朝まで
翌朝、館の前庭に四十七人が並んだ。腕に白い布を巻いた兵が四十。その端に特務班の七人。
フィールが前に立っていた。手に蓮の引いた表を持っていた。見てはいなかった。
「ハインツ」
「は」
「一番から三番。朝と昼」
「は」
「オットー。四番から六番。朝と昼」
一人ずつ。名を呼んで、寝台の番号を告げていった。
昨日の夕方、フィールは兵舎を回って四十人の名を訊いていた。一度で全部覚えていた。
兵たちの顔が名を呼ばれるたびに少しずつ変わっていった。よその国の従士に指図される顔から。自分の持ち場を任された顔へ。
「見るのは、四つ」
フィールは言った。
「水を飲んだか。体の向きを変えたか。布は濡れていないか。息は、昨日と同じか。……四つとも、札に印をつけて」
寝台の足元に木の札が下がっていた。七十九枚。ミラが一晩で刻んだ札だった。
番号と四つの小さな升目。線は一本も震えていなかった。
「一つでもいつもと違うと思ったら、レミエル様か、蓮に知らせて。違わなくても、札に印を。印のない升目が、一番怖いの」
フィールは表を下ろした。
「以上。……始めて」
四十七人が通りへ散っていった。
昼までに蓮は通りを三度往復した。札を端から見ていった。
一番。印、二つ。
二番。印、二つ。
三十一番。水の升目が、空いていた。
蓮は受け持ちの兵を探した。若い兵は隣の寝台の老人に捕まって、孫の自慢話を聞かされていた。
「三十一番、水」
「あっ」
兵は慌てて水差しを取りに走った。蓮は表に小さく印をつけた。
抜けは出る。出た抜けが、昼までに見つかる。それが表の役目だった。
通りの真ん中でリアムの声がしていた。
「でな、そいつの舟が、三歩で沈んだんだよ。底が歪んでたんだと。俺のだけどな!!」
寝台の上で痩せた女が声を出さずに笑っていた。その隣の寝台の男も。その向こうの老婆も。
リアムは水差しを片手に寝台から寝台へ歩きながら、ずっと喋っていた。水を飲ませるより喋っている方が長かった。
それでも、リアムの受け持ちの札は全部の升目に印がついていた。
通りの西の端には子どもの寝台が六つ固まっていた。その真ん中にベルが座っていた。膝の上に紙が積んであった。
「違う。そこは山よ、山。こっち側に折るの」
「できない」
「できるわよ。あたしだって、最初は羽が三枚になったんだから」
それは初耳だ、と蓮は思った。口には出さなかった。
六つの寝台の枕元に、もう鳥が何羽も並んでいた。咳をしていた男の子がベルの袖を握ったままうとうとし始めていた。
ベルは動けなくなっていた。困った顔のまま片手だけで次の紙を折っていた。
夜の当番は二人ずつだった。十九人の兵と、特務班から二人。
ロイとヴァイスが自分から手を挙げた。
「昼間は、魔法の使える奴が要るだろ」
ロイは言った。
「火を焚いて湯を沸かすのも、石を握れば早い。夜は起きてるだけでいい。起きてるだけなら、俺たちの方が得意だ」
ヴァイスは何も言わなかった。もう水の桶を両手に提げていた。
夜の通りは静かだった。寝台の列の間に小さな灯りが十歩おきに置いてあった。
咳。寝返り。誰かの低いうめき。
ヴァイスは端から歩いた。一つずつ札を見た。一つずつ寝ている顔を見た。
胸の上下を。息の音を。剣の間合いを計る時と同じ目だった。
五十三番の寝台の前でその足が止まった。
老人が寝ていた。六十を越えていた。痩せていたが肩の骨が太かった。昔、何かを担いでいた肩だった。
老人は目を開けていた。ヴァイスを見上げていた。
「……あんた」
かすれた声だった。息の間に、ひゅう、と細い音が混じっていた。
「北門の、兄ちゃんだろう」
ヴァイスは答えなかった。
「翼を、斬った。悪魔の。根元から」
老人の口の端がわずかに上がった。
「俺は、見てた。外壁の、警備隊だ。……門の上から」
ヴァイスは寝台の脇にしゃがんだ。札を見た。
五十三番。胸の病。待った日、四十六。付き添い、なし。
「隊は」
ヴァイスが初めて口をきいた。
「十二人、いた。北の外壁で、五人やられた。北門で、五人」
老人は夜の空を見ていた。
「残った一人は、去年の冬に、村へ帰った。……俺だけだ。ここにいるのは」
ひゅう、と息が鳴った。
「兄ちゃんの、隊は」
ヴァイスはしばらく黙っていた。
「国境で」
短く言った。
「最初の夜に。俺だけ、残った」
「……そうか」
老人はそれ以上訊かなかった。ヴァイスもそれ以上言わなかった。
二人とも、同じものを見たことのある者の黙り方だった。
ヴァイスは水差しを取った。老人の頭を片手で支えた。ゆっくりと、飲ませた。札に印をつけた。
立ち上がりかけて、やめた。
もう一度、老人の胸を見た。
上下が浅かった。
昼の札の印は、全部ついていた。息は昨日と同じか。その升目にも印があった。
昼は、同じだったのだ。
今は、違った。
「ロイ」
ヴァイスは振り返らずに言った。低い声だった。
通りの向こうにいたロイがすぐに走ってきた。
「どうした」
「息が、細い」
ロイは老人の顔を覗き込んだ。唇の色が灯りの下で、薄かった。
「……レミエル様を」
「呼べ。それと、湯」
ロイはもう走っていた。
ヴァイスは老人の背中に腕を入れた。起こした。痩せた体は軽かった。自分の胸にもたせかけた。
「寝るな」
ヴァイスは言った。
「横になると、息が詰まる。起きてろ」
「……兄ちゃん。今日の三度は、もう」
「知ってる」
「なら」
「朝に、なれば」
ヴァイスは老人の背を手のひらで支え直した。
「一度目が、戻る」
老人は笑おうとした。咳になった。
ひゅう、ひゅう、と、細い音が続いた。
レミエルが駆けてきた。寝間着の上に外套を羽織っただけだった。
老人の胸に耳を当てた。顔を上げた時、唇を噛んでいた。
「……胸に、水が溜まっています。癒やしでなければ」
「朝まで、何刻」
ヴァイスが訊いた。
「三刻、と少し」
「持たせる」
レミエルはヴァイスを見た。
「体を、起こしたままに。湯気を吸わせて。眠らせないで。……でも、三刻も」
「持たせる」
ヴァイスは同じ言葉を繰り返した。
ロイが湯の桶を抱えて戻ってきた。老人の顔の前に、据えた。布を頭からかぶせた。湯気がこもった。
蓮が来た時には、三人とも、もう持ち場についていた。
ヴァイスが背を支える。
ロイが湯を替える。
レミエルが手首の脈を取る。
蓮にできることは、一つしかなかった。
札の裏に線を引いた。息を、数えた。一呼吸ごとに、一本。
「数えてるのか」
ヴァイスが言った。
「うん」
「声に出せ」
蓮はヴァイスを見た。
「じいさんに、聞こえるように。数えてる奴がいると分かれば、次の一つを吸う」
蓮は頷いた。
「一」
ひゅう。
「二」
ひゅう。
「三」
老人の指がヴァイスの腕を掴んでいた。骨の太い、兵の指だった。
百を越えた。
五百を越えた。
ロイが四度目の湯を運んできた。腕が震えていた。三日は重いものを持つな、と言われた腕だった。
ロイは何も言わなかった。桶を据えてまた走っていった。
千を越えた頃、老人の頭が、がくりと前に落ちた。
「寝るな」
ヴァイスが肩を揺すった。
「じいさん。門の上から、何が見えた」
老人の瞼が、震えた。
「……翼が」
「それから」
「落ちた。……黒い、翼が。あんたの、剣で」
「その後は」
「皆が、叫んだ。門の上で。……俺も、叫んだ」
老人の口の端が、また少し上がった。
「あんなに、叫んだのは。生まれて、初めてだった」
「なら、もう一回叫べ」
ヴァイスは言った。
「朝になったら。治ったら。それまで、寝るな」
ひゅう、と息が鳴った。
細かった。
それでも、続いていた。
蓮は、数え続けた。
二千。
三千。
東の空が、白み始めた。
通りの寝台の列の向こうに、白い長衣が見えた。
走ってはいなかった。だが、いつもの朝より、ずっと速く歩いていた。
サナトスは、五十三番の寝台の前に膝をついた。老人の胸に、手をかざした。
「一度目を」
淡い光が、染みていった。
長かった。
ヴァイスの腕の中で、老人の背が、大きく一度、膨らんだ。
息を、吸ったのだった。
深く。
細い音は、しなかった。
もう一度。
もう一度。
老人は目を開けた。白んだ空を、見た。それから、自分を支えている腕を。
「……朝か」
「朝だ」
ヴァイスは言った。
老人は口を開けた。叫びはしなかった。
代わりに、笑った。咳の混じらない、長い笑い声だった。
ヴァイスはゆっくりと腕を抜いた。一晩、同じ形のままだった腕はすぐには伸びなかった。
ロイが空の桶を抱えたまま、その場に座り込んでいた。
レミエルは帳簿を開いていた。
左の頁に、一行。
右の頁の、名簿の中の一つに。
線を引いた。
まっすぐだった。手は震えていなかった。
泣いては、いた。
「蓮」
ヴァイスが言った。
「いくつだ」
蓮は札の裏を見た。線がびっしりと並んでいた。
「三千六百と、十二」
「そうか」
ヴァイスは自分の手のひらを見下ろした。剣だこしかない手だった。陣の光は、一本も出ない手だった。
「俺は、魔法が使えない」
誰にともなく、言った。
「朝までは、持たせられる」
サナトスが立ち上がった。ヴァイスの前に来た。
両手を胸の前で重ねて、深く頭を下げた。
四百五十年、一日に三度しか癒やせなかった人が。
一度も癒やしたことのない男に。
蓮は表を開いた。五十三番の、夜の升目。
印を、つけた。
一日目。
抜けは、一つあった。昼までに、埋まった。
震えた線は、零だった。




