焼け石
朝のうちに畦を切った。畝の間に張った水を下の水路へ落とすためだった。
麦は水に浸かったままだと根が傷む。ヨナスがそう言った。
落とした水は下流へ流れていった。戻っては、来なかった。
溜め池の水面は土手の半分より下にあった。
「今夜、同じだけ使えば底が見える」
水番の女が言った。腰の鍵を握っていた。
「人も家畜も、来月まで飲む水がなくなります。井戸だけでは、十の村は賄えません」
フレアは土手の上から池を見ていた。目の下に隈ができていた。一晩、籠を担いだ顔だった。
「数える奴」
「蓮だ」
「……蓮。飲む分を残したら、今夜、何枚に回せる」
蓮は水番の女に訊いた。百人と家畜が半月飲む量。それを池から引いた。残りを、昨夜一枚の畑に使った量で割った。
「百八十枚」
「昨夜は、三百に入れた」
「昨夜、水の回りが悪かった五十九枚は外す。畝の半分しか届かなかった畑だ。残りの二百四十一枚のうち、百八十」
「六十一枚、足りない」
「足りない」
フレアは目を閉じた。
また、選ぶのだった。昨日は丘の上を捨てた。今日は、昨夜せっかく持たせた畑の中から、六十一枚を捨てる。
「……水路から遠い順に、外す」
やがて、言った。
「遠い畑は水が着く前に冷える。同じ水なら近い畑の方が持つ。そうだな、ヨナス」
「その通りです」
「外した畑の者には、俺が言う」
フレアは土手を下りていった。足を少し引きずっていた。
ベルがその背中を見ていた。珍しく何も言わなかった。土手の縁にしゃがんで池の水面を見下ろした。
「……足りないのよね。水」
「足りない」
蓮は言った。
「今夜で畑の分は終わりだ。テルモ様が明日の夜明けに着いて塔を灯せば、夜は持つ。でも、月の残りの水がない。穂が、太りきらない」
「割り当てって、お養父様が決めてるのよね」
蓮はベルを見た。ベルは水面を見たままだった。
「『水』の家が、国ごとに、村ごとに。あたし、館の書庫で帳面を見たことあるわ。陣の本の隣にあったの。つまんないから、すぐ閉じたけど」
「うん」
「……前借りって、できるのかしら」
小さな声だった。
「来月の分を先に。割り当てを破ったって、正直に言って」
「頼めるのはテルモ様か、フレアだと思う」
「あの子が書いたって、お養父様は読まないわよ。山ほど来るもの。どこの国からも、水が足りないって」
ベルは膝を抱えた。唇を噛んでいた。
「あたしの字なら、読むわ」
蓮は黙っていた。
ベルが『水』の国を出てから、一年近くが過ぎていた。荷台に隠れて。誰にも言わずに。それから一度も、手紙を書いていなかった。
「怒られる、って言ってたな」
「怒られるわよ。絶対」
ベルはふん、と鼻を鳴らした。鳴らし方が、いつもより弱かった。
「……でも、麦が死ぬよりは、いいでしょ」
立ち上がった。
「紙。レンの、あの上等なやつ」
蓮は荷から紙を一枚出した。ヤヌスの紙だった。
ベルは土手の上に腹ばいになって、書いた。書いては、止まった。何度も、止まった。
蓮は覗かなかった。
書き終えた紙を、ベルは蓮の胸に押しつけた。
「読んで。変じゃないか」
短かった。
――お養父様。
――炎氷の国の北の村で、気候の塔が三つ止まりました。麦を守るために、一月ぶんの水を二晩で使いました。開けさせたのは、継承候補のフレアです。あたしも、そばにいました。
――来月の水を、早めてください。割り当てを破った分は、あたしがそっちへ帰った時に、いくらでも怒られます。
――元気です。
――ベル
蓮は最後の二行をもう一度読んだ。
「変じゃない」
「本当?」
「一つも、変じゃない」
ベルは紙をひったくった。耳が赤かった。
「街道の関所に鳥舎があるって言ってたわよね。リアムに、馬で届けさせるわ」
歩きかけて、止まった。
「……フレアには、言わないで。あたしが書いたって」
「なんで」
「借りを作ったみたいで、嫌でしょ。あの子」
それから、自分で気づいたように付け足した。
「あたしも、そういうの、嫌だから」
二晩目は、一晩目より冷えた。
日が落ちる前に、フレアとベルはまた岩を焼いた。一晩休んで、器は戻っていた。
フレアが十八。ベルが二十。焼けた岩は、九つ。種田の取り口に沈めた。
水門が開いた。百八十枚の畑にぬるい水が走った。
靄が立った。昨夜より薄かった。
外された六十一枚の畑は月の下で黒いままだった。
その持ち主たちも、種田の畦にいた。自分の畑ではない畑の火を見ていた。
夜半を過ぎた頃、糞と籾殻が尽きた。十の村の冬の蓄えの全部だった。
「薪を出せ」
フレアが言った。
「塔番の小屋のも。柵でも、納屋の戸でもいい。燃えるものは、全部だ。当主が着いたら、館から倍にして返させる」
誰もためらわなかった。畦の火は朝まで続いた。
夜が明けた。
蓮は数えた。
水を入れた百八十枚のうち、穂の立っているのが、百五十二。
種田。六十のうち、五十七。
外した六十一枚と、丘の上の百十枚は、白かった。
四百十のうち、百五十二。半分を、割っていた。
溜め池は底の泥が見えていた。
フレアは畦に立って、北西の道を見ていた。三日目の、夜明けだった。
道には誰もいなかった。
日が昇った。暑くなった。
塔は光らなかった。北西の道に馬は現れなかった。
昼になった。
村の者たちが、畦に座り込んでいた。二晩、眠っていない顔だった。誰も、口をきかなかった。時々、誰かが道の方を見た。また、目を落とした。
「……当主様は」
若い農夫が言った。丘の上の畑を、失った男だった。
「おいでに、ならんのじゃないか」
誰も答えなかった。皆、同じことを考えていた。
「来る」
フレアが言った。道から目を離さなかった。
「当主は、言ったことを違えたことがない。四百五十年、一度もだ。三日目の夜明けと言ったら、夜明けに着く。着かないなら、着けない訳がある」
「訳、とは」
「知るか。……東で、何かあったんだ」
声が少し揺れた。
東で何かあった。それは悪い方にも取れた。
ムーヴ殿は、死んだ。貴族は、死ぬ。そう言ったのはテルモ自身だった。
フィールがフレアの隣に立った。
「東の砦から、ここまで、馬で一日でしたね」
「ああ」
「火の決まりは、砦に置かれたはずです。もし、昨夜、東で火が上がっていたら」
フレアがフィールを見た。
「テルモ様は、夜のうちに村へ向かわれた。二晩目に、間に合うように。……そこから北へ発てば、着くのは、半日遅れます」
蓮は数えた。夜明けの、半日後。日暮れだった。
日が傾き始めた。
蓮は溜め池を見上げた。底の泥乾き始めていた。水は、もうなかった。畝に張るものが、何もなかった。
日が落ちれば、冷えが降りる。
三晩目。
テルモが何もしなければ全部死ぬ、と言った晩だった。
今夜は靄は立たない。畦の火も、燃やすものが、もう柵の残りしかなかった。
「岩を、集めろ」
フレアが言った。
蓮は振り向いた。フレアはもう頭ほどの岩を両手で抱えていた。
「種田の周りに並べる。焼く」
「フレア」
蓮は言った。
「水がない。岩を沈める所がない。畦に置いた岩の熱は、畑一枚にも届かない」
「知ってる」
「昨夜までは、水に足してただけだ。岩だけじゃ」
「知ってると言った!!」
フレアは岩を畦に下ろした。どすん、と音がした。
「岩九つで、畑三枚だ。お前が数えた。水があってもそうだった。水がなけりゃ、一枚にもならないだろうな」
左手を、上げた。
「一枚にならなくても、岩の周りの三歩は、凍らない。水路の脇が、そうだったろ。三歩でいい。種田の真ん中の三歩ぶんでも、穂が残れば、それは種だ」
二つ。
ドンッ。
「俺は、一年、岩を焼いてきた。何の役にも立たないと思いながらだ。……今夜やめたら、本当に、何の役にも立たなかったことになる」
ドンッ。
ドンッ。
岩が、赤くなった。
ベルが隣に立った。
何も言わずに、編み始めた。
リアムが石を握った。
蓮も、握った。
ロイとヴァイスが畑の外から岩を転がしてきた。
ミラが藁の束を抱えてきた。焼けた岩に、かぶせた。
村の者たちが、立ち上がっていた。
誰かが、家へ走った。
鍋を、抱えて戻ってきた。
竈で沸かした、湯だった。
飲むために残した水を、沸かしたのだった。
種田の畝に、そっと流した。
じゅう、とも言わなかった。
鍋一つぶんの湯は、土に吸われて、すぐに見えなくなった。
それでも、もう一人が、鍋を抱えてきた。
もう一人。
焼けた岩が、畦に並んでいった。
一つ。二つ。
フレアは数えていなかった。
蓮が数えていた。
十五。
十六。
十七。
フレアの膝が、揺れた。
十八。
火の玉が、岩に届く前に、細くなった。
それでも、届いた。
フレアは左手を下ろさなかった。
空のはずだった。
指が、動いた。
一。
二。
結んだ。
ドンッ。
小さな火だった。
それでも、火だった。
蓮のペンが、止まった。
十九。
フレアは気づいていなかった。
もう一度編もうとして、今度こそ、何も来なかった。
膝をついた。
両手を、泥の上についた。
日が、沈んだ。
冷えが、降りてきた。
靄は、立たなかった。
畦に並んだ岩の周りだけ、空気が、かすかに揺れていた。
三歩ぶん。
フレアはいちばん近い岩に這っていった。藁をどけて、両手をかざした。
温かかった。
それだけだった。
それだけのものを、一年かけて、覚えたのだった。
その時。
ミラが顔を上げた。
「……蹄」
北西の道だった。
砂煙が、立っていた。
夕闇の中を、馬が一頭、駆けてきた。
後ろに、従士の馬が三頭、遅れていた。
先頭の馬は、口から泡を吹いていた。
乗っている者の外套は、片袖がなかった。
額に、乾いた血がこびりついていた。
テルモだった。
馬を、止めなかった。
畦に座り込んだ村の者たちの前を、駆け抜けた。
フレアの前も。
一番近い塔の下で、馬から飛び降りた。
よろけた。
壁に手をついて、立ち直った。
塔の階段を、上っていった。
誰も声を出さなかった。
塔のてっぺんに、痩せた影が立った。
光らない石の上に、手を置いた。
長い間。
石が灯った。
赤とも、青ともつかない、淡い光だった。
その瞬間、蓮の頬に、何かが触れた。
風では、なかった。
冷えが、引いていた。
塔を真ん中にして、見えない輪が、畑の上を広がっていった。輪の内側で、吐く息が、白くなくなった。
ヨナスが両手で顔を覆った。
テルモは塔を下りた。二つ目の塔へ、歩いた。馬には、乗らなかった。乗れなかったのだと、蓮は思った。
二つ目が、灯った。
三つ目の塔の階段で、テルモは一度、膝をついた。従士が駆け寄ろうとした。手を振って、退けた。
上った。
三つ目が、灯った。
額の乾いた血の上を、新しい血が、一筋、流れた。
三つの塔の光が、四百十枚の畑の上に、重なった。
白い畑の上にも。黒い畑の上にも。まだ青い、百五十二枚の上にも。
テルモは種田の畦に立っていた。
足元に、藁をかぶせた岩が並んでいた。畝に、鍋の跡がいくつも残っていた。柵のなくなった納屋と、戸のない家が、畑の向こうに見えた。
鋭い目が、それを端から順に見た。
それから、蓮を見た。
「数えたか」
「はい」
蓮は帳面を開いた。
「畑は、四百十。一晩目に水を入れたのが三百。二晩目は、飲み水を残して百八十。今朝、穂が立っていたのが百五十二。種田は、六十のうち五十七です」
「丘の上は」
「百十枚、全部。水が、上がりませんでした」
「水は」
「池は、空です。割り当ての一月ぶんを、二晩で使いました。水門を開けさせたのは」
「俺だ」
フレアが言った。岩の脇から、立ち上がろうとしていた。立てなかった。座ったまま、テルモを見上げた。
泥だらけだった。肩の皮が、むけていた。
「水番は、命じられて開けただけだ。丘の上を捨てると決めたのも、柵を燃やせと言ったのも、俺だ。……麦は、半分も残せなかった。責めは、全部」
「留め具は、どうした」
テルモは言った。フレアの襟を見ていた。
「……水番に、預けた」
「継承候補の印を、水門の鍵と引き換えにしたのか」
「した」
テルモは黙った。冷たい目だった。
畦の上の誰もが、息を止めていた。
「東で」
やがて、テルモは言った。
「一昨日の晩、火が上がった。砦に台を置いた、その晩だ。三つ。塔から塔へ継がれて、砦に届くまで、半刻もかからなかった」
蓮は顔を上げた。
「夜のうちに発った。村に着いたのは、二晩目が始まる頃だった。あれらは、その晩の最初の戸を開けた所だった。一晩目の三つと合わせて、四つ。……私が一体の腕を枷で凍らせて、内側を焼いた。その間に、砦の隊長が石を握った。火が、肩に通った」
フィールが息を呑んだ。
「討ちは、しなかった。逃げた。三体とも。だが、その村の戸は、三十のうち、二十六が閉まったままだ」
テルモの目が、蓮に向いた。
「三つに一つでは、なかった。お前の数は、外れた」
口の端が、ほんの少しだけ動いた。
「半分より、多く残った」
それから、フレアに目を戻した。
「そのせいで、ここへ着くのが、半日遅れた。私が東で二十六の戸を取っている間、お前は、北で百五十二の畑を取った」
フレアは口を開けた。
「私一人では、どちらかだった」
テルモは言った。声が変わっていた。低く、熱を持っていた。
「『水』の家には、私が頭を下げる。割り当てを破ったのは、『炎氷』の当主だ。継承候補に、責めは負わせん」
「当主」
「留め具は取り返してこい。あれは、鍵と引き換えにするものではない」
テルモは足元の岩を見た。しゃがんだ。藁をどけて、手のひらを当てた。
「温いな」
ぽつりと、言った。
「……焼け石に水だ」
フレアは俯いた。
「分かってる。岩じゃ、畑は」
「この三歩の穂は、凍っていない」
テルモは岩の周りの麦を指で起こした。青かった。
「一年、裏の岩を焼いていたな。毎晩、私の部屋から見えた。何の役に立つのかと、思っていた」
立ち上がった。よろけた。
今度は、フレアの肩に手をついた。
「役に立った」
それだけ、言った。
フレアの顔が、歪んだ。泥だらけの袖で、目を押さえた。声は出さなかった。肩だけが震えていた。
テルモは手を離さなかった。
ベルが少し離れた畦で、そっぽを向いていた。鼻をすすっていた。
蓮は帳面に書いた。
二晩目。百五十二。種田、五十七。
東。戸、三十のうち二十六。
その下に、もう一行。
フレア、十九。
本人は、まだ知らない。
塔の光の下で、岩は、まだ温かかった。




