十一の村
炎氷の国は緑だった。
街道の両脇に畑が続いていた。麦に似た穂が涼しい風に揺れていた。
国境を越えるまでは、砂と岩しかなかった。柱一本を過ぎただけで、これだった。
「何をじろじろ見ている」
前を行くフレアが振り向きもせずに言った。
「畑が珍しいのか。『移動』には、ないのか」
「あるけど」
蓮は言った。
「こんなに青くない。昼は暑すぎて、夜は寒すぎるから」
「だろうな」
フレアの声に、少し得意そうな響きが混じった。
「あれだ」
馬の上から畑の向こうを指した。
石の塔が立っていた。見張り塔より細くて高い。てっぺんに何かが載っていた。淡く光っていた。赤とも、青ともつかない色だった。
「気候の塔だ。当主の力を込めた石が、上に据えてある。昼は冷まし、夜は温める。あれが、国じゅうに二百ある」
「二百」
「塔一つで、周りの畑と村を三つ四つ。石は、三月で空になる。当主が国を回って、一つずつ込め直す。初代の頃から、代々そうしてきた。今の当主は、それを四百五十年、一日も欠かしていない」
蓮は数えた。
二百の塔。三月で一巡り。一日に、二つか三つ。
テルモは大きく燃やせるのは日に二度か三度だと、前に言っていた。塔の石に込めるのが、大きい方なのか小さい方なのかは、分からなかった。
どちらにしても、休みのない仕事だった。
「水は『水』の家が流し、光は『明暗』の家が灯す。暑さ寒さは、うちが決める」
フレアは言った。
「貴族というのは、そういうものだ。偉そうに座っているだけだと、思っていたか」
「思ってない」
「……そうか」
フレアは少し拍子抜けしたように、前を向いた。
ベルが荷台の縁に顎を載せていた。
「ねえ。あれは?」
指差した先に、もう一つ塔があった。てっぺんの石が光っていなかった。その周りの畑だけ、穂が黄ばんで倒れていた。
フレアの背中が、強張った。
「……込め直しが、間に合っていない」
低い声だった。
「今月は、当主が、東へ四度出た。一度出れば、行きに一日、帰りに一日。四度で、八日だ。その八日、塔を一つも回れていない」
誰も何も言わなかった。
馬車は黄ばんだ畑の脇を通り過ぎた。
畑の縁に、農夫が一人しゃがんでいた。倒れた穂を一本ずつ起こしていた。起こしても、また倒れた。
都に着いたのは、二日目の夕方だった。
白と赤の石を交互に積んだ城壁。館は、その真ん中にあった。飾りはなかった。『移動』の館と同じだった。
執務室の壁に、大きな地図が貼ってあった。
国の東の端。村の印が、十一。そのうち三つに、黒い墨で斜めの線が引いてあった。
地図の前に男が立っていた。
背は高くない。痩せて、頬がこけていた。目だけが鋭かった。
テルモだった。一年前、サナトリアの北門で、自分の腕ごと悪魔を氷に閉じ込めた貴族。
蓮はその目の下の隈を見た。キネシスのものより、ずっと深かった。
「来たか」
テルモは言った。振り向きもしなかった。地図を見ていた。
フィールが拳を胸に当てた。
「『移動』の第二部隊長、フィール。当主キネシス様の名代として」
「聞いている」
テルモはようやく振り向いた。フィールの胸を見た。銀の徽章を。
一瞬だけ、鋭い目が和らいだ。
「イライザの印か」
「はい」
「あの女は、私の貴族付きとよく剣を合わせていた。エスクーダの前の晩もだ。……二人とも、朝飯の席で、何事もなかった顔をしていた」
それだけだった。テルモは蓮を見た。
「数える従士。久しいな」
「ご無沙汰しています」
「石は」
蓮は革の包みを机に置いた。開いた。黒い陣の埋まった石が、二つ。
テルモは一つをつまみ上げた。手のひらに載せて、転がした。
「二つか」
責める声では、なかった。ただ、数えた声だった。
「ヨルの悪魔の砂で刻めたのが、九つです。回復に二つ。こちらに二つ。力の国に二つ。残りは、俺たちが」
「分かっている。キネシスが、鳥で詫びてきた」
テルモは手のひらの石を見下ろした。握りはしなかった。
「貴族が握れば、自分の魔素を使う。知っている」
石を机に戻した。
「一つは、東の砦に置く。砦の隊長は、窓を知る七人の一人だ。もう一つは」
「俺に」
フレアだった。扉の脇に立っていた。腕を組んで。
「俺は、十八撃てる。この国の従士で俺より撃てる奴はいない。その石を握れば、編まずに十八だ。東の砦に、俺を」
「ならん」
テルモはフレアを見もせずに言った。冷たい声だった。
執務室の空気が、本当に冷えた気がした。
「お前には、持たせない。東へも、出さない」
「なぜだ!!」
「継ぐ者だからだ」
テルモは振り向いた。鋭い目がフレアを射た。
「私が死ねば、二百の塔に力を込められる者は、お前しかいない。お前が先に死ねば、私の後を継ぐ者がいない。この国の畑は、三月で枯れる。初代から続いてきたものが、私の代で終わる」
「当主は、死なない!!」
「死ぬ」
テルモは言った。
「ムーヴ殿は、死んだ。エスクーダで。私の目の前でだ。貴族は、死ぬ」
フレアは口を開けた。何も、出てこなかった。拳が震えていた。
「……村が、三つ消えた」
やがて、絞り出すように言った。
「俺は、十八撃てる。それなのに、岩しか焼いたことがない。一年だぞ。一年、岩だけだ」
「知っている」
「知っていて!!」
「知っていて、出さない」
テルモの声は、動かなかった。
フレアは踵を返した。扉を、叩きつけるように開けた。出ていった。
足音が、廊下を遠ざかっていった。
執務室に、沈黙が残った。
ベルが扉の方を見ていた。何か言いたそうな顔だった。言わなかった。
テルモは地図に向き直った。肩が、少しだけ落ちていた。
「見苦しい所を見せた」
「いえ」
フィールが言った。
「去年の秋からだ」
テルモは地図を見たまま言った。
「あれは、毎晩、館の裏の岩を焼いている。空になるまで。最初の村が消えた夜からだ。……止めたことは、ない」
声がさっきとは違っていた。低く熱を持っていた。
「あれの剣は、私の貴族付きが教えた。あの男が死んだ日、あれは館にいた。私が、置いていった。帰った私の外套を掴んで、なぜ連れていかなかった、と泣いた」
テルモの指が地図の東の端をなぞった。黒い線の引かれた、三つの印を。
「同じことを、二度言わせている。分かっている。……だが、出せない」
蓮はテルモの背中を見ていた。
冷たい貴族だと思っていた。サナトリアで、従士の剣など、と言い捨てた人だった。
その同じ人が、自分の腕ごと悪魔を氷に閉じ込めた。額から血を流して、膝をつくまで燃やした。
熱いのと、冷たいのと。どちらも、この人だった。
「跳べる当主が、羨ましい」
テルモは言った。誰に言うでもなく。
「四百五十年で初めてそう思った。東の外れまで、馬で一日だ。あれらは、一つの村に、二晩、三晩と続けて来る。私が着いた時には、もう二晩が過ぎている。戸の半分より多くが、開いている。……四度行って、四度とも、そうだった」
鋭い目が、蓮に向いた。
「数える従士。お前たちの当主は、火の数で悪魔の数を知ると言ったな」
「はい。一体なら一つ。三体なら三つ。隣の村が、同じ数を焚いて、館まで継ぎます」
「知らせなら、今も来る」
「どのくらいで届きますか」
テルモは地図の東の端を指で叩いた。
「村に鳥舎はない。村の者が、砦まで走る。夜道を、一刻。砦から鳥が飛ぶ。館に着くのは、夜明けの少し前だ」
蓮は数えた。
悪魔が来るのは、夜の初め。館に知らせが届くのは夜明け前。その間、五刻か、六刻。
「火なら塔から塔へ、見えた時に次が焚きます。村からこの館まで、塔はいくつありますか」
「気候の塔なら、二十と少しだ」
「一つ継ぐのに、百数える間として。二十で、二千。半刻もかかりません」
テルモの目が動いた。
「鳥より、五刻は早く届きます」
「五刻」
テルモは繰り返した。それから、首を横に振った。
「五刻早く知っても、馬で一日だ。跳べるわけではない」
「はい。跳べません」
蓮は地図を見た。黒い線の引かれた、三つの印を。
「一つ、教えてください。あれらは、一晩に、何軒の戸を開けますか」
「三軒か、四軒だ。下級のものは、一体で二人までしか抱えられない。だから、何晩も来る。村が空になるまでに、三晩はかかる」
「テルモ様が発たれるのは、知らせが届いた夜明けですね」
「そうだ」
「着くのは次の夜明け。二晩目が、終わった後です」
テルモの眉が寄った。
「火なら知らせは一晩目のうちに届きます。夜のうちに発てば、着くのは二晩目が始まる頃です」
蓮は指を三本立てた。
「今は三晩のうち、二晩ぶんを取られています。残せているのは、最後の一晩ぶんだけです」
一本、折った。
「五刻早く発てば取られるのは、一晩ぶんで済むかもしれません。二晩目に、間に合うので」
残った二本を、見せた。
「三つのうち、一つ。今より多く、残せます」
執務室が、静かになった。
テルモは蓮の指を見ていた。それから、地図を。
「……三つに、一つか」
低い声だった。
「全部では、ないのだな」
「全部では、ありません」
蓮は正直に言った。
「一晩目は、どうやっても間に合いません。跳べない限り」
「三つに、一つ」
テルモはもう一度繰り返した。拳が机の上で握られた。怒っているのではなかった。
「四度行って、四度とも、最後の一晩ぶんしか残せなかった。もう一晩ぶん残せていたら、何軒だ」
「三軒か四軒が、四度。十二軒から、十六軒」
「……人の数では」
「一軒に四人として。五十人から、六十人」
テルモは目を閉じた。長い間。
開いた時、鋭い目に、熱が戻っていた。
「火の台を、置く」
テルモは言った。
「二十の塔、全部にだ。塔番の者に、火の数を教えろ。……三つに一つでも、五十人だ」
少しの間、地図を見ていた。
「……明日、東へ発つ」
やがて、言った。
「お前たちも来い。砦に石を置く。村に、火の台を置く。向こうの従士に、石の握り方を教えろ」
「はい」
「フレアは、置いていく」
その時だった。
廊下を走ってくる足音がした。扉が叩かれた。
若い従士が息を切らして飛び込んできた。
「当主様!! 北の塔から鳥が!!」
細い紙を差し出した。
テルモは受け取った。読んだ。頬のこけた顔から、表情が消えた。
「……三つ」
「何が」
フィールが訊いた。
「北の街道沿いの塔だ。三つ、続けて石が空になった。込め直しの順番を東へ出るたびに後へ回していた分だ」
紙が、握り潰された。
「今夜から、あの辺りの畑に砂漠の夜が降りる。麦は、三晩で駄目になる」
テルモは地図を見た。
東の端。十一の村。
それから、北の街道。塔の印が、三つ。
一人の当主が、同じ日に、両方へは行けなかった。
東へ、一日。
北へ、一日。
蓮は数えた。
どちらを先にしても、もう片方が、二日遅れる。
二日の間に、麦が枯れるか。
村が、また一つ消えるか。
テルモの拳が机の上で、白くなっていた。
廊下の暗がりに、人影があった。
フレアだった。出ていったはずなのに、戻ってきていた。扉の陰で、全部聞いていた顔だった。
「……塔は、俺が見る」
フレアは言った。テルモが顔を上げた。
「お前に、石は込められない」
「込められない。分かってる」
フレアは執務室に入ってきた。今度は、扉を叩きつけなかった。
「だが、当主が着くまでの二晩、畑を冷やさない方法なら、あるかもしれない。……そこの連中は、数えるのと、段取りが得意なんだろう」
蓮を見た。
値踏みの目では、なかった。頼む目でも、なかった。まだ、どちらにもなりきれない目だった。
「使えるのかどうか、見せてもらうと言った。見せてみろ」




