通りの宴
サナトスは蓮の話を最後まで黙って聞いた。館のあの狭い部屋だった。
卓の上に、ミラの写した陣の図が広げてあった。七つの輪と、貝の渦の紋。
サナトスは図に触れなかった。胸の前で両手を重ねていた。
「砂から、狼が」
「はい。陣が光って、砂が寄り集まって。胸に、核が入るのが見えました」
「一頭」
「俺たちが見ていた間は、一頭です」
サナトスは目を閉じた。長い間。
「四百五十年です」
静かな声だった。
「魔物に噛まれた者を、癒やしてきました。腕を。脚を。腹を。間に合わなかった者も、数えきれません。……九十三のうちにも、おりましたね」
「十一人です」
蓮は言った。サナトスの瞼が少し動いた。
「十一人。そうですか」
目が開いた。穏やかな目だった。穏やかなまま、奥の方に、蓮の見たことのない色があった。
「魔物は、砂漠で生まれる。そういうものだと、思っておりました。雨が空から降るように。……作っている者が、いたのですね」
フィールが背筋を伸ばした。
「キネシス様からは、触れるな、と。見るだけだ、と言われています」
「ええ。賢明です」
サナトスは頷いた。
「私は、傷を癒やす者です。傷の元を断ちたいと思うのは、癒やす者の性ですが。……元が何であるかも分からぬうちに手を出せば、もっと大きな傷を作る。それも、四百五十年で学びました」
重ねた手がほどかれた。図の縁に指がそっと置かれた。
「エミルには日誌を書かせます。あの方角に、篝火の台を。関所にも、もう一度、私から使いを出しましょう。台だけではなく、火を焚く者の心構えまで」
蓮は頭を下げた。
怖さは、置けなかった。帳面にそう書いた。
サナトスの言葉なら置けるのかもしれなかった。来年の巡回までは。
帳簿の部屋でレミエルが待っていた。今日の頁を開いていた。
「蓮さんたちが北へ発たれてから、十二日です」
右の頁を蓮の方へ向けた。
名前の列。まっすぐな線が増えていた。一日に三本ずつ。
その中に。
一つだけ、震えた線があった。
蓮はそれを見た。レミエルも見ていた。目の縁は赤かった。だが、泣いてはいなかった。
「六日目の朝でした。百四十番の方です。夜の当番の兵が、息が細いのに気づいて、ロイさんが湯を運んで、ヴァイスさんが朝まで背を支えてくださいました」
声は震えていなかった。
「一度目を、その方に使いました。……間に合いませんでした。サナトス様の手が光っている間に」
蓮は何も言えなかった。
「十二日で、一人です」
レミエルは言った。
「去年の同じ十二日を数え直しました。蓮さんたちが、数え方を教えてくださったので。……四人でした」
四人が、一人。
蓮はその数を頭の中で置いた。喜んでいい数なのかどうか、分からなかった。一人は、一人だった。
「まだ、分かりません」
蓮は言った。
「十二日は、短すぎます。たまたまかもしれない。一年、続けて数えないと」
「はい」
レミエルは頷いた。
「続けます。当番も。数えるのも」
帳簿を閉じた。
「ヴァイスさんは、その朝、一言も仰いませんでした。ただ、次の晩も当番に立たれました。その次の晩も」
蓮は頷いた。ヴァイスなら、そうする。
「それから」
レミエルの口元が少しだけほころんだ。
「今夜、通りで、宴があるのです」
「宴」
「兵の者たちと、寝台の方々のご家族が。皆さんが明後日発たれると聞いて。……この国の宴ですから、ご馳走は出ません。薬草の茶と、薄い粥と、パンくらいです」
それから、小さく付け足した。
「でも、通りに卓を出すのは、去年の戦の後、初めてです」
日が落ちると、通りに灯りが並んだ。
寝台の列の間に長い卓が三つ。卓の上に、茶の鍋と粥の鍋とパンの籠。それだけだった。
それだけなのに、通りは人で埋まっていた。白い布を巻いた兵が四十人。寝台の者の、妻や夫や子ども。起き上がれる者は寝台の上で身を起こしていた。起き上がれない者の寝台は、卓の近くへ寄せてあった。
「でな、そこでこいつが言うんだよ。俺は魔法が使えない、ってな」
卓の真ん中で、リアムが立ち上がっていた。片手に茶の椀を持っていた。
「知ってるよ、って話だろ? 一年も一緒にいるんだ。で、その後だ」
リアムは椀を掲げた。声を低くした。ヴァイスの真似だった。
「朝までは、持たせられる」
どっと、笑いが起きた。笑いながら、兵の何人かが目を拭っていた。
卓の端でヴァイスが粥の椀を持ったまま固まっていた。耳まで赤かった。
「……殴るぞ」
「殴れ殴れ。その腕、三日は上がらなかったくせによ」
ロイがヴァイスの肩を叩いた。治った腕だった。
通りの西の端から小さな足音がぱたぱたと走ってきた。
子どもが六人。咳をしていた男の子もその中にいた。六人とも両手に紙の鳥を持っていた。
その後ろからベルが歩いてきた。腕に糸を巻いていた。鳥がずらりと通してあった。
「数えて」
ベルは蓮の前に糸を突き出した。蓮は端から数えた。
「五十七」
「六人で、十二日よ。あたしは、手伝ってないんだから。一羽しか」
「一羽は、手伝ったのか」
「羽が三枚になったのを、直しただけよ」
ベルは胸を張った。
男の子が蓮の袖を引いた。
「馬車に、つけて」
小さな声だった。
「都の子のと、一緒に」
蓮はしゃがんだ。糸を受け取った。
「三百十二と、五十七」
頭の中で、足した。
「三百六十九羽になる」
「せんには?」
「あと、六百三十一」
男の子は指を折って数えようとして、途中で諦めた。
「つぎの国の子が、おる?」
「いると思う」
「じゃあ、たりる」
男の子は満足そうに頷いた。
十三の国を回れば千に届く。蓮はそんなことを考えたこともなかった。
卓の向こうで椀を卓に叩きつける音がした。
五十三番の寝台にいた、元外壁警備隊の兵だった。肩の骨の太い、白髪の兵。寝台ではなく椅子に座っていた。自分の足で歩いてきたのだった。
名はグスタフといった。あの朝の後でヴァイスが訊いたのだと、ロイが言っていた。
「兄ちゃん!!」
グスタフは立ち上がった。痩せた体が、まっすぐに伸びた。門の上に立っていた頃の、立ち方だった。
「約束だ。もう一回叫べと、言ったな」
ヴァイスが顔を上げた。
通りが、静かになった。
グスタフは息を吸った。
深く。
細い音はどこにもなかった。
「うおおおおおおおおッ!!」
通りの端から端まで、届く声だった。
寝台の上の者たちが、びくりとした。
それから。
若い兵が一人椀を掲げて、同じように叫んだ。
もう一人。
もう一人。
四十人の兵が声を合わせていた。
寝台の上からもかすれた声がいくつも重なった。
一年前、北門の上で黒い翼が落ちた時。
この人たちは同じように叫んだのだ。
ヴァイスは椀を置いた。立ち上がった。何も言わなかった。
右の拳を左の胸に当てた。
グスタフが同じ礼を返した。腕に巻いた白い布が、灯りの中で揺れていた。
宴の端でフィールは茶を飲んでいた。隣にレミエルがいた。二人とも、通りの騒ぎを見ていた。
「フィール様は」
レミエルが言った。
「様は要らないわ。従士よ、私は」
「では、フィールさん。……怖くは、ないのですか。号令を、かけるのは」
フィールは椀を見下ろした。
「怖いわ」
すぐに答えた。
「あなたの名簿と同じよ。私が呼んだ名前のうち、四つは、もう返事をしない。五つ目を呼ぶのが怖くて、一度、二度とかけないと言ったことがあるの」
「でも、今も」
「かけているわ。かけなかったら、五つ目どころでは済まないから」
レミエルは膝の上で両手を握っていた。
「私は、甘いと言われます」
小さな声だった。
「他の国の継承候補の方々に。怪我をした兵を見るたびに泣いていては、当主は務まらない、と。……その通りだと、思います。私は、線を引くだけで。癒やすことは、何一つ」
「線を引くのは、癒やすより楽?」
レミエルは顔を上げた。フィールは通りを見たままだった。
「私は、そうは思わないわ。あなたは一年、九十三回、それをやった。泣きながら。泣かない人が同じことをするより、ずっと重いことを」
レミエルの目から、涙がこぼれた。
フィールは少しだけ笑った。
「ほら。また」
「す、すみません」
「謝らないで。うちにも、すぐ怒る子がいるの。あれも同じよ。怒っていないと、立っていられないの」
通りの向こうでベルがリアムの椀に何かをして、怒鳴られていた。茶が凍っていた。
「いつか」
レミエルは袖で顔を拭いた。
「サナトス様の三度が、私にも使えたら、と思うことがあります。そうすれば、六度になるのに、と。一日に、六人」
フィールは何も言わなかった。
「でも、それは」
「レミエル」
後ろから、声がした。
サナトスだった。白い長衣の肩に誰かがかけた毛布が載っていた。
「その日が来たら、三行を書くのは、あなたですよ」
穏やかな声だった。
レミエルは振り返った。首を横に振った。強く。
「嫌です」
泣きながら、はっきりと言った。
「そんな日は、来なくていいです。私はずっと、サナトス様の半歩後ろで、帳簿を書いていたいです」
サナトスは微笑んだ。皺の深い手がレミエルの頭にそっと置かれた。
「私も、そう願っておりますよ」
フィールは二人を見ていた。胸の徽章に指が触れていた。
貸すだけだ。帰ってきたら、返せ。そう言った人のことを思い出しているような顔だった。
通りの真ん中でグスタフが二度目を叫んでいた。今度はヴァイスも声を出していた。
蓮は帳面を開いた。
十二日。震えた線、一。去年の同じ十二日は、四。
鳥、三百六十九。
書いてから、その下に、もう一行。
通りに卓が出た。去年の戦の後、初めて。
それは、数ではなかった。それでも、書いておきたかった。




