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木の枝

 都を発って四日。街道の両脇に柵が増え始めた。柵の中で牛に似た大きな獣が草を食んでいた。


「……くさい」


 ベルが鼻をつまんだ。


「何よ、ここ」


「エスクーダだ」


 蓮は言った。


「この国で一番、肉のうまい町」


 北門が見えた。


 一年と少し前。蓮はあの門を討伐隊の列の中でくぐった。

 先頭に、ムーヴがいた。その斜め後ろに、背筋の伸びた女の従士が二人。イライザと、クレベス。

 帰りにあの門をくぐった時、三人ともいなかった。


 フィールは御者台の横で、門を見上げていた。胸の徽章に、指が触れていた。


「一晩だけ泊まるわ」


 フィールは言った。


「キネシス様は急げと仰った。でも、ここを素通りはできない」


 誰も、反対しなかった。






 従士の訓練所は町の東にあった。蓮は一人で歩いていった。

 庭で若い従士たちが木剣を振っていた。その脇を抜けて、奥の建物に入った。


 練習室。人気のない、板張りの部屋だった。

 変わっていなかった。床の傷まで、同じ場所にあるような気がした。


 ここで、蓮は本物の剣を握らされた。向かいに立った人は、外で拾ってきた木の枝を一本持っていた。


 ――大丈夫よ。絶対に当たらないから。


 その通りだった。掠りもしなかった。


 蓮は懐から細い枝を出した。門の脇の木から折ってきたものだった。

 構えてみた。軽かった。軽すぎて、どこに力を入れていいのか分からなかった。

 あの人はこれ一本で蓮の喉元に触れた。どうやったのか、今でも分からなかった。


「何をしているの」


 扉の所に、フィールが立っていた。


「……枝を、持ってみた」


「見れば分かるわ」


 フィールは部屋に入ってきた。壁に掛かった稽古用の剣を、一振り取った。刃は潰してあるが、鉄だった。


「貸して」


 蓮の手から、枝を取った。代わりに、剣を押しつけた。


「え」


「あなたが、剣。私が、枝」


 フィールは枝を軽く振った。ひゅ、と細い音がした。


「イライザさんが、あなたにしたことを、私もされたの。入隊した年に。都の訓練所で」


「……フィールも」


「掠りもしなかったわ。泣いたもの」


 フィールは少しだけ笑った。それから、笑みを消した。


「本気で、おいで」


 あの人と、同じ言葉だった。


 蓮は剣を構えた。


 踏み込んだ。


 斬った。


 枝の先が、刃の腹を、ちょんと叩いた。


 軌道が、逸れた。


 返す刀。下段から。


 フィールの体が、半歩引いた。


 空を切った。


 右。左。


 毎朝、五百。


 フィールに、何百本も取られてきた。


 その全部を、一つずつ返すつもりで、打った。


 突いた。


 ぱきり、と。


 小さな音がした。


 蓮の剣が、止まった。


 フィールの喉元の、手のひら一つ分、手前で。


 床に枝の先が落ちていた。フィールの手の中に残った枝は、半分の長さになっていた。


 二人とも、しばらく動かなかった。


「……切れた」


 蓮は言った。


「切れたわね」


 フィールは手の中の枝を見下ろした。それから、床の上の半分を。


「一年前のあなたは、イライザさんの枝に、掠りもしなかった」


「うん」


「今は、私の枝を、切った」


 フィールは残った枝を指でくるりと回した。


「でも、イライザさんの枝は、切れなかったでしょうね。今でも」


「うん」


 蓮は頷いた。本当に、そう思った。


「私も、そうよ」


 フィールは言った。


「あの方の枝に届く前に、あの方がいなくなった。届いたかどうかを、確かめる相手が、もういない」


 胸の徽章が、窓からの光を受けていた。


「だから、これを着けている間は、せめて、あの方がしたことを、一つずつなぞるの。塔の兵の名を訊く。新入りに、枝を持って向かう」


 フィールは蓮に半分の枝を差し出した。


「持っていて」


「俺が?」


「次に切れなくなった時が、あなたが私を追い越した時よ。……切れる枝を持つのは、私の方になるから」


 蓮は枝を受け取った。

 軽かった。軽いのに、落とせないものが、また一つ増えた。






 夕方。七人は南門を出た。


 門の先に道はなかった。あったはずの街道が途中で切れていた。

 地面が抉れていた。すり鉢のように。家が十は入る広さだった。

 一年経って、縁には草が生え始めていた。底はまだ土の色のままだった。


 ベルが足を止めた。ここを見るのは初めてだった。


「……何が、あったの」


 ベルが小さな声で訊いた。


「悪魔が、最期に弾けた」


 ロイが答えた。低い声だった。


「勝ったと思った、その時にな。先代の当主様と、貴族付きのお二人が、あの真ん中にいた」


 すり鉢の縁に石が三つ並べてあった。町の者が置いたのだろう。名は刻まれていなかった。刻まなくても、この町の者は、誰の石かを知っていた。

 石の前に、干した花と、小さな肉の塊が供えてあった。エスクーダの供え物だった。


 フィールは三つの石の前に立った。真ん中の石ではなく、右の石の前に。

 背筋を伸ばした。徽章に拳を当てた。


「お借りしています」


 それだけ、言った。少しして、もう一言。


「お返しする日まで、傷はつけません」


 ヴァイスはすり鉢の底を見ていた。

 あの日、ここにいた者は誰もあの刹那に動けなかった。動いたのはイライザとクレベスだけだった。


 俺が、盾になっていれば。


 蓮はあの日、そう思った。一年、何度も思った。


 懐の石を握った。すり鉢の縁の、何もない所へ向けて。

 六角の光が浮かんだ。手のひら二つ分の、青白い膜。一枚で、一撃。割れるが、止まる。

 あの弾けた火の前では、紙にもならない。


 蓮は手を緩めた。膜が消えた。


「足りない」


 声に出ていた。


「まだ、全然」


「当たり前よ」


 隣でベルが言った。蓮を見上げていた。


「レン一人で、これを止めようとしてるの? 馬鹿じゃないの」


「……」


「あたしの盾は十回叩いても割れないわ。フィールのもある。リアムのも、紙みたいなのが五枚ある」


「紙って言うな」


 リアムが言った。


「一人で足りないのは、当たり前でしょ。七人いるんだから、七人で足りるようにすればいいのよ」


 ベルはふん、と鼻を鳴らした。それから、少し声を落とした。


「……イライザって人、どんな人だったの」


 蓮は三つの石を見た。右の石を。


 木の枝一本で、蓮を転がした人。まず手を見ること、と教えてくれた人。勝ったと誰もが思った刹那に、迷わず身を投げ出した人。

 どれも本当だった。

 だが、最初に浮かんだのは、別のことだった。


「朝飯を、きれいに食べる人だった」


 ベルは瞬きをした。


「……何よ、それ」


「討伐の朝に向かいで食べた。パンの屑を、一つもこぼさなかった」


 フィールが小さく吹き出した。


「そうだったわ。あの方、食べ方だけは誰にも真似できなかった」


 ロイが笑った。ヴァイスの口の端も動いた。


 すり鉢の底に夕日が差していた。縁の草が、風に揺れていた。


 蓮は帳面の写しを開いた。

 エスクーダ。南門の外。

 その行の下に、書き足した。


 ――一年経った。縁に、草が生えている。

 ――フィールの枝を、切った。イライザさんの枝には、まだ届かない。






 翌朝、夜明けに発った。南へ。

 牧草地が終わり、木が増えた。国境の森だった。最初の悪魔が出た森。ヴァイスが隊を失った森。


 ヴァイスは荷台の後ろで、森の奥を見ていた。一度も、目を逸らさなかった。何も言わなかった。

 ロイが黙って隣に座っていた。


 森を抜けると、街道の脇に石の柱が立っていた。

 こちら側に翼を広げた鳥の紋。向こう側に、炎と、氷の結晶の紋。


 その柱に誰かがもたれていた。


 少年だった。十四か、十五。赤みがかった髪。腕を組んで、片足を柱にかけていた。

 外套の襟に、炎と氷の紋の、銀の留め具。従士の外套ではなかった。


 少年は馬車の幌を見上げた。三百六十九羽と、都で足された四十三羽を。

 眉を片方だけ上げた。


「遅い」


 よく通る声だった。


「『移動』の連中は、もっと速いと聞いていた。朝から、三刻も待ったぞ」


 フィールが手綱を引かせた。馬車が止まった。


「……どなたですか」


「見て分からないのか」


 少年は柱から体を離した。襟の留め具を指で弾いた。


「『炎氷』の継承候補、フレアだ。当主テルモの名代として、迎えに来てやった」


 それから、七人の顔を端から順に見た。値踏みするような目だった。

 蓮の所で止まった。


「お前か。数えるとかいう奴は」


 口の端が上がった。


「当主キネシスが悪魔を砂にした時、隣にいた連中だと聞いた。本当に役に立ったのかどうか、この目で確かめる。……まずは、どれだけ使えるのか、見せてもらおうか」


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