種火
テルモは次の日の昼まで眠った。塔番の小屋の藁の寝床だった。
戸はなかった。二晩目に、燃やしたからだった。村の者たちは、足音を立てないように、その前を通った。
畑では穂が立っていた。百五十二枚。塔の光の下で、葉の縮れが少しずつ伸び始めていた。
丘の上では若い農夫が、白くなった麦を刈っていた。実は入っていなかった。それでも、藁にはなる。来年の冬の、畦の火になる。
フレアは朝のうちに土手へ上った。下りてきた時、襟に銀の留め具が戻っていた。
「水番が、磨いてあった」
ぼそりと、言った。
「泥だらけの手で渡したのに。……婆さまの婆さまの代から、鍵と一緒に磨く布があるんだそうだ」
蓮は頷いた。
フレアは留め具を指で弾こうとして、やめた。弾く代わりに、まっすぐに直した。
テルモが起きてきたのは、日が真上を過ぎた頃だった。
額の傷に、布が巻いてあった。片袖のない外套をそのまま着ていた。
小屋の前の石に腰を下ろして、ヨナスの女房が持ってきた粥を、黙って食べた。食べ終えて、蓮を呼んだ。
「東の話の続きだ」
挨拶は、なかった。
「砦の隊長の火は、通った。あれらの一体の腕を、私が枷で凍らせている間にだ。だが、浅かった。当たったのは、肩の端だ。隊長は、握るのが初めてだった」
「テルモ様は」
「私も、焼いた。枷の内側を。北門でも、砂漠でも、そうしたようにな。あれの腕は、肘から先が落ちた」
テルモは自分の右の手のひらを見下ろした。
「だが、そこまでだ。枷で焼けるのは、窓の開いた腕だけだ。胸の核まで窓が回るのを待てば、その前に、もう片方の掌が私の胸に来る。……それに、大きく燃やせるのは、日に二度か三度だ」
蓮は頷いた。
サナトリアの北門でもそうだった。テルモは自分の腕ごと悪魔を氷に閉じ込めて、その内側を焼いた。それでも、落とせたのは腕一本だった。
「あの晩は、三体いた。一体の腕を落とした時、私の炎は、あと一度しか残っていなかった。残りの二体が逃げずに来ていたら、どうなっていたか分からない」
鋭い目が畑の向こうの塔を見た。昨日、三つ灯すのに額から血を流した塔だった。
「従士の火は、何度でも撃てるが、弱い。貴族の炎は、強いが、数が足りない」
テルモは言った。
「一年、同じ所で止まっている」
「当主」
フレアだった。畦の方から歩いてきていた。ベルがその後ろにいた。
「一つ、訊いていいか」
「何だ」
「ひどく冷え込んだ晩に、裏の岩が、いつまでも冷めないことがあった」
テルモの目が、動いた。
「五発当てた岩は朝まで手を置けないくらい熱い。そう言ったのは、俺だ。一年焼いて、覚えた。……だが、変な晩があった。十発も当てていないのに、夜明けまで赤かった。館の石畳に霜が降りるような晩に限ってだ」
フレアはテルモの顔を見ていた。
「あれは、俺の火じゃなかったんじゃないか」
テルモは答えなかった。粥の椀を、石の上に置いた。置き方が、少し乱暴だった。
「……毎晩、私の部屋から見えたと言っただろう」
低い声だった。
「霜の降りる晩に、空になるまで撃って、岩の前で座り込んでいる馬鹿がいた。放っておけば、凍える。だから、岩を温めておいた。それだけだ」
フレアは口を開けた。閉じた。耳が赤くなった。
ベルが後ろでにやにやしていた。
「何がおかしい!!」
「別に。いいお養父様じゃない、と思って」
「当主だ!! 父ではない!!」
「どっちでもいいわよ」
蓮は二人を放っておいた。テルモの言葉の中に引っかかるものがあった。
「テルモ様。岩を温めるのは、大きい方の力ですか。小さい方ですか」
「小さい方だ。数えるほどのこともない」
「霜の晩に、朝までですよね。何もない所を、朝まで温め続けたら」
「それは、大きい方になる」
テルモはそこで口をつぐんだ。自分の言ったことを、聞き直している顔だった。
「……そうだ。冷えた岩を一から温めるなら、骨が折れる。だが、あの岩は、もう熱かった。熱いものを熱いままにするのは、楽だ。火の消えかけた竈に、息を吹くようなものだ」
「火の、種があれば」
蓮は言った。
「少ない力で、足りる」
テルモは蓮を見た。それから、フレアを。フレアの左手を。十八の火を撃つ手を。
「……試す」
立ち上がった。
溜め池は底まで乾いていた。ひび割れた泥が家十軒ぶんの広さに広がっていた。
真ん中に、ロイとヴァイスが岩を一つ転がしてきた。的だった。
土手の上に、村の者たちが並んでいた。当主様と継承候補様が、何かなさる。それだけで、百人が集まっていた。
蓮は帳面を開いた。升目を引いた。
誰の火か。当主が足したか。焦げ跡の大きさ。当主の疲れ。
「一つ目。フレアの火だけ」
フレアが左手を上げた。
二つ。
ドンッ。
岩の真ん中で、火が弾けた。
ミラが岩に駆け寄った。焦げ跡に、手のひらを当てた。
「手のひら、三つ」
「三つ」
蓮は書いた。
「二つ目。フレアの火に、テルモ様が足す」
テルモは岩から二十歩の所に立っていた。腕を組んでいた。
「火が岩に当たる、その時に、熱くすればいいのだな」
「はい」
「分かった。撃て」
二つ。
ドンッ。
火が弾けた。一つ目と、同じ大きさだった。
ミラが手を当てた。
「三つ」
テルモの眉が寄った。
「……速い。火が弾けてから、消えるまでが。目で追って、熱を送ろうとした時には、もう無い」
「もう一度」
フレアが撃った。同じだった。三度目も。
テルモの額に苛立ちの筋が浮いた。
「火の玉など、瞬きの間だ。あれに合わせろというのは」
「合わせなくていいです」
蓮は言った。
「数えます」
テルモが蓮を見た。
「フレアは二つで編みます。編み終わってから岩に届くまで、半分。二つと半分の所で、火は必ず岩にあります。俺が声に出して数えるので、テルモ様は、目で追わずに、数で熱を送ってください」
「……数で」
「窓の時と同じです。キネシス様が触れて、俺が三つ数えて、三つ目で斬る。目で見てからでは、遅いので」
テルモはしばらく黙っていた。
サナトリアの北門で、従士の剣など、と言い捨てた人だった。その人が、従士の数に、自分の力を預けろと言われていた。
「……数えろ」
テルモは腕を解いた。右手を、岩へ向けた。
「フレア」
「おう」
フレアの指が、動いた。
「一」
外の輪。内の輪。
「二」
結んだ。
火が飛んだ。
「今」
その瞬間。
岩の上で、火が膨れた。
弾けたのでは、なかった。
弾けた火が消えずに、育った。
赤が、白くなった。
ごう、と音がした。
熱い風が、二十歩離れた蓮の頬を叩いた。
土手の上で悲鳴が上がった。
火は三つ数える間、岩を包んで、それから消えた。
誰も、動かなかった。
ミラがおそるおそる岩に近づいた。手を当てようとして、引っ込めた。熱くて、触れなかった。
岩の表面が溶けたように、てらてらと光っていた。焦げ跡は、岩の半分を覆っていた。
「……戸板、一枚」
ミラは言った。
「それより、大きい」
蓮は書いた。手のひら三つが、戸板一枚。
フレアは自分の左手を見ていた。それから、岩を。それから、テルモを。
「今のは、俺の火か」
「お前の火だ」
テルモは言った。右手を下ろしていた。息は乱れていなかった。
「私は、息を吹いただけだ」
「疲れは」
蓮が訊いた。
「岩を温めるのと、変わらない。数えるほどのこともない」
テルモは自分の手のひらを見た。信じられないものを見る目だった。
「絶炎は、日に二度か三度だ。何もない所を、一から燃やすからだ。……種があれば、こうも違うのか」
「もう一回!!」
リアムが土手の下で叫んでいた。
「俺の石でも、できるのか!?」
テルモは答えずに、顎で岩を指した。
リアムは石を握った。
数える間はなかった。握った時には、もう火が出ていた。
「今――」
蓮の声は間に合わなかった。テルモの手も間に合わなかった。
火は岩の手前で、遅れて膨れた。リアムのすぐ目の前で。
「うおわあああっ!?」
リアムが尻餅をついた。前髪の先と、眉がちりちりになっていた。
土手の上でどっと笑いが起きた。ベルが腹を抱えていた。
「石は、速すぎる」
テルモは顔色も変えずに言った。
「握った時と、出る時が同じだ。数えようがない。握る前に、合図が要る」
「先に言ってくれ!!」
「訊かなかっただろう」
ヘルガの師と同じことを言った。
蓮は書いた。
石の火。握る前に、合図が要る。
リアムの眉。半分。
「次、あたし」
ベルが岩の前に立った。
「氷で、やってみていい?」
テルモの目が細くなった。
「氷の魔法か」
「当たった所が凍るの。それに、冷たいのを足したら、どうなるのかと思って」
テルモは頷いた。右手を岩へ向けた。
ベルの指が動いた。
「一」
「二」
「三」
白い礫が飛んだ。
「今」
岩の表面に、霜の花が咲いた。
咲いて、止まらなかった。
花が、広がった。
岩を、這った。
溶けたように光っていた焦げ跡の上を、白いものが覆っていった。
岩が、きしんだ。
ぴしり、と。
割れた。
真ん中から、二つに。
熱く焼かれたものが、一息に冷やされて、耐えられなかったのだった。
ベルが目を丸くしていた。
「……割れたわ」
「割れたな」
テルモは言った。声が、少し上ずっていた。
四百五十年、当主を務めてきた貴族が、新しい玩具を見つけた子どものような声だった。
「足を縫う時に、これが使える。砂を一から凍らせると、三呼吸で割られる。だが、氷の礫を種にすれば」
そこで言葉を切った。蓮が木の枠を出していたからだった。白い紙と、灰色の粉。
「何だ、それは」
「粉です。魔素に寄ります」
蓮は枠を割れた岩の脇に据えた。
「もう一度、お願いします。フレアの火で」
一。
二。
今。
火が、膨れた。
蓮は火を見ていなかった。
粉を、見ていた。
粉は、立った。
一粒残らず。
キネシスが跳んだ時と、同じように。
それだけでは、なかった。
立った粉の中に筋があった。
岩の方へ。
火の玉の飛んだ道に沿って、粉、一本の線に寄っていた。
線と場と。
両方が、同じ紙の上にあった。
蓮は息を止めていた。
ゼノは言った。
陣は、線だ。魔素は、線の上しか走らん。当主様のお力は、線を引かずに、場ごと満たす。同じものを、違う書き方で使っておられる。
その二つの書き方が、今、一つの火の中で、重なっていた。
「どうした」
テルモが訊いた。
「……分かりません」
蓮は正直に言った。
「分かりませんが、書いておきます。塔にいる人に、知らせると約束したので」
帳面に書いた。
――人の火に、貴族の熱。手のひら三つが、戸板一枚。
――貴族の疲れは、小さい方。
――粉は、立って、線にも寄った。両方。
テルモは蓮の手元を見ていた。『移動』の当主と、同じことをする従士を。
「数える従士」
「はい」
「東で、もう一度やる。今度は、岩ではなく」
その先は言わなかった。言わなくても分かった。
フレアが一歩前に出た。
「俺も行く」
テルモは振り向かなかった。
「当主。俺の火が、いちばん速い。数に合わせられるのは、編む火だ。石じゃない。今、そう言ったのは、当主だ」
「……」
「東へは出さない、と言うんだろう。継ぐ者だから、と。分かってる。だが」
「砦までだ」
テルモは言った。フレアの声が、止まった。
「砦より先へは出さない。村へも、砂漠へも。砦の壁の上から、撃て」
ようやく、振り向いた。鋭い目だった。鋭いまま、少しだけ熱かった。
「私の左に立て。数える従士が、右だ。……離れるな」
フレアは何も言わなかった。言えなかった。
右の拳を、左の胸に当てた。襟の留め具が、日を受けて光った。
土手の下で、リアムが焦げた眉を撫でながら呟いていた。
「俺の眉は、誰が返してくれるんだ……」
誰も、答えなかった。
ミラだけが、蓮の帳面を、指でとんとんと叩いた。書け、という意味だった。
蓮は書いた。
リアムの眉。来月には、生える。




