盾を張れるのは、ベルだけだった。
拳を、突き出した。
落ちてくる小さな体の、真下に。
六角の光。
ガシャァンッ!!
割れた。
一枚ぶん、遅くなった。
もう一度、握った。
二枚目。
ガシャァンッ!!
フィールが馬から飛び降りていた。
両腕を、広げた。
受けた。
砂の上に、背中から倒れた。
腕の中のものは、離さなかった。
泣き声が、上がった。
細い、かすれた泣き声だった。
生きていた。
身軽になった影は、もう砂丘の頂を越えていた。さっきまでの重さが、嘘のような速さだった。
テルモは追わなかった。馬を止めていた。斜面を転がった方へ、駆け寄っていた。
女だった。三十ほどの。寝間着のままだった。足首が、おかしな方へ曲がっていた。
それでも、這っていた。砂を掴んで、泣き声の方へ。
「ノエ……ノエ……!!」
「生きている」
テルモは女の前に膝をついた。
「お前の子は、生きている。動くな。足が折れている」
女はテルモの顔を見た。誰なのか、分からない顔だった。それから、襟の留め具を見た。炎と、氷の紋。
女の目から、涙があふれた。
「当主、様……」
フィールが子どもを抱いて歩いてきた。五つほどの女の子だった。母親の腕に渡そうとした。
女の子は泣きやまなかった。体を突っ張らせていた。誰の腕も、怖いのだった。黒い腕に、一晩抱えられていたのだから。
ベルが馬から下りてきた。足が、がくがくしていた。女の子の前に、しゃがんだ。
何も言わなかった。困った顔をしていた。
それから、おずおずと手を出した。女の子の握りしめた小さな拳に、指を一本当てた。
泣き声が、少し弱くなった。拳が、開いた。ベルの指を、握った。ぎゅっと。
泣き声が、しゃくり上げになった。それから、止まった。
「……また、これ」
ベルは小さく言った。困った顔のままだった。
「なんで、あたしなのよ」
テルモはそれを見ていた。鋭い目がほんの少しだけ緩んだ。
それから、立ち上がった。東を見た。白い砂丘の頂を。影が消えた所を。
「あれは、どこへ運ぶつもりだった」
誰に訊くでもなく、言った。
「三つの村の者を、全部、この先へ運んだ。この砂丘の向こうに、何がある」
蓮は答えなかった。答えを、知っていた。
「見に行きます」
蓮は言った。
「テルモ様も、来られますか」
テルモは蓮を見た。お前は何か知っているな、という目だった。
「行く」
「ベル」
フィールが言った。
「この二人を、お願い。馬を一頭、置いていくわ」
ベルは顔を上げた。蓮を見た。白い砂丘を見た。女の子の手は、ベルの指を握ったままだった。
「……分かったわ」
ベルは言った。
「行ってきなさいよ。あたしは、動けないもの。見ての通り」
握られた指を、少し持ち上げて見せた。
白い砂丘は馬では上れなかった。砂が深すぎた。三人は、歩いて上った。
半ばまで来た所で、テルモの足が遅くなった。立ち止まった。眉を寄せていた。
「……妙だな」
低い声だった。
「何をしに上っているのだったか、と思った。今」
フィールが頷いた。
「私もです。回復の国の端でも、同じでした。行かなくてもいい、という声がするんです」
「誰の声だ」
「分かりません」
テルモは自分の足を見下ろした。砂に沈んだ、長靴を。
「私の民が、この先へ運ばれた。三つの村だ。見に行かない理由が、どこにある」
吐き捨てるように、言った。
足を、引き抜いた。一歩。また一歩。砂を踏みつけるように、上っていった。
蓮の足は軽かった。誰の声も、しなかった。
頂の手前で、蓮は二人を手で止めた。伏せた。稜線から、目だけを出した。
砂が、下っていた。
その先で、終わっていた。
まっすぐに。
その先に、何もなかった。
三度目だった。
三度目でも、胃の底が浮いた。
蓮は歯を食いしばった。
目を、手前に戻した。
在った。
黒い柱。
数えた。
七本。
半円。
残りの半分は、砂の終わった先に、消えていた。
柱に囲まれた、黒い石の床。
七重の輪。
回復の国で見たものと、同じだった。
千四百年前の誰かが書いたものと、同じだった。
外周の東の端に至る。砂の果てに、黒き柱、七つ。半ば輪をなす。
懐の紙の、あの三行の通りだった。
テルモが隣に伏せていた。息が、止まっていた。
「……何だ、あれは」
「魔物が、生まれる所です」
蓮は囁いた。
「回復の国の北の端にも、同じものがありました。陣が光って、砂から狼が出てくるのを、見ました」
テルモは蓮を見た。鋭い目が、見開かれていた。
「キネシスは、知っているのか」
「知っています。サナトス様も」
「私には、知らせなかったな」
「鳥に書けることでは、なかったので」
テルモは黙った。柱を見た。その向こうを。
「海か」
ぽつりと、言った。
「青いな。……あんなものを背にして、あれは、立っているのか」
蓮は何も言わなかった。
フィールが蓮の左に伏せていた。手が、砂の上を這ってきた。蓮の手の上に、重なった。何も、訊かなかった。
陣の真ん中に、影が立っていた。
あの悪魔だった。
翼を、畳んでいた。
砂丘の方を、振り返っていた。
追ってくるかどうかを、確かめていた。
それから、背を向けた。
歩いた。
黒い石の床の上を。
東へ。
柱のない方へ。
砂の終わる、その縁へ。
蓮は目を凝らした。
目が、滑った。
それでも、見た。
悪魔は、縁で、止まらなかった。
踏み出した。
何もない所へ。
足が、消えた。
膝が。
腰が。
切り落とされるように。
見えない半円の、内側へ。
頭が、最後だった。
消えた。
音は、しなかった。
「……海へ、入った」
テルモがかすれた声で言った。
「歩いて。沈みもせずに。……どこへ行った」
「向こうへ」
蓮は言った。それだけは、嘘ではなかった。
「あそこは、出口でも、入口でもあるんだと思います。あれらは、あそこから来て、あそこへ帰る」
テルモは長い間動かなかった。
それから、立ち上がった。伏せていろ、と言う間もなかった。
「テルモ様」
「あれは、消えた。今、あそこには何もいない」
砂丘を、下り始めた。一歩ごとに、足が重そうだった。行かなくていい、という声に、逆らっていた。
「キネシス様は、触れるなと」
「キネシスは、キネシスの国の端の話をした。ここは、私の国だ」
テルモは振り向かなかった。
「私の民が、あの上に運ばれた」
蓮はフィールを見た。フィールはもう立ち上がっていた。青ざめていた。足が震えていた。それでも、頷いた。
三人は、砂丘を下った。
柱は近くで見ると、人の背丈の三倍あった。黒かった。光を、吸っていた。
蓮は柱より内側へは入らなかった。床の縁で、足を止めた。
黒い石の上に、ものが落ちていた。散らばっていた。
靴だった。
片方だけの、木の靴。
小さかった。
その隣に、帯。髪を結ぶ、色の褪せた紐。割れた、土の椀。首から下げる、木彫りの小さな鳥。杖。前掛け。寝間着の、袖だけ。
どれも、砂をかぶっていた。
人はいなかった。骨も、なかった。持ち物だけが、陣の輪の上に、点々と残っていた。
蓮は数えた。数えずには、いられなかった。
靴が、四十一。
ほとんどが、片方だけだった。攫われた時に、片方は脱げたのだ。村の、家の中で。
テルモは床の縁に膝をついていた。手を、伸ばした。いちばん近い靴を、拾い上げた。手のひらに載る大きさだった。
底に、文字が彫ってあった。親が、子の名を彫る。どの村でも、そうする。
テルモはそれを読んだ。唇が動いた。声には、ならなかった。
「……ご存じの、子ですか」
フィールが小さく訊いた。
「知らん」
テルモは言った。
「四百五十年、この国を回ってきた。塔の石に力を込めて、次の塔へ行く。村の者の顔など、いちいち見ていない。名など、一つも知らん」
靴を、握った。
「知らんまま、三つの村が消えた。……名を訊け、と、あれに言ったのは、私だ」
フレアに、言った言葉だった。
蓮は木の枠を出した。床の縁に、据えた。
粉は、立っていた。
立って、倒れていた。
全部が、同じ向きに。
柱のない方へ。
砂の終わる、その先へ。
回復の国の砂丘の上で見た時より、ずっと強く。紙の上で、粉が、流されそうなほどだった。
「テルモ様」
蓮は言った。
「あれらが、なぜ生かしたまま運ぶのか。ずっと、分かりませんでした」
テルモが顔を上げた。
「この粉は、魔素に寄ります。ここでは、全部が、あの先へ流れています。砂丘の上より、ずっと強く」
蓮は粉の靡く先を指した。
「人が死ぬと、魔素が放たれます。この床の上で死ねば、それは、あの先へ流れていく。……ここまで運ぶのは、ここで死なせるためです」
テルモの手の中で、小さな靴が、きしんだ。
「糧か」
低い声だった。
「あれらは、私の民を、畑の麦のように刈って、ここで脱穀していたのか」
蓮は答えられなかった。
一つだけ、分からないことが残っていた。
アスモデウスは運ばなかった。集落の人をその場で殺して、並べた。同じ糧なら、なぜ、やり方が違うのか。
蓮は帳面を開いた。書いた。
――東の端。柱、七本。半円。七重の陣。回復のものと同じ。千四百年前の記とも、同じ。
――悪魔は、柱のない側へ歩いて、消えた。あそこから、来て、帰る。
――陣の上に、持ち物。靴、四十一。人は、いない。
――生かして運ぶのは、ここで死なせるため。
その下に、もう一行。
――アスモデウスは、運ばずに並べた。なぜ違うのか。分からない。
テルモは立ち上がっていた。靴を、懐に入れた。
柱を、見上げた。いちばん近い、一本を。
鋭い目が、熱を持っていた。冷たい熱だった。
「燃えろ」
ゴオオオオオオオッ!!
柱が、炎に包まれた。
白い炎だった。
種火のない、一から燃やした、本物の絶炎だった。
熱が、蓮の顔を叩いた。
フィールが蓮の腕を引いて、下がった。
炎は、十数える間、柱を呑んでいた。
消えた。
柱は、立っていた。
黒いままだった。
焦げ跡も、なかった。
テルモの額から、血が、一筋流れた。
「……殻か」
かすれた声だった。
「あれらの体と、同じだ。貴族の炎を、通さない」
その時。
足の下で、何かが、鳴った。
低く。
床の、陣の線が、光っていた。
七つの輪が。
外から、順に。
赤黒く。
真ん中の、渦の紋の上で、砂が、盛り上がり始めた。
狼の大きさでは、なかった。
もっと、長かった。
太かった。
「退きます!!」
フィールが叫んだ。
号令の声だった。
テルモの腕を、掴んでいた。
貴族の腕を、従士が。
「テルモ様!! 今のあなたは、大きな炎をあと一度しか撃てません!! ここで使えば、砦へ帰る道で、何も残らない!!」
テルモは盛り上がる砂を睨んでいた。
歯が、鳴っていた。
それから、踵を返した。
三人は、砂丘を駆け上がった。
頂で、蓮は一度だけ振り返った。
黒い床の真ん中で、砂の塊が、長い胴になりかけていた。
その周りに、靴が、散らばっていた。
四十一から、一つ引いて。
四十。
ベルは砂丘の二つ手前の窪みに座っていた。膝の上で女の子が眠っていた。ベルの指を握ったまま。
母親は、その隣で、折れた足を伸ばして、娘の髪を撫でていた。マルタ、と名乗ったのだと、ベルが言った。
「訊いたの。名前。……フィールが、いつもそうするから」
ベルは三人の顔を見た。テルモの額の血を。フィールの、青ざめた顔を。
蓮の所で、目が止まった。
蓮は両手を外套の下に入れていた。震えを、隠していた。
「……あったのね。何か」
「あった」
蓮は言った。
「後で、話せる分だけ、話す」
「そう」
ベルはそれ以上訊かなかった。
フィールがベルの隣にしゃがんだ。息を整えていた。それから、白い砂丘を振り返った。
「あの向こう、海よ」
静かな声だった。怖いものを見た後で、きれいなものの話をしたい声だった。
「青くて、広かった。……ベルは、見たことがないって言っていたわね。私がこの子を抱いているから、上まで行ってくる? 頂から、少し覗くだけなら」
ベルは砂丘を見た。白い稜線を。その向こうの、空を。長い間。
女の子の手が指を握っていた。それを理由にすることも、できた。
ベルはそうしなかった。
「いい」
首を、横に振った。
「見ない」
「どうして。すぐそこよ」
「約束だから」
「誰と?」
ベルは蓮を見なかった。膝の上の、女の子の寝顔を見ていた。
「あたしと」
小さな声だった。
「レンが話せるようになったら、その時に見るって、決めたの。それまでは、見ない。……すぐそこでも」
フィールはベルを見ていた。それから、蓮を。何かを言いかけて、やめた。
「そう」
それだけ、言った。
ベルは空いている方の手を、蓮の方へ伸ばした。外套の下から、蓮の右手を引っ張り出した。
震えているのを見た。何も言わなかった。
指を、数えた。
一、二、三、四、五。
「五本」
握った。そのまま離さなかった。
片方の手を女の子に握られて。片方の手で蓮の手を握って。ベルは身動きが取れなくなっていた。
「……何よ、これ」
困った顔で、言った。
蓮の手の震えは、止まっていた。
東の空で日が昇った。
テルモは少し離れた砂の上に立っていた。懐から小さな靴を出していた。朝の光にかざしていた。底の文字を、もう一度読んでいた。
「マルタ」
テルモは言った。折れた足の女が顔を上げた。
「お前の村は、三十軒だったな。開けられた戸は、何軒だ」
「……うちを入れて、五軒です」
「五軒の者の名を、言えるか」
「言えます。皆、言えます」
「砦に戻ったら、全部、聞かせろ」
テルモは靴を懐に戻した。
「消えた三つの村の分もだ。知っている者を、探す。……四十一、いや、四十の靴の持ち主を、一人ずつ」
鋭い目が、白い砂丘を見た。その向こうにあるものを。
「名も知らんものを、取り返しには行けん」




