一行目
発つ朝も、通りには寝台が並んでいた。
二百十一が、二百四になっていた。十四日で七つ減った。一日に三人。その間に、新しい寝台がまた増えていた。
それでも、七つ減っていた。
館の前庭に四十人が並んだ。腕に白い布を巻いた兵たちだった。
前に立っているのは、フィールではなかった。
レミエルだった。胸に帳簿を抱えていた。手が少し震えていた。
フィールは列の端にいた。特務班の六人と一緒に。何も言わなかった。ただ、見ていた。
レミエルは息を吸った。
「……ハインツさん」
小さな声だった。列の後ろまでは届かなかった。
レミエルは唇を噛んだ。もう一度吸った。
「ハインツさん」
「は」
「一番から、三番。朝と、昼を」
「は」
「オットーさん。四番から六番」
一人ずつ。帳簿は開かなかった。
四十人の名を、レミエルは最初から全部知っていた。この国で生まれて、この館で育った。兵たちが新入りだった頃から、包帯を替えて回っていた。
知らなかったのは、名前ではなかった。自分がそれを呼んでいいのだということだった。
四十人目を呼び終えた時、声は列の後ろまで届いていた。
「見るのは、四つです。水。体の向き。布。息。……印のない升目が、一番怖いので」
フィールの言葉をそのまま繰り返した。それから、少しだけ自分の言葉を足した。
「印をつけてくださって、ありがとうございます。毎日」
兵たちが通りへ散っていった。
レミエルはその場にしゃがみ込みそうになって、踏みとどまった。フィールが隣に来た。
「上手だったわ」
「……声が、最初、出ませんでした」
「私も、最初はそうだった」
フィールは言った。
「二人目からは、出るの。一人目を呼んでしまえば」
レミエルは頷いた。目の縁が赤かった。泣いてはいなかった。
蓮は帳簿の部屋で表を卓の上に置いた。七十九の寝台と四つの刻限。十四日分の印がついていた。
「これは、置いていきます」
「はい」
レミエルは表を両手で受け取った。
「升目は、同じ形で、いくらでも引けます。寝台が増えたら、行を足してください。兵が足りなくなったら、一人の受け持ちを減らすより、見る回数を三度にする方が、抜けが少ないです」
「三度に」
「夜を抜かないでください。九十三人のうち、朝に見つかった人が、いちばん多かった」
レミエルは一つずつ頷いた。帳簿の余白に細かい字で書き留めていた。
「それと、これを」
フィールが革の包みを卓に置いた。開いた。
石が一つ。火の石より、ずっと大きかった。黒い陣が表面に埋まっていた。円が二つ。結ぶ線が八本。真ん中に、縦に五本、横に五本の格子。
「砂の、盾の石です」
フィールは言った。
「一つしか、ありません。十三の国を回る間に、いちばん要る所に置いていくと決めていました」
「……それを、ここに?」
「握ってみて」
レミエルはおそるおそる石を手に取った。
握った。
青白い光が、レミエルの前に広がった。人の背丈ほどの盾だった。六角ではなかった。木剣で十度叩いても割れない、本物の盾。
レミエルは目を見開いていた。
「出ました」
「出たわね」
フィールは少しほっとした顔をした。
「出ない人もいるの。半分は、そうなの」
レミエルは手を緩めた。盾が消えた。
「私に、なぜ」
「あなたは、サナトス様の半歩後ろに立つ人だから」
フィールの声は静かだった。
「サナトス様が悪魔に触れている間、あの方の加護は消える。一年前、北門で、あの方は素手で悪魔の手首を掴んだわ。両手を、焼かれた」
レミエルの顔から色が引いた。覚えていた。
「あなたは癒やせない。でも、半歩後ろにいれば、一度は、間に入れる」
フィールは石を握ったレミエルの手に、自分の手を重ねた。
「悪魔の指の前では、これも、ひと呼吸しか保たないわ。それでも、ひと呼吸あれば誰かが間に合う」
「……ひと呼吸」
「毎日握って。空になるまで。握るたびに、どこに出すかを決めて。あの方の胸の前。肩の横。背中」
レミエルは石を見下ろした。長い間。
それから、帳簿の上に置いていた手を離して、両手で石を胸に抱いた。
「握ります」
小さな声だった。
「毎日。空になるまで」
蓮はそれを帳面に書いた。
砂の盾の石、一。回復の国。レミエルさんに。
砂の火の石は、二つをこの国に置いた。残りは、七つだった。
館の門の前に馬車が止まっていた。幌の縁に糸が二本。三百六十九羽の鳥が朝の風に揺れていた。
見送りは多かった。白い布の兵たち。寝台から歩けるようになった者たち。
グスタフはいちばん前にいた。ヴァイスの前に来て、何も言わずに肩を一度叩いた。
ヴァイスも何も言わなかった。叩き返した。それで、済んだ。
エミルは馬の手綱を引いていた。ここから、北へ戻る。
「日誌は、書きました」
蓮に言った。
「見たままを。怖いと思ったことも。……写しを一つ、サナトス様にお預けしました」
「ありがとうございます」
「来年、読み返します」
エミルは少しだけ笑った。なぜ来年なのかを自分では分かっていない顔だった。
子どもが六人、ベルを取り囲んでいた。咳をしていた男の子がベルの外套の裾を握って離さなかった。
「また、くる?」
「来るわよ」
ベルは言った。
「千になったら、数えに来るんだから。それまでに羽が三枚の鳥は直しときなさいよ」
「なおさない。あれが、すき」
「……好きにしなさい」
ベルはぷいと横を向いた。それから、しゃがんで男の子の頭を乱暴に撫でた。男の子はにこにこしていた。
サナトスは門の脇に立っていた。その半歩後ろにレミエル。外套の内側の、胸のあたりが少し膨らんでいた。石を入れているのだった。
「蓮殿」
サナトスが言った。蓮は前に出た。
サナトスは手のひらを開いた。小さな石が一つ載っていた。淡く光っていた。
「今朝の、一度目です」
蓮は顔を上げた。
「受け取れません。通りに、二百四人」
「ええ。ですから、今日の三行は、二行になります。レミエルにはもう伝えてあります」
サナトスは微笑んだ。
「十三の国を回られるのでしょう。皆様のうちの誰かが、深い傷を負う日が来るかもしれません。その時、私はそこにおりません。……癒やす者として、それが、いちばん堪えるのです」
石が蓮の手に置かれた。温かかった。
「使わずにお戻りください。使わずに済めば、その一度は通りの誰かにお返しします」
蓮は石を握った。
一人分の、命だった。通りの二百四人のうちの、誰か一人の今日を預かったのだった。
「……使わずに、返しに来ます」
「お待ちしております」
サナトスは蓮の手を見た。石を握った、その手を。一年前、蓮の胸に長く置かれていた、あの手と同じ目で。
「蓮殿は、数える方だ」
「はい」
「私は、四百五十年、数えずにきました。……いつか、数えようと思います。全部を。その時は、手伝っていただけますか」
「千冊以上、あると聞きました」
「ええ」
「ミラと、レミエルさんと、四人なら」
蓮は言った。
「二月もあれば」
サナトスは声を出して笑った。
蓮はこの人が声を出して笑うのを初めて聞いた。
フィールが御者台の横に立った。胸の徽章が朝日に光っていた。
右の拳を左の胸に当てた。
皆がそれに続いた。
門の前の全員が同じ礼を返した。腕の白い布が、一斉に揺れた。
馬車が動き出した。
からからから、と風車が回った。
南へ。通りの寝台の間を、ゆっくりと抜けていった。
寝台の上から手がいくつも上がった。リアムが荷台から身を乗り出して、一つずつ振り返していた。
「水、飲めよ!! 俺がいなくても飲めよ!!」
笑い声が、通りに広がった。
南の門を出る時、蓮は街の外れの丘を見た。
草の上に、白いものが小さく六つ並んでいた。墓標の根元に挿した、六本の風車だった。紙の羽が、朝日を受けていた。
回っているのだと、ここからは見えなくても分かった。
街道に出てから、蓮は帳面を開いた。
十三の行。いちばん上。
一。回復。
その横に、書いていった。
砂の火の石、二。砂の盾の石、一。
篝火の決まり。関所と、北の外壁に。
国の端。見た。
塔の日誌。三十冊。線は三本、一点で交わる。
魔物を作る陣。七重。柱が七本。
九十三。当番の表。十四日で、震えた線は一。
トーレとネロ。丘へ。
鳥、五十七。
書き終えて、一行目の頭に、小さく印をつけた。済んだ、という印だった。
残りは、十二行。
鳥舎に寄った時、キネシスからの紙が届いていた。短かった。
――読んだ。
――ヘルガは三度目だ。今度は泣いていない。図を壁に貼って、三日、その前から動かない。
――炎氷へ行く前に、都を通るだろう。一晩だけ、館に寄れ。
――話がある。紙には書けない。
蓮は最後の一行を二度読んだ。
紙には、書けない。
確かめた事実だけを書く家の当主が、そう書いていた。
「どうしたの」
フィールが荷台の向かいから訊いた。
「キネシス様が、都に寄れって」
「何か、あったの?」
「分からない」
蓮は紙をたたんだ。帳面に挟んだ。
馬車は南へ進んでいた。頭の上で、三百六十九羽が、同じ向きに羽を揺らしていた。
その向きの先に、都があった。




