三本目の線
ドンッ。
壁の内側の空き地で火の玉が弾けた。的にした古い盾が真ん中から二つに割れて飛んだ。
エミルは自分の拳を見下ろしていた。握った石からまだ薄く煙が上がっていた。
「……握った、だけです」
「握っただけよ」
ベルが言った。腕を組んで、胸を張っていた。
「編まなくていいの。三つ数えなくていいの。握った時にはもう出てる。分かった?」
「分かり、ました」
「じゃあ、次。撃っていい時と、駄目な時」
ベルは指を一本立てた。
「魔物には、いつ撃ってもいい。サンドウルフなら一発で転がるわ」
二本目。
「悪魔には、貴族様が触れてる時だけ。触れてない時に撃っても、殻で弾かれて終わり。石の無駄」
三本目。
「それから、これが一番大事。貴族様が悪魔に触れてる時は、貴族様の加護も消えてるの。外したら、貴族様が焼ける。……だから、外しちゃ駄目」
エミルの後ろに兵が二人立っていた。三人とも顔が強張っていた。
サナトスが窓のことを伝えた七人のうち、外壁にいるのはこの三人だった。
「外さない、というのは」
エミルが訊いた。
「どうやって」
「撃つの。毎日。空になるまで」
ベルはあっさりと言った。
「あたしは二年、裏庭で撃ってたわ。壁に。一人で」
蓮は少し離れた所から、それを見ていた。教えるのは、ベルに任せていた。
教え方は乱暴だったが、言っていることは全部正しかった。
フィールが蓮の隣に来た。
「あの子、ヘルガさんに似てきたわね」
「本人に言うと、怒る」
「言わないわ」
フィールは少しだけ笑った。それから、壁の上の見張り塔を見上げた。
「日誌は」
「ミラが、もう読み始めてる」
詰所の二階に日誌が積んであった。一つの塔の分ではなかった。
「北の外壁には塔が三つあります」
エミルは言った。
「西の塔、中の塔、東の塔。ここが中の塔です。西と東の日誌も、年に一度ここへ集めます」
三つの山。それぞれ、十年分。
蓮はミラを見た。ミラはもう一冊目を開いていた。
「……三十冊」
「うん」
「夜が明ける」
「二晩かかるかもな」
ミラは何も言わなかった。灯りをもう一つ引き寄せた。
読んだ。書いた。
中の塔。十年で、魔物を見た日が、百九十八。北北東から来たものが、百六十一。
西の塔。二百四十。北東が、百九十。
東の塔。百五十二。北が、百二十五。
二晩目の明け方、蓮はエミルの持ってきた地図を卓に広げた。回復の国の北の端と、その先の砂漠。
三つの塔に点を打った。定規を当てた。
中の塔から、北北東へ。
西の塔から、北東へ。
東の塔から、北へ。
三本の線が伸びていった。壁を越えて、砂漠の奥へ。
蓮は息を止めていた。ミラも止めていた。
二本は交わる。それは、もう知っていた。
三本目が同じ所を通るかどうか。
通った。
三本の線が、一つの点で重なっていた。指の先ほどのずれもなかった。
「……ここも」
ミラが言った。
「一つの所から、来てる」
蓮はその点に丸を描いた。壁から、北北東。地図のいちばん端。紙が終わる、すぐ手前。
「エミルさん」
蓮は訊いた。
「この辺りへ、行ったことは」
エミルは地図を覗き込んだ。丸を見た。首を横に振った。
「ありません。その先はもう海ですから」
「海を、見たことは」
「いえ。ですが、海です。青くて、広い」
迷いのない声だった。
「壁から歩いてどのくらいですか」
「二日、でしょうか。水さえ持てば。……なぜです」
「見に行きたいんです」
エミルは瞬きをした。困ったような顔をした。
「何もありませんよ。砂とその先に海があるだけで。魔物が多い方角ですし、わざわざ」
そこで言葉が止まった。自分が何を言ったのかに気づいた顔だった。
魔物が多い方角。
十年、塔の上から見てきた。どこから来るのかを、毎日、日誌に書いてきた。
それなのに。
「……行こうと、思ったことがありませんでした」
エミルはゆっくりと言った。
「魔物が来る方角だと知っていたのに。その先に何があるのかを見に行こうと。一度も」
額に手を当てた。
「妙ですね。なぜでしょう」
蓮は答えなかった。答えを知っていた。
近づこうという気が起きない。キネシスも同じことを言った。
あの白い衣の女は海を教えるだけではなかった。そこへ行かないことも教えていた。
誰も行かない所に、魔物の出てくる所がある。それが偶然ではないのなら。
蓮はその先を考えるのをいったんやめた。確かめた事実ではなかった。
鳥を飛ばした。塔の鳥舎からサナトリアを継いで都へ。
――回復の北の外壁。塔三つの日誌、十年分ずつ、三十冊。線が三本、一点で交わる。
――壁から北北東へ歩いて二日。外周の端のすぐ手前。
――移動の交わる所へは行くなと伺いました。こちらは、どうしますか。
返事が来るまで、三日かかった。
その間、蓮は札を刻むミラを手伝った。外壁の兵の当番の札だった。サナトリアの通りと同じものを塔にも置きたいと、エミルが言ったのだ。
ベルは毎朝、三人の兵を空き地に並べた。空になるまで撃たせた。
三日目の夕方、灰色の鳥が鳥舎に降りた。迷いのない短い字だった。
――読んだ。
――行け。ただし、見るだけだ。何があっても、触れるな。
――フィールを連れていけ。お前一人を、端に立たせるな。
――日のあるうちに着き、日のあるうちに離れろ。夜を、あの近くで越すな。
――こちらの線は、五本になった。全部、同じ所を通る。
――一つの国に、一つ。お前の言った通りかもしれない。
――見たものを、全部書け。
蓮は紙をフィールに渡した。フィールは二度読んだ。
「お前一人を、端に立たせるな」
声に出して読んだ。
「私が言ったのと、同じことを」
「うん」
「……キネシス様には、話していないわよ。あの夜のことは」
「俺も、話してない」
フィールは紙を見下ろしていた。少しの間。
「行くのは二人?」
「案内に、エミルさんを頼みたい。砂漠の歩き方は、あの人が一番知ってる」
「ミラは」
「札がまだ半分残ってる」
「ベルは」
蓮は少し黙った。空き地の方から、火の玉の弾ける音がしていた。
「稽古が、まだ途中だ」
「そうね」
フィールは蓮の顔を見ていた。それだけが理由ではない、と分かっている目だった。
訊かなかった。
「あの子、怒るわよ」
「怒るな」
「私から、言いましょうか」
「いや」
蓮は首を振った。
「俺が言う」
「嫌」
ベルは言った。一言だった。
「ベル」
「嫌。行く。あたしも行く」
壁の内側の空き地だった。日はもう落ちかけていた。
三人の兵は石を握ったまま、どこを見ていいか分からない顔をしていた。
「連れてってって、言ったじゃない。井戸の所で。あたし、ちゃんと言ったわよ」
「言った」
「じゃあ」
「今回は、駄目だ」
ベルの目が、大きくなった。それから、きっと細くなった。
「なんで」
「稽古が、途中だ。この三人はベルにしか教えられない」
「嘘」
ベルは即座に言った。
「レンが嘘つく時、分かるのよ。顔に書いてあるんだから」
蓮は言葉に詰まった。書いてあるのだろう、と思った。
稽古は本当だった。だが、それだけではなかった。
外周の端に立った時、蓮は膝をついた。胃の底が浮いて、手が震えた。今度もたぶんそうなる。
フィールは訊かないと言ってくれた。ベルは違う。顔に書いてある、と言う。
あの震えを隣で見たら、ベルは必ず訊く。何が見えたの、と。訊かれたら、蓮はうまく嘘がつけない。
キネシスに誰にも言うなと言われたことを、ベルの前でだけは隠しきる自信がなかった。
「……半分は、嘘だ」
蓮は言った。ベルが瞬きをした。
「稽古は、本当。もう半分は、俺の都合だ。今は、言えない」
「言えないって」
「キネシス様に口止めされてる。フィールにも話してない」
ベルは、フィールを見た。フィールは、頷いた。
「私も何があるのかは聞いていないわ。隣に立つだけ」
「……何よ、それ」
ベルの声が小さくなった。
「二人とも、それでいいの」
「よくはないわ」
フィールは言った。
「でも、行く」
ベルは、唇を噛んだ。長い間、蓮を睨んでいた。拳が、体の横で震えていた。
「……次は」
やがて、言った。
「次の国の端は、連れてって。約束」
蓮は、すぐには答えられなかった。
次の国。炎氷の東の端。そこでも、同じことを言うのかもしれなかった。
それでも。
「話せるようになったら、一番に話す。誰よりも。」
蓮は言った。
「連れていくかどうかは、その時に、ベルが決めていい」
ベルは、しばらく黙っていた。それから、ぷいと横を向いた。
「……ずるい。そういう言い方」
前にも、同じことを言われた。
「……約束。……一番に話して」
ベルは真っすぐに蓮の目を見て言った。
「帰ってきた時、レンが一つでも何か忘れてたら」
「許さない、だろ」
「一つでも怪我してても、許さないんだから」
ベルは三人の兵に向き直った。
「何見てるのよ!! 構えなさい!! 空になるまでって言ったでしょ!!」
兵たちが慌てて石を握った。
ドンッ。ドンッ。ドンッ。
火の玉が、夕闇の中で続けざまに弾けた。
ベルは振り返らなかった。小さな背中が怒っていた。怒っていなければ、立っていられない背中だった。
蓮はその背中をしばらく見ていた。
明日の夜明けに壁の門が開く。
その先は、砂だった。




