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五本と五本

 帰りの二日、エミルはほとんど口をきかなかった。

 先頭を歩いた。行きと同じ速さで。ただ、何度も北北東を振り返った。行きは来た方を振り返っていたエミルだった。


 一日目の夜、砂丘の陰で火を囲んだ時、エミルは初めて口を開いた。


「十年、書いてきました」


 火を見たまま、言った。


「魔物を見た日。数。来た方角。……どこで生まれるのかを、考えたことがなかった。砂漠で生まれる。そう教わって、そのまま」


「俺も、そう聞いてました」


 蓮は言った。


「誰も、嘘は教えてない。砂漠で生まれるのは本当だった」


「ええ。本当でした」


 エミルは膝の上で両手を握った。白い布を巻いた腕が震えていた。


「怖い、と思いました。あれを見た時。今も思っています」


 フィールが顔を上げた。


「関所の者が言ったそうですね。悪魔は遠い話だ、と。私も、あの方々をお迎えするまでは同じことを言ったでしょう」


 エミルは北北東を見た。闇しかなかった。


「遠くありません。壁から、歩いて二日です。……塔に戻ったら篝火の台を増やします。あの方角に向けて」


 蓮は何も言わなかった。来年の巡回のことを考えていた。

 年に一度、白い衣の女がこの国にも来る。

 悪魔は、遠い。夜は、安らかに眠りなさい。

 その声が、この人の怖さも持っていくのだ。


「エミルさん」


「はい」


「見たものを日誌に書いてください。今夜、覚えているうちに。見たままを」


 エミルは蓮を見た。


「柱の数。床の広さ。陣の輪の数。砂が、どうやって狼になったか。それから、怖いと思ったことも」


「……怖いと思ったことも、ですか」


「それが、一番大事です」


 蓮は言った。


「人は忘れます。紙は忘れない」


 エミルはしばらく蓮の顔を見ていた。なぜ忘れると言い切れるのかを、訊きたそうな顔だった。

 訊かなかった。荷から小さな帳面を出した。火の明かりで書き始めた。一行ごとに手を止めて、目を閉じて、また書いた。


 フィールが蓮の隣でそれを見ていた。何も言わなかった。

 ただ、蓮の方を一度だけ見た。

 あなたは、何を知っているの。そう訊いている目だった。訊かないと言った約束を、守っている目でもあった。






 壁が見えたのは、二日目の夕方だった。灰色の線が地平に伸びていた。


 中の塔の上に小さな影があった。胸壁の上に身を乗り出していた。落ちそうなほど。

 影は三人に気づいた。消えた。


 壁の門が開くより先に門の脇の小さな扉が、内側から蹴り開けられた。


 ベルだった。


 走ってきた。砂に足を取られて、一度転んだ。起き上がって、また走った。

 蓮の前で止まった。肩で息をしていた。頬に砂がついていた。


 何も言わなかった。


 蓮の顔を、下から睨んだ。

 それから、蓮の右手を掴んだ。引き寄せて、指を一本ずつ数えた。


「一、二、三、四、五」


 左手を、掴んだ。


「一、二、三、四、五」


 蓮は、されるままになっていた。


「……五本と、五本」


 ベルは言った。


「うん」


「腕は、二本。脚も、二本。頭は、ついてる」


「ついてる」


「怪我は」


「ない」


「嘘だったら、許さないんだから」


「嘘じゃない」


 ベルはまだ手を離さなかった。蓮の両手を、自分の両手でぎゅっと握っていた。

 小さな手だった。温かかった。


 蓮はそこで初めて気づいた。


 震えが、止まっていた。


 砂丘の上からずっと続いていた。二日歩いている間も。夜、火を見ている間も。指の先の小さな震え。

 フィールの手が重なった時も止まりはしなかった。少しだけ楽になっただけだった。


 それが、止まっていた。


 いつ止まったのか、分からなかった。


「……何よ」


 ベルが眉を寄せた。


「変な顔して」


「いや」


 蓮は言った。


「数えるの、うまくなったな」


「馬鹿にしてるの」


「してない」


 ベルは、ふん、と鼻を鳴らした。やっと手を離した。

 離してから、フィールを見た。上から下まで。


「……そっちも、五本と五本?」


「ええ」


 フィールは両手を広げて見せた。


「数える?」


「いい。見れば分かるわよ」


 ベルはぷいと横を向いた。耳が赤かった。


 後から門を出てきた兵が、蓮に小声で言った。


「あの方、二日、塔の上におられました。飯も上へ運ばせて。夜も、毛布をかぶって」


「稽古は」


「それは、朝のうちに。三人とも、空になるまで撃たされました。そのあと、すぐ塔へ」


 兵は少し笑った。


「北北東ばかり、見ておられましたよ」






 詰所の二階で蓮は紙を広げた。ミラが向かいに座っていた。鑿ではなくペンを持っていた。


「輪が、七つ」


 蓮は言った。目を閉じていた。

 伏せた砂丘の上から見たものを、頭の中で端からなぞっていた。


「いちばん外の輪から、次の輪へ。結ぶ線が、二十四」


 ミラのペンが動いた。

 円が一つ。その内側に、もう一つ。間に、二十四本。等しく割って、置いた。


「二つ目から、三つ目へ。十六」


「十六」


「三つ目から、四つ目。十二。四つ目から五つ目。八。その内側が、六。最後が、四」


 ミラは一度も訊き返さなかった。七つの輪が、紙の上に重なっていった。線は一本も震えていなかった。


「真ん中の紋は」


「……それが、うまく言えない」


 蓮は目を開けた。


「火でも、氷でも、格子でもなかった。渦みたいだった。線が、まっすぐじゃなくて、巻いてた。外から、中へ」


 紙の端に自分で描いてみた。うまく描けなかった。


 ミラがそれを見た。長い間。

 それから、自分の紙の真ん中にペンを置いた。


 ゆっくりと、巻いた。


 外から、中へ。


 三本の線が、互いを追いかけるように。


「……これ」


 蓮は息を呑んだ。


「それだ」


「貝」


 ミラは言った。


「貝の、殻の巻き方」


 蓮は懐に手を入れた。白い殻が、二つ。一つを、紙の横に置いた。

 同じ向きに巻いていた。


 二人とも、しばらく黙っていた。


「ゼノさんは、紋を一から作った人間はまだいない、と言ってた」


 蓮は言った。


「成したのは、魔物が編んでいた紋だけだ、と」


「これは、魔物の紋じゃない」


 ミラが言った。


「魔物を、作る紋」


 ペンを置いた。指先がインクで黒くなっていた。いつもの灰色とは違う色だった。


「刻めるか」


 蓮は訊いた。訊いてから自分が何を訊いたのかに気づいた。


 ミラは紙を見ていた。


「七重は、どの石にも入らない」


 ヘルガと同じことを言った。


「でも」


 指がいちばん内側の輪と渦の紋をなぞった。


「ここだけなら、線は少ない。……刻む気は、ない。刻んだら、何が出るか分からないから」


「うん」


「でも、形は、覚えておく」


 ミラは紙を二枚に写した。寸分違わなかった。

 一枚は、都のヘルガへ。一枚は、南の外れの塔へ。


 分かったら、塔へ知らせろ。ゼノはそう言った。

 蓮は二枚目の紙の隅に書き添えた。


 ――線のない書き方の話では、ありません。

 ――線の、とても大きな書き方の話です。

 ――回復の国の、砂が終わる所に在りました。

 ――壁の空きの、どこにも入らない陣だと思います。


 キネシスへの報せは、長くなった。細い紙を三枚使った。


 柱が七本。半円。黒い石。

 床に、七重の陣。写しを、ヘルガに送る。

 粉は、柱の方へ靡く。魔素が国から流れて、あそこから外へ出ている。

 陣が光り、砂からサンドウルフが一頭生まれた。

 触れていない。日のあるうちに離れた。

 フィールが、隣にいた。


 最後の一行で、ペンが止まった。


 ――端の向こうは、移動の国で見たものと、同じでした。


 それだけ書いた。キネシスには、それで通じる。


 紙を巻いて、鳥の足の筒に入れた。塔の上から放した。

 灰色の翼が、夕闇の中を南へ飛んでいった。


「ねえ」


 後ろで、声がした。


 ベルだった。胸壁にもたれて、北北東を見ていた。もう何も見えない方角を。


「フィールに訊いたの。何があったのって」


「うん」


「黒い柱と、海、って」


 蓮は黙っていた。


「きれいだったって、言ってたわ。青くて、広くて」


 ベルは振り向かなかった。


「レンは?」


 小さな声だった。


「レンにも、きれいだった?」


 蓮は胸壁に手を置いた。石が冷たかった。


 青くて、広かった。そう言えば、済むことだった。

 前にも同じことを思った。あの時も言えなかった。


「……匂いが、しなかった」


 蓮は言った。井戸のそばで言ったのと、同じ言葉だった。


 ベルはしばらく黙っていた。それから、小さく息を吐いた。


「やっぱり」


 蓮はベルを見た。ベルは北北東を見たままだった。


「何が、やっぱりなんだ」


「言わない」


 ベルは言った。


「レンが言えないなら、あたしも言わない。話せるようになったら、一番に話すんでしょ」


「……うん」


「じゃあ、その時に、あたしも言う」


 ベルは胸壁から体を離した。階段の方へ歩いていった。

 下りる前に、振り返らずに言った。


「次の国の端は、あたしが決めていいのよね」


「ああ」


「じゃあ、もう決めた」


 足音が階段を下りていった。どう決めたのかは、言わなかった。


 蓮は塔の上に残った。両手を見下ろした。


 五本と、五本。


 震えは、もう、どこにもなかった。


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