三つ目の光
東の砦は小さかった。砂色の石を積んだ四角い壁。見張りの櫓が、一つ。
壁の下の斜面に村がへばりついていた。家が三十ほど。その先は、もう畑ではなかった。砂だった。
東の地平まで、砂と空しかなかった。外周の砂漠だった。
砦の隊長は、門の前で膝をついていた。四十がらみのがっしりした男だった。右の手のひらに、布を巻いていた。
「ラズロと申します」
顔を、上げなかった。
「当主様。先日は、申し訳ございません。石を握らせていただきながら、肩の端にしか」
「立て」
テルモは馬の上から言った。
「初めて握った石で、悪魔に火を通した従士は、この国でお前が最初だ。詫びることはない」
ラズロは顔を上げた。それから、テルモの左にいる者を見て、目を見開いた。
フレアだった。泥の落ちきらない外套で、背筋を伸ばして、馬に跨っていた。
「継承候補様が、なぜ」
「砦までだ」
テルモが言った。
「壁より外へは、出さない。お前の兵にも、そう言っておけ」
「は」
フレアは何も言わなかった。東の砂を見ていた。一年、岩の前で思い描いていた場所だった。
昼の間、ベルは砦の中庭でラズロと兵を二人並べていた。窓を知る七人のうち、この砦にいる三人だった。
「握った時にはもう出てるの。だから、握る前に、どこに当てるか決めておくのよ。肩の端に当たったのは、握ってから狙ったからでしょ」
「……その通りです」
「毎日、空になるまで。悪魔は、三つも待ってくれないけど、石なら待たせなくていいんだから」
回復の国の外壁で言ったのと、同じことを言っていた。教え方が、少しだけ上手くなっていた。
蓮は壁の上にいた。テルモと、フレアと。
壁の上から、村の井戸まで、百五十歩。フレアの火は、二百歩飛ぶ。届く。
だが、もう一つ、届かないものがあった。
「声だ」
蓮は言った。
「溜め池では、俺が隣で数えた。ここからだと、村の中で俺が数えても、壁の上のフレアには聞こえない」
「怒鳴れ」
フレアが言った。
「怒鳴っても、戦の最中だ。悲鳴も、扉を破る音もある」
テルモは腕を組んでいた。
「では、どうする」
蓮は懐の石を握った。壁の外へ、拳を向けた。
六角の光が、宙に浮いた。
緩めた。消えた。
握った。浮いた。
青白い光が、昼の日の下でも、はっきり見えた。
「数を、光で送る」
もう一度、握った。
「テルモ様が悪魔に触れたら、俺が一つ目を光らせる。窓が胸まで回るのに、三つ。フレアは、一つ目の光を見たら編み始めろ。二つで編んで、飛ぶのに一つ。三つ目の光の時に、火が悪魔の胸にある」
フレアは六角の光を睨んでいた。
「一つ目で、編み始める」
「そうだ」
「三つ目で、当たる」
「そうだ。テルモ様は、三つ目の光で熱を送ってください。火を目で追わずに」
テルモは頷いた。それから、ぼそりと言った。
「盾を、合図に使うのか」
「悪魔の指には、紙なので」
蓮は言った。
「紙なりの、使い道を」
テルモの口の端が、ほんの少しだけ動いた。
日が落ちるまで、三人はそれを繰り返した。
昼の間は光を使わなかった。蓮の器では六角の盾は日に三枚が限りだった。蓮は村の井戸の脇に立って、腕を三度、振り上げた。一つ。二つ。三つ。
村の井戸の脇に据えた岩が七度、白い火に包まれた。
八度目はやらなかった。フレアの器を、夜のために残した。
来たのは、夜半だった。
櫓の上でミラが弓を握り直した。
「……影」
小さな声だった。
「三つ。東から。低い」
蓮は壁の縁から身を乗り出した。
月の下の砂の上を、黒いものが滑ってきた。
翼を、広げていた。
音が、しなかった。
三体。
そのうちの一体は、片方の腕が肘から先までなかった。
テルモが枷で焼き落とした腕だった。
まだ、生えていなかった。
「……同じ三体だ」
テルモが低く言った。
「私が北へ発ったのを、見ていたな。当主のいない砦だと思って、戻ってきた」
三つの影は、砦の上を越えなかった。壁の下の村へ、降りた。
一体目。腕のない悪魔は、村の井戸の脇に立った。辺りを見回していた。見張りだった。
二体目は、いちばん手前の家の屋根に降りた。屋根を踏み抜いて、中へ消えた。
悲鳴が、上がった。
三体目は、通りの真ん中に降りた。隣の家の扉に、手をかけた。
悪魔は、三体。
井戸の脇に、片腕の見張りが一体。
家の中に、一体。中に、人が何人いるかは、分からない。
通りに、一体。扉を破ろうとしている。
窓を開けられるのは、テルモ一人。
一度に、一つ。
「火を」
フィールが言った。
ラズロが櫓の火の台に松明を投げ込んだ。
一つ。二つ。三つ。
三つの火が、夜空に上がった。
西の闇の中で、最初の塔が、同じ数の火を返した。
「通りの一体が、先」
フィールの声は、落ち着いていた。
「家の中の一体は、人を抱えて出てくる。出てくるまでは、手が出せない。見張りは、動かない。扉を破っている一体が、いちばん無防備です」
テルモは頷いた。壁の縁に、足をかけた。
「数える従士」
「はい」
「遅れるな」
飛んだ。
壁の下の斜面が、テルモの足の先で、白く凍っていった。
氷の道だった。
テルモはその上を、滑り降りた。
風のように。
蓮は縄を掴んで壁を下りた。
フィール。ベル。ヴァイス。ロイ。リアム。
六人が、斜面を駆け下りた。
壁の上に、フレアが残った。
左手を、上げていた。
指は、まだ動かしていなかった。
目だけが、蓮の背中を追っていた。
テルモはもう通りにいた。
扉に手をかけた悪魔の、真後ろに。
悪魔が、振り向いた。
赤い目が、見開かれた。
いないはずの、貴族だった。
テルモの右手が、悪魔の手首を掴んだ。
「凍れ」
ビキイイイイイッ!!
氷が、走った。
悪魔の手首から、肘へ。
テルモの右腕の、肩口まで。
一本の、氷の柱。
枷だった。
蓮は通りの端で、足を止めた。
拳を、頭の上に突き上げた。
握った。
六角の光が、夜空に浮かんだ。
一つ。
壁の上で、フレアの指が、動き始めた。
悪魔が、吠えた。
枷を、振りほどこうとした。
ほどけなかった。
左の掌が、テルモの胸へ向かった。
窓は、まだ、腕にしか開いていない。
テルモの加護は、消えている。
あの掌は、通る。
「フィール!!」
「分かってる!!」
フィールの左手が、腰の石を握っていた。
テルモの胸の前に、青白い盾。
五本ずつの格子の、本物の盾。
掌が、盾を叩いた。
ひびが、走った。
一撃で。
それでも、割れなかった。
蓮は手を緩めた。握った。
二つ。
窓が、肩から、胸へ回っていく。
壁の上で、フレアの指が、結んだ。
火が、飛んだ。
百五十歩の闇を、赤い筋が横切った。
悪魔の掌が、もう一度、盾を叩いた。
割れた。
光の欠片が、散った。
フィールが二枚目を握った。
蓮は三度目を握った。
三つ。
火が、悪魔の胸に、当たった。
その瞬間。
テルモの目は、赤い火を見ていなかった。
蓮の光を、見ていた。
「――燃えろ」
火は、膨れなかった。
溜め池では、岩を包むに任せた。
今は、違った。
膨れようとする火を、テルモの目が、内へ押し込んでいた。
赤が、白になった。
悪魔の胸の真ん中で。
窓の内側で。
殻のない、裸の胸の上で。
フレアの小さな火が、拳ほどの大きさのまま、白く、白く、灼けていった。
外へは、熱が来なかった。
腕一本の距離で枷に縛られたテルモの髪も、その隣で盾を握るフィールの外套も、焦げなかった。
何を温め、何を温めないかは、使い手が選ぶ。
白い火は、悪魔の胸の内へ、沈んでいった。
「ギャアアアアアアアアッ!!」
悪魔の胸が、内側から裂けた。
皮が、焼け落ちた。
肉が。
骨が。
その奥に。
赤黒く光るものが、覗いた。
核。
「ベル!!」
「言われなくても!!」
ベルがテルモの脇を駆け抜けていた。
右の拳を、突き出していた。
砂の火の石。
握った。
ドンッ!!!
火の玉が、剥き出しの核を、真正面から叩いた。
ぴしり、と。
ひびが、入った。
蓮はもう、踏み込んでいた。
剣を、突いた。
ひびの、真ん中へ。
砕けた。
悪魔の赤い目が、蓮を見た。
ヨルの村の悪魔と、同じ目だった。
人間に、という目だった。
指の先から、崩れていった。
黒い砂になって。
テルモの右腕を包んでいた氷が、一息に砕けて、落ちた。
枷を、解いた。
テルモは自由になった右手を見下ろしていた。
「大きく燃やしていない。息を、吹いただけ……」
かすれた声だった。
壁の上で、フレアが左手を上げたまま立ち尽くしていた。
自分の火が、何をしたのかを、見ていた。
「まだ二体!!」
フィールの声が、飛んだ。
井戸の脇の、片腕の悪魔が、動いていた。
見張りを、やめていた。
砂の山になった仲間を、見ていた。
それから。
テルモでは、なかった。
赤い目は、蓮を見ていた。
核を砕いた、人間を。
剣を突き出したまま、まだ体勢の戻っていない、人間を。
来た。
地を蹴って。
残った一本の腕を、振り上げて。
速かった。
テルモの左手が、悪魔へ向いた。
足元の砂が、凍った。
悪魔の足が、縫い止められた。
一呼吸。
氷が、割れた。
揺すって、割られた。
テルモは走っていた。
だが、悪魔の方が、蓮に近かった。
ヴァイスが前に出た。
ロイがその隣に。
通らない剣を、構えて。
爪の一振りで、二人とも、砂の上に転がされた。
リアムが石を握った。
六角の光。
紙のように、裂かれた。
それでも、紙一枚ぶん、遅れた。
その一枚ぶんの間に。
小さな背中が、蓮の前に立っていた。
ベルだった。
両手を、広げていた。
「あたしの盾は、十回叩いても割れないのよ!!」
右手の指が、動いていた。
三つ。
青白い光が、ベルの前に広がった。
悪魔の爪が、叩いた。
一度。
ひび。
二度。
ひびが、広がった。
割れなかった。
ベルの足が、砂の上を、ずるずると滑った。
蓮の胸に、背中がぶつかった。
歯を、食いしばっていた。
今度は、あたしが前に立つ番だから。
丘の上で、墓標に言った言葉だった。
蓮はベルの肩越しに、拳を突き上げた。
握った。
何も、出なかった。
三枚。さっきの合図で、使い切っていた。
「リアム!! 光を!!」
「おうよ!!」
砂の上に転がったままのリアムが拳を空へ突き上げた。
六角の光。
一つ。
テルモの手が、横から伸びた。
悪魔の、残った一本の腕へ。
掴んだ。
二つ。
壁の上から、赤い筋が飛んだ。
フレアだった。
誰も、撃てとは言っていなかった。
一つ目の光を見て、編んでいた。
教えられた通りに。
三つ。
火が、悪魔の肩に当たった。
窓は、まだ、腕にしか開いていなかった。
肩は、殻の上だった。
火は、弾かれた。
弾かれた、その火の欠片が。
窓の開いた腕の上に、降った。
「燃えろ」
腕が、内側から白くなった。
一本だけ残っていた、腕が。
肘から先が、炭になって、落ちた。
「ギイイイイイイイッ!!」
悪魔は、後ろへ跳んだ。
両腕を、失っていた。
翼を、広げた。
夜空へ、逃げた。
東へ。
振り返りも、しなかった。
ベルの盾が、消えた。
ベルはその場にへたり込んだ。蓮を振り返った。肩で息をしていた。
「……見た? 割れなかったわよ」
「見た」
蓮は言った。声が、少しかすれた。
「二回だったけどな。十回じゃなくて」
「うるさいわね!!」
残るは、一体。家の中の。
蓮は手前の家を見た。踏み抜かれた屋根。扉は、閉まったままだった。
中から、音がしなかった。悲鳴が止んでいた。
「……裏」
櫓の上から、ミラの声が降ってきた。かすれていた。
「裏から、出た。東。……人を、抱えてる」
蓮は家の脇を駆け抜けた。裏はもう砂だった。
月の下を黒い影が遠ざかっていた。
飛んでいた。
だが、低かった。
砂丘の稜線をかすめるほどに。
両脇に何かを抱えていた。
二つ。
小さい方が暴れていた。
子どもだった。
翼が重そうに空気を叩いていた。
「……上がらねえのか」
リアムが息を切らして言った。
「二人、抱えてるからだ」
蓮は言った。
「仲間が一体やられて、一体は腕がない。手ぶらで帰れないから、一体で二人ぶん抱えた」
テルモが家の角を回ってきた。東の闇を見た。遠ざかる影を。
「……遅い」
低い声だった。
「あれらは、本気で飛べば、馬など置いていく。だが、あれは、馬の駆け足ほどしか出していない」
「重いからです」
フィールが言った。
「二人ぶん抱えて、速く飛べない。それでも、どちらも放さない。あれらは、生かしたまま運ぶ。なぜかは、分かりませんが」
テルモは振り返った。
「馬を」
ラズロが砦の門から馬を四頭引いて、駆け下りてきていた。
テルモは鞍に上がった。
「当主!!」
壁の上から、声が降ってきた。フレアだった。縁から、身を乗り出していた。
「俺も!!」
「お前は、砦だ」
テルモは見上げもしなかった。
「村を見ろ。屋根を抜かれた家の者を、砦に入れろ。怪我人を数えろ。……名を、訊け」
フレアは口を開けた。閉じた。拳が、壁の縁を掴んでいた。
それから。
右の拳を、左の胸に当てた。
「……戻れよ」
小さな声だった。百五十歩を越えて、なぜか、聞こえた。
テルモは答えなかった。馬の腹を蹴った。
蓮は二頭目の手綱を取った。フィールが三頭目に。
四頭目の手綱に、ヴァイスが手を伸ばした。その手より先に、小さな手が鞍の端を掴んでいた。
ベルだった。息が上がっていた。盾を張った指が、まだ震えていた。
「あたしが乗る」
ヴァイスはベルを見下ろした。
「あんたの剣は、通らないでしょ。あたしの石は、通るのよ。核を割るのは、砂の火なんだから」
言い方は乱暴だったが、言っていることは正しかった。
ヴァイスは黙って手綱を渡した。脇腹を押さえていた。爪に転がされた所だった。
ロイも、砂の上に座り込んだまま、立てずにいた。
「……頼む」
ヴァイスはそれだけ言った。
ベルは鐙に足が届かなかった。蓮が手を貸した。鞍の上に、小さな体が収まった。
「子どもが、いるんでしょ」
ベルは前を向いたまま言った。
「早く行くわよ」
四頭の馬が、砂を蹴った。
東へ。
月の下の砂丘の向こうへ、黒い影が、低く遠ざかっていった。
蓮は馬の首に身を伏せた。隣を、ベルの馬が走っていた。
前を飛ぶ影の脇で、小さな足が、まだ暴れていた。
その先に、何があるのかを。
四人のうち、一人だけが、知っていた。




