千四百年前の頁
都の門をくぐったのは、国境を越えて五日目の夕方だった。
馬車の幌で、三百六十九羽が揺れていた。通りの軒先の鳥は、発った日より増えていた。
「兄ちゃん!!」
宿屋の角から、テオが飛び出してきた。馬車と並んで走りながら、幌を見上げた。指を折り始めた。途中で、分からなくなった顔をした。
「増えてる!!」
「回復の国の子が、五十七羽」
「負けた!!」
テオは悔しそうに叫んだ。
「こっちは、まだ四十三しか増えてない!! 当主様に、四百越えたって言ったのに!!」
「三百十二と、四十三で、三百五十五だな」
「越えてない!! 数え間違えた!!」
蓮は少し笑った。キネシスに「四百を越えたそうだ」と書かせたのは、この数え間違いだった。
「明日の朝までに、持ってこい。数える」
「徹夜だ!!」
テオは宿屋の裏へ駆け戻っていった。
館の前庭に兵が並んでいた。二十人と少し。外套がまだ新しかった。木剣を振る腕が揃っていなかった。
その前に一人の女が立っていた。三十の半ばほど。日に焼けた顔。短く切った髪。腰に水筒を二つ下げていた。
女は馬車に気づいた。兵たちに、手を一つ上げた。木剣が止まった。
女は歩いてきた。フィールの前で足を止めた。右の拳を左の胸に当てた。
「お帰りなさいませ、隊長」
低い、落ち着いた声だった。
フィールより十五は年上だった。それでも、迷いなく隊長と呼んだ。
「イグレイン」
フィールは馬車を下りた。同じ礼を返した。
「留守を、ありがとう」
「お預かりしているだけです」
イグレインは言った。
「新入りが、二十四。うち、石を握って火の出る者が、五人。その五人と私で、当主様の二つ目の班を組んでおります」
「東へは」
「この一月で二度跳びました。二度とも、篝火は一つ。当主様が触れる前に、逃げました」
短い報告だった。数だけが並んでいた。
蓮はその話し方に覚えがあった。水の残りと、道のりと、魔物の数。外周調査の報告書の、書き方だった。
「十年前の調査にも、出られたんですよね」
蓮は訊いた。イグレインは蓮を見た。頷いた。
「新入りでした。水の樽を数える係を」
「去年も」
「ええ。隊長の、隣で」
二度、端まで行った人だった。二度、海を見た人だった。
蓮はそれ以上訊かなかった。訊けば、答えは分かっていた。青くて、広い。
「後ろの兵たちは、第二部隊ですか」
「これから、そうなる者たちです」
イグレインは振り返った。揃わない木剣の列を。
「国境の夜に、隊は崩れました。動ける者は第三部隊へ預けられ、隊長と、その方と、ヴァイスは特務班へ」
目が蓮と、荷台のヴァイスを順に見た。
「私は、荷駄と一緒に後ろにおりました。……散り散りになった隊を見て、もう第二部隊は終わったと思いました」
それから、フィールを見た。
「終わっておりませんでした。隊長が、外で遠征を続けておられる。なら、私の仕事は、帰ってくる場所を空けておくことです」
フィールは何か言おうとした。言葉にならなかった。胸の徽章に指が触れた。
それから、もう一度礼をした。さっきより、深く。
執務室の机の上に紙が積んであった。
キネシスは立っていた。窓を背にして。目の下の隈が、発つ前より濃かった。
「回復の国のことは、鳥で読んだ」
挨拶もなく言った。
「先に、東の数だ。お前たちが発ってから、今日で一月と少し。この国の東で篝火が上がったのは二度。どちらも一体。攫われた者は、零」
「イグレインから、聞きました」
フィールが答えた。
「減っていますね。発つ前は、十日に一度は」
「減ったのではない」
キネシスは紙を一枚、机の上で滑らせた。鋭い、角張った字だった。
「テルモ殿からだ。炎氷の東の外れで、この一月に、四度」
もう一枚。
「ボルツ殿。雷撃の国だ。会ったこともない相手だが、鳥を寄越した。東の村で人が消えた、と。悪魔を見た者はいない。朝になったら、家が三軒、空だった」
フィールの顔が強張った。
「避けられている」
キネシスは言った。
「ヨルで一体討ってから、あれらはこの国に来なくなった。跳んでくる貴族のいる国を避けて、隣へ。その隣へ」
「炎氷は、テルモ様が」
「あの方は強い。だが、跳べない。館から東の外れまで、馬で一日かかる。着いた時にはもういない」
蓮は頭の中で地図を広げた。
回復。移動。炎氷。雷撃。北から、時計回りに。
悪魔は、その並びを南へ下っていた。特務班がこれから回る順番と、同じ向きに。
「炎氷へ、急げ」
キネシスは言った。
「石を届けろ。篝火の決まりを置いてこい。テルモ殿には、鳥で話を通してある。向こうの従士に、ベルが教えたやり方を、そのまま教えろ」
「はい」
「一晩休んだら、発て。……フィール」
「はい」
「イグレインに、会ったか」
「はい。前庭で」
「あれは、お前を隊長と呼び続けている。私が代行ではなく隊長にするかと訊いた時、断った。隊長は外におられます、と」
キネシスはフィールの胸の徽章を見た。
「帰ってくる場所は空けてある。忘れるな」
フィールは背筋を伸ばした。
「忘れません」
「以上だ。皆、下がっていい」
六人が、扉へ向かった。
「蓮は、残れ」
足が止まった。
フィールが振り返った。蓮を見た。キネシスを見た。
何も訊かなかった。
扉が閉まった。
キネシスはすぐには口を開かなかった。
懐から、紙を一枚出した。古い紙ではなかった。キネシスの字だった。
「隠し部屋の機密書は、持ち出せない。写してきた」
机の上に置いた。
「お前が外周の端で見たものを、私は帳面に書いた。海を確認、と書いた後に。お前は何も無しと言う、と」
「はい」
「機密書は、三頁目を読んだ夜に最後の頁まで読み通してある。四頁から先は歴代の当主が国の内外を巡って書いた覚え書きだ。水場の場所。塔の数。街道の日数」
キネシスは紙の端を指で押さえた。
「その中に、国の端のことを書いた記が、一つだけあった。読んではいた。だが、書いた本人が後から誤りだと打ち消している記だった。打ち消されたものを、私は読み飛ばした」
キネシスの指が、紙の上を叩いた。
「千四百年前だ。王の御姿が長く見えなかった頃、と書いてある。『門』の当主が悪魔に討たれた、あの頃の当主が書いた」
蓮は紙を見た。キネシスが写した、三行だった。
――外周の東の端に至る。砂の果てに、黒き柱、七つ。半ば輪をなす。
――その先、何も無し。水なく、色なく、遠さなし。目、定まらず。
――移動の当主、自ら確かむ。
蓮の喉が、鳴った。
黒い柱。七つ。半円。
色がない。遠さがない。目が、滑る。
同じだった。
蓮が見たものと。
千四百年前に、誰かが、同じものを見ていた。
「……この方には、見えたんですね」
「見えた」
キネシスは言った。
「なぜ見えたのかは分からない。王の御姿が見えなかった頃、と書いてある。巡回が何年も途絶えていたのかもしれない。あの方々の手を、長く取らずにいたのかもしれない」
もう一枚、紙が置かれた。
「同じ頁の、下だ。同じ字で。九年後の日付がある」
――先の記、誤りなり。
――砂の果ては、海なり。青く、広し。
――黒き柱のこと、見誤りと思わる。再び至るを要せず。
――移動の当主、自ら確かむ。
蓮は二枚を見比べた。
同じ人間が。
同じ手で。
九年の間を空けて、自分の書いたものを、誤りだと書いていた。
再び至るを要せず。
もう一度行く必要はない。
行こうという気が起きない。
「蓮」
キネシスは三枚目の紙を置いた。写しではなかった。キネシスが今、自分で書いた一行だった。
――記録も、間違うことがある。
「機密書の一頁目の余白に、私が書いた言葉だ。継いだ年に。イライザの剣が悪魔に通ったのに、頁には、貴族以外の攻撃は通じぬ、と書いてあった。だから、書いた」
低い声だった。
「書いた私が、この記については後の方を信じて疑わなかった。どちらが間違いかを自分の目で決めていた。端へ行けば海が見えるからだ」
窓の外は暗くなっていた。
「その目が、当てにならなかった」
蓮は三枚の紙を見ていた。
千四百年前の当主は、九年後に、どんな顔で「誤りなり」と書いたのか。自分の字を読み返したはずだった。
黒き柱、七つ。その先、何も無し。
それを読んで、なお、誤りだと思った。海が見えたからだ。
見えたのではなく、知っていただけなのに。
「歴代の当主は、皆、この頁を読んだ」
キネシスは続けた。
「皆、先の記が間違いだと思ったはずだ。誰も何も書き足していない」
それから、蓮を見た。
「お前は、柱を七本と数えた。半円だと言った。千四百年前の頁を、一度も読まずに」
「……はい」
「間違っていたのは、後の記だ」
キネシスは言い切った。
言い切った後で、自分の手のひらを見下ろした。
「私の目には、今も海だ。青くて、広い。それでも、私は自分の目よりこの三行と、お前の数を信じる。……家の決まりに従えば、そうなる」
声が少しかすれていた。
自分の目を信じられないと認めるのが、どういうことなのか。蓮には、想像することしかできなかった。
「紙には書けない、と言ったのは、これだ」
キネシスは三枚を重ねた。
「鳥で運べば、誰かが読むかもしれない。この国の端の先に、何も無い。それを読んだ者は、あの方に会った次の朝、何も覚えていないだろう。……覚えていないだけなら、まだいい」
落ちる。
蓮はその先を頭の中で続けた。
海だと思ったまま、波打ち際へ歩いていく者がいたら。
「誰にも言うな。前に言った通りだ。サナトス殿にも、フィールにも」
「はい」
「だが、お前一人に持たせておくつもりもない」
キネシスは重ねた紙を蓮の方へ押した。
「持っていけ。十三の国の端で、お前が見たものを、この三行と比べろ。柱は七本か。半円か。その先は、同じか。……千四百年前の当主に、一人で確かめさせるな」
蓮は紙を受け取った。
軽かった。千四百年分の重さが三枚に載っていた。
「キネシス様は」
「私は、四枚目を書く」
キネシスは自分の帳面を開いた。
「機密書の、あの頁の下にだ。先の記が正しい、と。後の記こそ誤りなり、と。お前の名は書かない。書けばお前が狙われる。『移動の当主、他の目を借りて確かむ』と書く」
ペンを取った。
「千四百年、誤りだとされてきた記を、私の代で元に戻す。……先代に、叱られるかもしれないな」
口の端がほんの少しだけ上がった。
蓮は頭を下げた。扉を開けた。
廊下に、フィールが立っていた。壁にもたれて、腕を組んでいた。
蓮の顔を見た。懐に入れた紙の膨らみを見た。
「出発は、夜明けよ」
それだけ、言った。
「うん」
二人は、並んで廊下を歩いた。
フィールは訊かなかった。訊かないまま、半歩だけ、蓮の近くを歩いていた。




