九十三
館の奥に帳簿の部屋があった。窓のない細長い部屋だった。
壁の両側に棚。革の背表紙が床から天井まで並んでいた。四百五十年分の、三行だった。
卓の上に十二冊が積んであった。この一年の分だった。
卓を囲んで、三人が座っていた。蓮。ミラ。レミエル。灯りが、二つ。
「右の頁だけを、見ます」
蓮は言った。
「線が震えている名前を、ミラが読む。俺が書く。レミエル様は、合っているかどうかを見ていてください」
「……様は、要りません」
レミエルは小さく言った。
「私も、蓮さんと呼んでいますから」
「じゃあ、レミエルさん」
少女は頷いた。膝の上で両手を握りしめていた。
ミラが一冊目を開いた。頁をめくった。灰色に汚れた指先が名前の列を上からたどった。
まっすぐな線。まっすぐな線。まっすぐな線。
止まった。
「……ハンナ」
ミラは読んだ。平らな声だった。
「待った日。五十二。胸の病。付き添い、なし」
名簿の名前の横にレミエルの細かい字でそう書き添えてあった。いつ寝台に入ったか。何の傷か、何の病か。誰が傍についているか。
蓮は升目に書いた。
一。五十二。病。なし。
「次」
頁がめくられた。
「ヨアン。待った日、十九。脚の傷が膿んだ。付き添い、妻」
「二。十九。傷。あり」
「エルマ。六十一。腹の病。なし」
「三。六十一。病。なし」
レミエルの肩が名前が読まれるたびに小さく揺れた。
一つ一つに、覚えがあるのだった。顔も。声も。線を引いた朝の空の色も。
ミラは一度も声を詰まらせなかった。蓮も手を止めなかった。
止めたら、その先を数えられなくなる。二人ともそれを知っていた。
一冊目が終わった。二冊目。三冊目。灯りの油を足した。
六冊目の途中でレミエルが口を押さえて立ち上がった。部屋の隅へ行って、壁に額をつけた。
声は出さなかった。背中だけが震えていた。
ミラの指が名簿の上で止まった。蓮を見た。
蓮は首を横に振った。
ミラは小さく頷いた。それから、帳簿を置いた。立ち上がった。
蓮が思っていたのとは違う動きだった。
ミラは部屋の隅まで歩いていった。レミエルの隣に立った。壁を向いたまま。同じように、額を壁の近くまで寄せて。
「……私も、数えてた」
ミラは言った。小さな声だった。
「北の集落で。並べられた人たちを。紙に、数字だけ書いて」
レミエルの背中の震えが少し止まった。
「数字を書いていないと、顔を見てしまいそうだった。見たら、動けなくなるから。だから、数字だけ書いた」
ミラは壁を見ていた。
「あなたは、逆」
「……逆?」
「顔を見て、名前を書いて、線を引いた。一年。毎朝」
灰色の指先が壁の石を、そっと押さえた。
「私には、できなかった。……あなたの方が、ずっと強い」
レミエルは顔を上げた。涙で、ぐしゃぐしゃだった。
「強く、なんか」
「強い」
ミラは言い直さなかった。
「怖くて数えられなかったのは、顔を全部覚えてるから。覚えてる人が数えるのは、覚えてない人が数えるより、ずっと重い」
それだけ言って、ミラは卓に戻った。帳簿を開き直した。何事もなかったように。
レミエルはしばらく壁の前に立っていた。袖で顔を拭いた。戻ってきた。
今度は、椅子をミラの隣に寄せて座った。
「……続きを、お願いします」
「うん」
ミラの指がまた名簿をたどり始めた。
「トビアス。待った日、四十四。腹の傷。付き添い、なし」
「四十七。四十四。傷。なし」
七冊目。八冊目。
十冊目。
十二冊目の最後の頁をミラが閉じた。部屋が静かになった。
蓮は升目のいちばん下の数字を見た。書いた自分の字を、もう一度確かめた。
「九十三」
声に出した。
「この一年で、間に合わなかった人。九十三人」
レミエルは目を閉じた。長い間。握りしめた手が白くなっていた。
「……九十三」
繰り返した。その数を初めて口にした声だった。
「百は、越えていると思っていました。二百かもしれない、と。……数えないから、いくらでも大きくなって」
「数えると、そこで止まる」
ミラが言った。
「それより、増えない。減りもしないけど」
レミエルは小さく頷いた。
蓮はまだ升目を見ていた。
九十三で、終わりではなかった。数えたのは人数だけではなかった。
「もう一つ、いいですか」
レミエルが目を開けた。
「待った日数です。九十三人のうち、四十日より長く待っていた人が、六十四人」
「……はい。重い方から先に癒やしますが、それでも、順番が回るまでに」
「それは、癒やしの数の話です。一日に三度。動かせません」
蓮は升目の右の端の列を指で押さえた。
「こっちです。付き添い」
レミエルの目が、その列に落ちた。
あり。なし。なし。あり。なし。なし。なし。
「九十三人のうち、付き添いのなかった人が、六十六人」
ミラが蓮を見た。気づいていた顔だった。読みながら、同じものを数えていたのだ。
「今、通りで待っている二百十一人のうち、付き添いのない人は何人ですか」
「……今朝の名簿では、七十九です」
レミエルはすぐに答えた。数えたことがないと言ったが、名簿は全部頭に入っていた。
「三人に、一人と少し」
蓮は言った。
「でも、間に合わなかった人の中では、三人に二人を越えてます」
レミエルの唇が開いた。声が出なかった。
「病が重かったから、だけじゃないと思います。同じ病で、同じだけ待って、付き添いのいた人は、順番まで持ちこたえてる。水を飲ませる人。体の向きを変える人。夜中に、息が細くなったのに気づく人。……それがいなかった人から、先に」
「……私が」
レミエルの声がかすれた。
「私が、回っています。毎日。包帯を替えて、水を」
「一人で、七十九人をですか」
少女は答えなかった。答えられなかった。
「去年の戦で、家族を亡くした人が多いんですよね。北の集落から逃げてきて、身寄りのない人も」
「……はい」
「足りないのは、癒やしの数だけじゃない」
蓮は言った。責める声にならないように。
「三度は、増やせません。でも、付き添いは増やせます。当番を組めば。寝台に番号を振って、誰がいつ、どの寝台を見るかを決めれば」
レミエルは蓮を見ていた。涙は、止まっていた。
「うちに、七人います。魔法の使えないのが二人いて、その二人が、水を運ぶのと人を抱えるのは一番上手い」
「……桶は、持てる」
ミラがぼそりと言った。ヴァイスの真似だった。
蓮は少しだけ笑った。
「関所の兵は、腕に白い布を巻いてました。剣を抜く前に、まず傷を見よ、という印だと聞きました。この街に、布を巻いた人は何人いますか」
「館の兵が、四十。外壁の警備隊は、北に」
「四十と、七で、四十七」
蓮は帳面の新しい頁を開いた。升目を引いた。
縦に、寝台の番号。横に、朝、昼、夕、夜。
「七十九の寝台を、四十七人で、日に四度。一人が、二つか三つ受け持てば回ります」
ペンが紙の上を走った。日本の会社で何度も引いた形の表だった。
誰が、いつ、どこを見るか。抜けている所が、ひと目で分かる表。
「段取りは俺が組みます。号令はうちの隊長がかけます。名前を呼ぶのが上手い人なので」
レミエルは升目を見ていた。まだ何も書かれていない、空の欄を。
あの夜、蓮がフィールの前で引いた四十八の空欄と同じ形だった。
「……これで」
少女は言った。
「震えた線が、減りますか」
「分かりません」
蓮は正直に言った。
「やってみて、来年、また数えないと。でも、九十三のうちの六十六には、手が届くかもしれない所があった。それは、数えたから分かったことです」
レミエルは両手で顔を覆った。また、泣いていた。
今度の泣き方はさっきと違っていた。
扉が静かに叩かれた。開いた。
サナトスだった。白い長衣の裾に、通りの砂がついていた。
「三度目を、使ってまいりました」
老人は言った。
「通りの東の端の、若い母親に。……間に合いました」
レミエルが顔を上げた。帳簿に手を伸ばした。今日の頁を開いた。
左の頁の、三行目。
名前を書いた。
右の頁の、名簿の中の一つに。
線を引いた。
まっすぐな線だった。
サナトスは卓の上を見た。十二冊の帳簿と。蓮の升目と。いちばん下の数字と。
老人の目がその数字の上で、長い間止まっていた。
「九十三」
静かな声だった。
「……九十三人でしたか」
「サナトス様」
レミエルが立ち上がりかけた。
「覚えております」
老人は言った。
「一人残らず。ただ、数えたことは、ありませんでした。……私も、怖かったのです」
皺の深い手が升目の縁に、そっと触れた。
「四百五十年分を数える勇気は、まだありません。ですが、この一年分を数えてくださった方が、ここに三人おられる」
老人はミラを見た。蓮を見た。それから、レミエルを。
「三人ですよ、レミエル」
少女は口を押さえた。
ミラが、蓮の帳面を、指で叩いた。書け、という意味だった。
蓮は、書いた。
――間に合わなかった人。一年で、九十三。
――付き添いのなかった人。六十六。
――ミラと、レミエルさんと、数えた。
数える人は、三人になっていた。




