刻む名前
北の外壁までは馬で半日だった。
行くのは四人。フィール。蓮。ミラ。ベル。ロイとヴァイスとリアムは、サナトリアに残った。当番の表は、まだ三日目だった。
「俺も行く」
リアムは最初そう言った。それから、通りの寝台の列を見た。自分の受け持ちの十一の札を。
「……いや。行けねえな」
頭を掻いた。
「あいつら、俺が喋らねえと水を飲まねえんだ」
代わりに、蓮の手に小さな包みを押しつけた。風車が二本入っていた。
「北の丘の近くを通るだろ。……頼む」
蓮は頷いた。
北へ進むにつれて景色が色を失っていった。畑が減り、草が減り、砂が増えた。
一年前と同じ道だった。あの時は十人で歩いた。誰もそのことを口にしなかった。
地平に灰色の線が見えた。近づくと壁になった。国の北の端を、東から西へ、どこまでも貫く石の壁。その向こうが外周の砂漠だった。
壁の一か所だけ石の色が違っていた。周りより白い。新しい石だった。
一年前、そこは内側へ向かって砕けていた。真ん中に、人の頭ほどの拳の跡があった。今は、塞がれていた。
「……直ってる」
ベルが言った。
「あたしは、壊れてる所は見てないけど」
「見なくて、よかったわ」
フィールが言った。
見張り塔の下に兵が一人立っていた。腕に白い布。若い男だった。
一年前より頬に肉がついていた。目の下の窪みは消えていた。
それでも蓮には分かった。三つの集落を最初に見つけた兵。血まみれで塔の屋上に転がった一行を見て顔色を失った、あの若者だった。
男は四人の顔を見た。ゆっくりと右の拳を左の胸に当てた。
「お待ちしておりました」
声は落ち着いていた。
「外壁警備隊、隊長代理のエミルです。サナトス様から、鳥をいただいております」
「一年前は、名前も訊かなかったわね」
フィールが言った。
「訊く余裕がどなたにもありませんでした」
エミルは少しだけ笑った。それから、その笑みを消した。
「日誌も石の稽古も、用意してあります。ですが、その前に。お見せしたいものがあるのです」
街道を壁に沿って少し東へ歩いた。道の脇に低い丘があった。
北の丘。
蓮の足が重くなった。
ミラはもう立ち止まっていた。街道の真ん中で。
その場所を蓮も覚えていた。
夜だった。月明かりが街道を青白く照らしていた。
黒い肌の悪魔が背筋を伸ばして立っていた。
トーレが、剣を抜いた。
ミラの前へ、飛び出した。
そのまま、悪魔へ。
倒れる前に、息が止まっていた。
ネロが叫びながら続いた。
同じだった。
二人をそこに置いて、逃げた。
置いていくしか、なかった。
「こちらです」
エミルは街道の脇を示した。
丘のふもとに土が二つ、盛ってあった。石で縁を囲んであった。それぞれの頭の所に木の杭が一本ずつ立っていた。
杭には何も書かれていなかった。
「翌朝、私が見つけました」
エミルは言った。
「街道の真ん中に、お二人とも。胸に、あの痣がありました。集落の方々と同じ痣が」
声が少し低くなった。
「サナトリアへお運びするべきでした。ですが、あの時は街が戦の支度で、荷車の一台も回せなかった。それで、ここに。……お名前を存じ上げなかったので、杭には、何も」
フィールは、二つの土の前に立っていた。拳が、体の横で握られていた。
「一年、ここを」
「月に一度、石を積み直しております。砂がすぐに覆ってしまいますので」
エミルは目を伏せた。
「どちらがどなたなのかも、分からないままでした。申し訳ありません」
「謝らないで」
フィールの声がかすれた。
「私たちは、置いていったのよ。あなたは、拾ってくれた」
蓮は二つの土を見ていた。
サナトリアの丘の墓標の下には、何もなかった。ここにいたのだ。一年、ずっと。名前のない杭の下に。
ミラが、動いた。街道の真ん中から、歩いてきた。ゆっくりと。
二つの土の前に膝をついた。右の土を、見た。左の土を、見た。長い間。
「……右が、トーレ」
小さな声だった。
「背が、高かったから。土が、長い」
エミルが息を呑んだ。言われてみれば、右の土の方が手のひら一つ分だけ長かった。
ミラは膝の上の革袋を開いた。鑿を出した。
それから、土の縁を囲んでいた石の中から、平たいものを二つ選んだ。手のひらほどの灰色の石だった。一つを膝の上に据えた。鑿の先を当てた。
「ミラ」
フィールが言った。
ミラは顔を上げなかった。
「刻む」
それだけ言った。
鑿が動き始めた。かつ、かつ、と、小さな音がした。
陣ではなかった。円も、格子も、なかった。文字だった。一画ずつ。線は一本も震えていなかった。
誰も口をきかなかった。風が壁の上を渡っていった。
ベルが蓮の袖を掴んでいた。いつの間にか。
「……あたし、知らない人たちなのに」
小さな声だった。
「なんで、こんなに」
その先は言わなかった。蓮は袖を掴まれたままにしておいた。
一つ目の石ができた。ミラは石の粉を、ふっと吹いた。
トーレ。
深く、はっきりと刻まれていた。百年、砂に吹かれても消えない深さだった。
ミラは、それを右の杭の根元に置いた。置いた手をしばらく離さなかった。
「……あの時」
ミラは言った。石に向かって。
「私の前に出た。弦を、切られた私の前に」
灰色の指先が、刻んだ名前の溝をそっとなぞった。
「なんで出たのか、訊けなかった。訊く前にいなくなったから」
誰も答えられなかった。
「数えた。あの夜。十引く二、って。……数えるしか、できなかった」
ミラは俯いた。前髪が顔を隠した。
「今は、刻める」
肩が一度だけ、大きく揺れた。
それから、ミラは二つ目の石を膝に据えた。鑿を握り直した。
かつ、かつ、と。音が、また始まった。さっきより少しだけ速かった。
ネロ。
二つ目の石が左の杭の根元に置かれた。
蓮はリアムの包みを開いた。風車を一本ずつ石の脇に挿した。
回り始めた。からから、と。
フィールが二つの土の前に立った。背筋を伸ばした。胸の徽章に拳を当てた。
「トーレ」
まっすぐな声だった。
「ネロ」
一年前、ここで、二人の名は叫び声だった。やめろ、と。行くな、と。
今はただ名を呼んでいた。
「迎えに来るのが、遅くなりました」
フィールは言った。
「サナトリアの丘に、あなたたちの名前の標があります。リアムが、風車を挿しました。……今日は、連れて帰りません。ここを一年守ってくれた人がいるから」
エミルが顔を上げた。
「帰りに、もう一度寄ります。その時、どちらがいいか、決めさせてください。ここか。あの丘か」
フィールはエミルを振り返った。
「それで、いい?」
エミルは口を開いた。すぐには声にならなかった。
「……はい」
若い男は言った。
「どちらになっても、石は、積み直します」
蓮は帳面を開いた。古い方の写しを出した。
トーレ。ネロ。その横の場所の欄。
北の丘。体は、置いてきた。
そう書いてあった。
蓮はその下に書き足した。
――北の丘のふもと。街道の脇。外壁警備隊のエミルが、葬ってくれていた。
――名前を、ミラが刻んだ。
日が傾いていた。壁の影が長く伸びて、二つの土の上にかかっていた。二本の風車は、同じ速さで回っていた。
ミラはまだ石の前に座っていた。鑿を膝の上に置いて。
指先が灰色だった。今日の灰色は、陣を刻んだ色ではなかった。
蓮はそれを数えた。
ミラが刻んだ石。五十四と、二つ。
その二つは、別の欄に書くことにした。




