砂が終わる所
壁の門を出て二日歩いた。北北東へ。砂丘を越えまた砂丘を越えた。
先頭はエミルだった。砂の締まった所を選んで、迷わずに歩いた。
一日目はそうだった。
二日目の昼を過ぎた頃から、エミルの足が遅くなった。疲れたのではなかった。砂丘を一つ越えるたびに立ち止まるようになった。振り返って、来た方を見た。
「……妙です」
エミルは言った。額に汗が浮いていた。
「足が、前へ出たがりません。水も足りている。脚も痛くない。それなのに」
「戻りたい?」
フィールが訊いた。
「戻りたい、というより。……この先へ行く用が、思いつかないのです。何をしに行くのだったか、と。頭では分かっているのですが」
フィールは頷いた。自分の胸に手を当てていた。
「私も、同じよ」
蓮は二人を見た。
「昨日の夜から。行かなくてもいい、という声がする。誰の声でもないのに」
フィールは前を向いた。北北東の、砂丘の稜線を。
「でも、行くと言ったわ」
歩き出した。一歩ごとに、砂を踏みしめるように。エミルが唇を引き結んで続いた。
蓮の足は軽かった。誰の声もしなかった。それが、二人との違いだった。
風が弱くなっていた。砂に白い欠片が混じり始めた。
蓮は一つ拾った。渦を巻いた小さな殻だった。
「貝ね」
フィールが言った。
「海が、近いんだわ」
蓮は殻を懐にしまった。二つ目だった。
日が西へ傾き始めていた。
最後の砂丘が、目の前にあった。白い大きな砂丘だった。風はもうまったくなかった。
「ここからは、俺が先に行く」
蓮は言った。
「上で俺がいいと言うまで、稜線から顔を出さないでくれ」
フィールは蓮を見た。何か言いかけて、やめた。
「分かったわ」
蓮は上った。
あと十歩。
五歩。
膝をついた。腹ばいになった。稜線から目だけを出した。
見た。
砂が、下っていた。
なだらかに、遠くまで。
その先で、終わっていた。
紙を、刃物で切り落としたように。
右の果てから左の果てまで、まっすぐに。
その先に、何もなかった。
色が、なかった。
遠さが、なかった。
目が、滑った。
二度目だった。
二度目でも、胃の底が浮いた。
蓮は歯を食いしばった。目を、手前に戻した。
砂が終わる、その縁に。
それは、在った。
柱だった。
黒い、石の柱。
人の背丈の、三倍はあった。
一本では、なかった。
七本。
砂の終わりの縁に沿って、半円を描いて立っていた。
残りの半円は、なかった。砂の終わった先に、あるはずの半分が。
七本の柱に囲まれた砂の上に、黒いものが広がっていた。
石の床だった。家が五つは建つ広さの、平らな黒い石。その表面に、線が刻んであった。
蓮は、息を止めた。
円だった。
外の輪。
その内側に、もう一つ。
さらに内側に、もう一つ。
数えた。
七重。
輪と輪の間を、線が結んでいた。何十本も。
真ん中に、紋があった。火の紋でも、氷の紋でも、格子でもなかった。見たことのない形だった。
それでも、蓮には分かった。
あれは、陣だ。
ミラが親指の先ほどの石に刻むのと、同じもの。ゼノが六十年数えてきたのと、同じもの。
ただ、大きさが、違った。
誰かが、あそこに刻んだのだ。
「……蓮」
下から、フィールの声がした。低い、抑えた声だった。
「上がっていい。伏せたまま。声は出さないで」
フィールが隣に来た。エミルがその向こうに。二人とも稜線から目を出した。
エミルの喉が鳴った。
「……あれは」
「柱が、七本」
フィールが囁いた。
「黒い石の床。……陣が刻んである。蓮、あれは」
「陣だ。七重の」
「誰が、あんなものを。波打ち際に」
波打ち際。
蓮はフィールの横顔を見た。フィールは柱の向こうを見ていた。目を細めていた。
「……きれい」
小さな声だった。
「青くて。広くて。あの黒い柱が、海を背にして立っているのね」
蓮は、もう一度その先を見た。
何も、なかった。
七本の柱は、何もないものを背にして立っていた。あるはずの残りの半円は、何もないものの中に消えていた。
エミルは砂に額をつけていた。
「海です。……本当に、海だ。初めて、見ました」
声が震えていた。喜んでいる声だった。
蓮の手が砂を掴んでいた。爪の間に、砂が入っていた。
同じ砂丘の上に、三人で伏せていた。肩が触れるほどの近さで。見ているものが違った。
その手の上に、手が重なった。
フィールの手だった。前を向いたまま、蓮の方は見ないまま。
「震えているわ」
囁いた。
「……うん」
「あなたには、あれが、きれいに見えていないのね」
蓮は答えられなかった。
「訊かないわ。約束だから」
手に、力が込められた。
「でも、離さない」
蓮は息を吸った。吐いた。
震えは止まらなかった。止まらないまま、少しだけ楽になった。
懐から、木の枠を出した。手のひらほどの白い紙。灰色の粉。砂の上に据えた。
粉は、寝ていなかった。
立っていた。
一粒残らず。
それだけでは、なかった。
倒れていた。
立ったまま、全部の粒が、同じ方へ傾いていた。
北北東。
黒い柱の方へ。
風は、なかった。それなのに粉は、風に吹かれた草のように、一つの向きに靡いていた。
蓮は、枠を少し右へ動かした。粉の向きが変わった。柱の方を指し直した。
左へ動かした。また、指し直した。
「……流れてる」
蓮は囁いた。
「何が」
「魔素だ。俺たちの後ろから。あの柱の方へ」
フィールが粉を見た。靡く向きを、目でたどった。
南南西。壁の方。回復の国の方。
そこから、ここへ。ここから、あの柱へ。
そして。
「柱の、先は」
フィールが訊いた。
「……出ていってる」
蓮は言った。
「あそこから、外へ」
「海の、向こうへ?」
蓮は頷いた。頷くしか、なかった。
道だ、と思った。
目に見えない川が、国の方からここまで流れてきて、あの陣に吸い込まれて、その先へ出ていく。
どこへ。
何もない所の、向こうへ。
その時だった。
黒い石の床の、陣の線が、光った。
七つの輪が。
外から、順に。
淡い、赤黒い光だった。
エミルが、息を呑んだ。
床の真ん中、紋の上の砂が、盛り上がった。
誰も、触れていなかった。
砂が、ひとりでに寄り集まっていた。
山になった。
山が、形になった。
四本の、脚。
長い、背。
尾。
頭。
砂の塊の胸の奥で、何かが、鈍く光った。
灰色の、石。
核だった。
その上を、砂が覆った。
砂が、毛になった。
砂色の、毛並みに。
塊が、身震いをした。
立ち上がった。
サンドウルフだった。
一頭のサンドウルフが、黒い石の床の上に立っていた。
さっきまで、そこには砂しかなかった。
陣の光が、消えた。
狼は鼻を上げた。匂いを嗅いだ。
それから、歩き出した。柱の間を抜けて。南へ。国の方へ。
蓮たちのいる砂丘のずっと西を、振り向きもせずに通り過ぎていった。
誰も、声を出せなかった。
エミルの顔は紙のように白かった。一年前、三つの集落を見つけた朝と、同じ色だった。
「……魔物は」
かすれた声で、エミルは言った。
「砂漠で、生まれる」
十年、塔の上から見てきた。どこから来るのかを、毎日書いてきた。
「あそこで。……あれが、作っていた」
フィールの手が、蓮の手を痛いほど握っていた。
「蓮」
「うん」
「誰が、あれを置いたの」
蓮は七本の柱を見ていた。
黒い石。見覚えのある黒だった。
アスモデウスの核。この部隊の何百年分の研究をいっぺんに飛び越えた、とヘルガが震えた、あの石。あの中にも、陣が刻んであった。
「人間じゃない」
蓮は言った。
「人間は、あそこへ近づこうと思わないから」
日が傾いていた。砂丘の影が、長く伸びていた。
日のあるうちに着き、日のあるうちに離れろ。夜を、あの近くで越すな。
蓮は帳面を開いた。伏せたまま、書いた。
柱、七本。半円。残りの半分は、ない。
黒い石の床。陣、七重。紋は、見たことのない形。
粉は、柱の方へ靡く。魔素が国からここへ流れ、ここから外へ出ている。
陣が光り、砂からサンドウルフが一頭、生まれた。南へ歩いていった。
ペンが止まった。
もう一行。
――フィールとエミルには、柱の向こうが海に見えている。
それは、書かなかった。書けば、フィールが読む。
「戻ろう」
蓮は言った。
三人は砂丘の裏へ下りた。フィールの手は、下りきるまで離れなかった。
下りきった所で、フィールは初めて蓮の顔を見た。
「一つだけ、訊いていい」
「うん」
「十四の国に、一つずつ。……あなたは、そう言ったわね」
「言った」
「あれが、あと十三」
フィールは北北東を振り返った。砂丘の向こうは、もう見えなかった。
「回る理由が、また増えたわ」
「六つ目だ」
「数えなくていいと、言われたでしょう」
フィールは笑わなかった。蓮も笑わなかった。
西の空で、日が傾いていた。三人は南へ歩き出した。
蓮は、一度も振り返らなかった。
振り返らなくても、あの柱の向こうに何もないことを、もう知っていた。
知っているのは、三人のうち、一人だけだった。




