水門
テルモは決めるのが速かった。
「私は、東へ行く。人が先だ」
地図の上に指で線を引いた。都から、東の砦へ。
「砦に石を置き、塔番に火の数を教える。一日で済ませる。そこから、北西へ抜ける道がある。北の街道の塔まで、馬で一日」
東から、北へ。指が、斜めに走った。
「三つの塔に着くのは、三日目の夜明けだ」
「今夜を入れて、三晩」
蓮は数えた。
「麦は、三晩で駄目になる、と仰いました」
「そうだ。何もしなければ、私が着いた時には、全部死んでいる」
テルモはフレアを見た。鋭い目だった。
「塔は見る、と言ったな」
「言った」
「石に力は込められない。お前に何ができる」
「分からない」
フレアは目を逸らさなかった。
「分からないが、行く。当主が東の人を取るなら、俺は北の麦を取る。両方は、当主一人じゃ無理だ」
テルモはしばらく黙っていた。
「北には、悪魔は出ない」
ぽつりと、言った。
許す、とは言わなかった。それが、許しだった。
フレアの拳が、体の横で握られた。
「『移動』の者たちは、フレアにつけ。石の稽古は、私が戻ってからでいい」
テルモはフィールを見た。
「名代。あれが無茶をしたら、止めろ」
「お預かりします」
フィールは拳を胸に当てた。
その夜のうちに、発った。馬を休まずに走らせた。
北の街道の塔に着いたのは、次の日の昼過ぎだった。
塔は三つ並んでいた。てっぺんの石は、どれも光っていなかった。
暑かった。国境を越えてから、初めて感じる暑さだった。塔が止まった畑には、砂漠の昼が、そのまま降りていた。
畑が塔の足元から見渡す限りに広がっていた。
麦に似た穂がうなだれていた。葉の先が白く縮れていた。昨夜、一晩、砂漠の夜を浴びた跡だった。
塔の下に人が集まっていた。村の者たちだった。百人はいた。誰もが空の塔を見上げていた。
フレアが馬を下りると、ざわめきが広がった。
「継承候補様だ」
「当主様は」
「当主様は、おいでにならないのか」
フレアは口を開いた。閉じた。
何を言えばいいのか、分からない顔だった。岩の前であれほど偉そうにしていたのに。
フィールが半歩前に出かけた。蓮はその袖をそっと引いた。
フィールは蓮を見た。頷いて、止まった。
フレアは息を吸った。
「当主は、東へ行った」
声が、少し裏返った。
「東の村が、襲われている。人が先だ。ここへ着くのは、明後日の夜明けになる」
ざわめきが、大きくなった。
明後日。あと、二晩。
「麦は」
年かさの農夫が言った。日に焼けた、節くれだった手の男だった。
「昨夜でもう葉が焼けました。あと二晩浴びたら、穂が死にます」
「分かっている!!」
フレアは怒鳴った。怒鳴ってから、唇を噛んだ。
農夫は黙った。怯えた顔ではなかった。諦めた顔だった。
継承候補に何を言っても石は光らない。皆、それを知っていた。
蓮は畑を見ていた。人の輪から離れて畦を歩いていた。
数えていた。葉の先が縮れた株。縮れていない株。
一枚目の畑。ほとんど、縮れていた。二枚目。同じ。
三枚目で、足が止まった。
畑の端に青い帯があった。幅は三歩ほど。そこだけ葉が縮れていなかった。
帯は畑の縁に沿ってまっすぐ続いていた。その隣を水路が流れていた。
蓮は水路に沿って歩いた。四枚目。五枚目。六枚目。どの畑も、水路の側の三歩だけが青かった。
しゃがんだ。水に手を入れた。ぬるかった。砂漠の昼の日を浴びた水だった。
「何をしている」
フレアが後ろに立っていた。苛立った声だった。
「水遊びをしに来たのか」
「数えてた」
蓮は青い帯を指した。
「水路の脇だけ、傷んでない。三歩ぶん。どの畑も」
フレアは帯を見た。眉を寄せた。
年かさの農夫がいつの間にか畦に来ていた。
「……今朝」
農夫はゆっくりと言った。
「夜明けに畑へ出たら、水路の上にだけ、靄が立っておりました。白く、筋になって。塔が光っておる間は、見たことのないものだ」
「水が、空気より温かかったからです」
蓮は言った。
「昼の間に水は日を浴びて温まる。夜になっても、すぐには冷えない。水の脇だけ、冷えが緩んだ」
農夫の目が動いた。
「爺さんが言うておった。塔のない頃の話だ。冷える晩には、畝に水を入れろ、と。水を入れた畑は、朝になっても凍らん、と」
「入れられますか。畝の間に」
「入れられる。水門を開ければ、どの畑にも回る。日照りの時にやることだ」
農夫はそこで口をつぐんだ。顔が曇った。
「だが、水は」
「水が、何だ」
フレアが言った。
「水は『水』の家から、月に一度、決まった量が届きます。上の溜め池に溜めて、日に少しずつ使う。畝に水を張るのは、溜め池の半分を一晩で使うということだ」
二晩で、全部。
蓮は数えた。一月ぶんの水を、二晩で。
「水番が、門を開けません」
農夫は言った。
「割り当てを破れば来月の水が来んかもしれん。そう教わっております。水番の家は代々それを守ってきた」
フレアは黙った。溜め池の方を見た。塔の向こうの丘の上に、土手が見えた。
「全部の畑に回るのか」
「水路より低い畑なら。丘の上の畑は、無理です。水は上へは流れません」
「丘の上は、何枚ある」
「百と、少し」
蓮は帳面を開いた。
「畑は全部で何枚ですか」
「この三つの塔の下で四百と十ほど」
「水の届くのが、三百。届かないのが、百十」
書いた。それから、もう一つ訊いた。
「来年の種にする麦は、どの畑のものですか」
「どの村にも種田がある。いちばん土のいい畑だ。村一つに、五枚か六枚。全部で、六十」
「種田は水路より低いですか」
「低い。水のいちばん回る所に作る」
蓮は頷いた。帳面を、フレアに見せた。
四百十。三百。百十。六十。
「全部は、守れない」
蓮は言った。
「丘の上の百十枚は水が届かない。そこは、諦めるしかない。三百枚は、水を入れれば持つかもしれない。持たないかもしれない。やったことがないから、分からない」
「……種田は」
「種田だけは、水の上に、火も足す。畦に長く燻るものを並べて。六十枚なら、百人で見られる」
フレアは数字を見ていた。長い間。拳が震えていた。
「丘の上を捨てろと言うのか」
「俺は、言えない」
蓮は言った。
「俺は、よその国の従士だ。水門も開けられないし、誰の畑を諦めるかも決められない。数えることしか、できない」
フレアは蓮を見た。それから、農夫を。畑の向こうで、こちらを見ている百人を。
決められる者は、ここに一人しかいなかった。
フレアは長く息を吐いた。
「お前、名は」
農夫が瞬きをした。
「……ヨナス、と申します」
「ヨナス。水番の所へ、案内しろ」
水番は溜め池の土手の小屋にいた。白髪の女だった。腰に大きな鉄の鍵を下げていた。
話を聞き終えても、首を縦に振らなかった。
「開けられません」
「開けろ」
「継承候補様のお言葉でも、開けられません。割り当ては当主様と『水』の家の約束です。私の婆さまの婆さまの代から、一度も破っておりません」
「知っている」
フレアは言った。怒鳴らなかった。怒鳴りたいのをこらえている声だった。
「割り当てを破れば、来月の水がどうなるか分からない。それも知っている。だから、俺が言う」
襟の留め具を、指で外した。炎と氷の紋の銀の留め具。水番の女の手に押しつけた。
「『炎氷』の継承候補フレアが、水門を開けさせた。そう言え。当主に訊かれても、『水』の家に訊かれても。お前は、命じられて開けただけだ」
水番の女は、手の中の留め具を見た。
「……責めを、お一人で」
「俺は石に力を込められない。火の台も置けない。東へも出してもらえない」
フレアの声が、少しかすれた。
「責めくらい、負わせろ。それしかできることがない」
水番の女は、長い間フレアの顔を見ていた。それから、腰の鍵に手をかけた。
「日が落ちる前に開けます。昼の水がいちばん温いうちに」
丘の上の畑の持ち主たちには、フレアが自分で言いに行った。蓮は少し離れて見ていた。
若い農夫が、フレアに食ってかかった。うちの畑は、親父の代に、石を一つずつ除けて作った畑だ、と。
フレアは言い返さなかった。
「恨むなら、俺を恨め」
それだけ、言った。
「種は、種田から分ける。足りなければ、館の蔵から出す。俺が、出させる」
若い農夫は、唇を震わせていた。殴りかかりそうな顔だった。
殴らなかった。背を向けて、丘を下りていった。下りた先で、水路の泥をさらう列に加わった。
フレアはその背中を、見えなくなるまで見ていた。
日が傾いた。
種田の畦に乾いた糞と籾殻の山が並んだ。十歩おきに。
藁は使わなかった。藁は、すぐ燃え尽きる。糞と籾殻は、朝まで燻る。ヨナスがそう言った。
どの家も冬のために蓄えていたものだった。誰も惜しいとは言わなかった。フレアが最初に自分の外套を脱いで、糞の籠を担いだからだった。
「岩を、集めろ」
フレアは言った。額に泥がついていた。
「頭くらいの大きさのを。種田の水の取り口に、三つずつ」
「岩を?」
リアムが訊いた。
「何に使うんだ」
「焼く」
フレアは最初の岩の前に立った。
左手を、上げた。
二つ。
ドンッ。
二つ。
ドンッ。
五発目で、岩の表面が赤くなった。
「一年、岩を焼いた」
フレアは手を下ろさずに言った。
「毎晩だ。だから、知っている。五発当てた岩は、朝まで、手を置けないくらい熱い。上に藁をかぶせれば、もっと持つ」
ドンッ。
「これを、取り口に沈める。流れ込む水が、少しは温くなる。……少しだけだ。岩三つで畑一枚が温まるとは、思っていない」
ベルが隣の岩の前に立っていた。何も言わずに、編み始めた。
三つ。
ドンッ。
リアムと蓮は石を握った。砂の石の半分の火でも、岩は焼けた。
蓮は数えた。
フレアが十八。ベルが二十。リアムと蓮の石で、九。
焼けた岩は、九つ。種田三枚ぶんだった。六十枚のうちの、三枚。
「足りないわね」
ベルが手を振って指をほぐしながら言った。
「足りない」
フレアは空になった左手を見下ろしていた。
「日暮れ前に、空だ。夜は、これからなのに」
笑った。自分を笑う顔だった。
「岩なら、十八で終わりだった。焼いたら、帰って寝た。……夜の方が長いなんて、知らなかった」
それから、糞の籠を担ぎ直した。
「水門が開くぞ!!」
土手の上で、誰かが叫んだ。
鉄の軋む音がした。
水が、来た。
水路をぬるい水が走った。畦の切れ目から畝の間へ流れ込んだ。一枚。また一枚。
三百枚の畑に夕日を映した水が筋になって広がっていった。
焼けた岩を沈めた取り口で、じゅう、と音がした。白い湯気が上がった。
夜が、来た。
風はなかった。冷えが、空から降りてきた。砂漠の夜だった。
蓮は種田の畦に立っていた。吐く息が白かった。
足元で、糞の山が赤く燻っていた。その向こうの畝の間で、水が黒く光っていた。
水の上に、白いものが湧き始めていた。
靄だった。
細い筋が、畝の一本一本から立ち上った。
筋が太くなった。
つながった。
畑一枚が白い布をかぶったようになった。
隣の畑も。その隣も。
三百枚の畑が、月の下で白く沈んでいった。
麦の穂は、もう見えなかった。靄の下に隠れていた。
「……爺さんの、言うた通りだ」
ヨナスが畦にしゃがんでいた。靄の中に、手を入れていた。
「温い。靄の下は、温い」
蓮も手を入れた。
温かくはなかった。ただ、外より冷たくなかった。
それで足りるのかどうか。朝にならなければ、分からなかった。
丘の上の畑は、黒いままだった。靄はそこまで上らなかった。
夜が更けた。
種田の火の番は交代でやった。糞を足す。籾殻を足す。火は、一度点けば消えなかった。足すものが、減っていくだけだった。
フレアは一度も交代しなかった。
籠を担いで納屋と畦の間を往復していた。泥に足を取られて、転んだ。起き上がった。また担いだ。
魔法はとうに空だった。ただの十五の体で、ただの籠を運んでいた。
「継承候補様」
ヨナスが呼び止めた。
「少し、休まれては」
「休まない」
「朝まで、まだ四刻ありますぞ」
「知っている」
フレアは籠を下ろさなかった。
「岩を焼くより、籠を運ぶ方が、ずっと長いな」
肩で、息をしていた。
「一年、何をやっていたんだろうな。俺は」
ヨナスはフレアの顔を見ていた。泥だらけの、十五の顔を。
「水門を、開けてくださった」
静かに、言った。
「丘の上の者に、恨めと言うてくださった。わしらには、どちらもできなんだ。四百枚の畑を前にして、百人が、塔を見上げておっただけだ」
ヨナスはフレアの肩から籠を半分、自分の方へ引き取った。
「火の番は、わしらが慣れております。糞を運ぶのも。……決めるのだけが、できなんだ」
フレアは何か言い返そうとした。言葉にならなかった。
軽くなった籠を、担ぎ直した。
二人は、並んで畦を歩いていった。
東の空が白んだ。
靄が朝の光の中で薄い金色になった。ゆっくりと、ほどけていった。
その下から、麦が現れた。
蓮は歩いた。端から。一枚ずつ。葉を見た。穂を見た。数えた。
水を入れた畑。三百枚。
穂の立っている畑が、二百四十一。
残りの五十九枚は、水の回りが悪かった。畝の半分しか水が届かず、届かなかった側の穂が、白く凍っていた。
丘の上の畑。百十枚。一面の、霜だった。穂は、全部うなだれていた。
種田。六十枚。
五十八枚で、穂が青かった。二枚は、火の番の者が夜明け前に眠り込んで、畦の火が絶えていた。
焼いた岩を沈めた三枚は、三枚とも、畝の水がまだ手にぬるかった。
蓮は帳面に書いた。
四百十のうち、二百四十一。種田、六十のうち五十八。
半分より、少し多い。全部では、なかった。
ヨナスが種田の穂を手のひらに載せていた。
「……生きとる」
それだけ言った。
丘の上に若い農夫が立っていた。自分の畑の前に。白くなった穂を見下ろしていた。
フレアは丘を上っていった。足がもつれていた。一晩、籠を担いだ足だった。
若い農夫の隣に、立った。何も言わなかった。言えることが、なかった。
若い農夫はフレアを見なかった。畑を見たままだった。
「……種は」
かすれた声だった。
「分けてもらえるんで」
「分ける」
フレアは言った。
「種田のは、村の種だ。足りなければ、館の蔵から出す。……来年、この畑の石は、俺も除ける」
若い農夫は初めてフレアを見た。泥だらけの外套を。皮のむけた肩を。
殴りかかりそうな顔は、もうしていなかった。許した顔でも、なかった。
ただ、頷いた。一度だけ。
蓮は土手を見上げた。溜め池の水面が、昨日の半分の高さになっていた。
もう一晩。今夜、残りの半分を使えば、池は底をつく。来月の水が来るまで、この三つの塔の下の村は、水なしで暮らすことになる。
テルモが着くのは、明日の夜明け。
帳面の今日の頁の下に、蓮は書き足した。
一晩目。水、池の半分。
その横に、小さく。
『水』の家に、借り。




