↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
121/230

三行

 サナトスの館は一年前と変わっていなかった。白い壁。薬草の匂い。飾りのない廊下。

 謁見の間と呼ぶには狭い部屋だった。椅子が一つと、長い卓が一つ。卓の上に、帳簿が三冊積んであった。


 老人は椅子には座らなかった。卓の脇に立って、フィールの差し出した書状を読んでいた。キネシスの字だった。

 読み終えると、丁寧に折りたたんで、胸の前で両手を重ねた。


「キネシス殿は、お変わりなく」


「はい。東の篝火に備えて、都に残っておられます」


 フィールが答えた。


 老人の目がフィールの胸に落ちた。銀の徽章に。縁の、細い線に。


「……あの方の印ですね」


 静かな声だった。


「世界会議の折に、ムーヴ殿のお側に立っておられた。一度だけ、お話をしました。私の手を見て、ずいぶんお疲れの手だ、と仰った」


 老人は微笑んだ。


「良い方に、お貸しになりました」


「名代として、お預かりしているだけです」


「ええ。それでよいのです」


 フィールは蓮を見た。

 蓮は革の包みを卓の上に置いて、開いた。黒い陣の埋まった、小さな石が二つ。


「砂の火の石です。握れば、陣を編まずに火が出ます。粉の石の、倍の強さです」


 サナトスは石に触れなかった。眺めていた。


「ヨルの村で討たれた悪魔の、砂ですか」


「はい」


「キネシス殿が、お一人で砂にされたと、鳥が運んできました」


 老人の目が蓮を見た。

 穏やかな目だった。何も訊いていない目だった。訊かなくても知っている、という目でもあった。


「……そう、伝わっているはずです」


 蓮は言った。


「ええ。そう伺っております」


 サナトスはそれ以上は言わなかった。


「ありがたく、お預かりします。ただ」


 皺の深い手が、石の横の卓をそっと撫でた。


「この国には、これを握る手が、あまりないのです」


「握る手」


「回復の国の兵は、戦う兵ではありません。腕に白い布を巻くのは、剣を抜く前に、まず傷を見よ、という印です。火を放つ稽古をした者は、外壁の警備隊に、ほんの幾人か」


「その幾人かに、教えます」


 フィールが言った。


「使い方と、使ってはならない時を。窓が開いていない時に撃っても、殻に弾かれるだけです」


「窓を知る者は、この国に七人おります。私が、一人ずつ会って伝えました」


 老人は頷いた。


「明日、北の外壁へ使いを出しましょう。隊長を呼びます」


「北の外壁には、俺たちが行きます」


 蓮は言った。


「用がもう二つあります。外壁の見張りの日誌を、見せていただきたいんです。魔物が、どの方角から来たのかを」


「魔物の、方角」


「それと」


 少しだけ、間が空いた。


「北の、外周の端を」


 サナトスは瞬きをした。


「端、ですか。砂ばかりですよ。その先は」


 老人はにこりと笑った。


「海です。青くて、広い」


 蓮は頷いた。頷くしか、なかった。


 メンタルの手を、ただ一人取らなかった貴族だった。

 それでも、この人も継ぐ前は広場の側にいたのだ。四百五十年も、前に。


「キネシス様の言いつけです。国の端を、十三、見て回れ、と」


「あの方らしい」


 サナトスは言った。


「確かめた事実だけを書く家、でしたね。……どうぞ。日誌も、端も。この国に、お見せできないものはありません」


 それから、少しだけ声を落とした。


「見て、楽しいものが少ないだけです」






 翌朝。蓮は通りに立っていた。夜明けの白い光だった。


 通りの両脇に寝台が並んでいた。端から数えた。

 百。二百。

 二百十一。

 一年前は、通りの端が見えないほど並んでいた。減っていた。減って、まだ、二百十一あった。


 館の扉が開いた。サナトスが出てきた。白い長衣。

 その半歩後ろに少女がいた。十五か、十六。亜麻色の髪を後ろで束ねて、左の腕に白い布を巻いていた。胸に分厚い帳簿を抱えていた。

 レミエルだった。昨日、丘の上で花を抱えていた少女。


 老人は通りを歩いた。ゆっくりと。寝台を一つずつ見ていった。

 立ち止まらなかった。顔を見て、手を見て、胸の上下を見て、次へ行った。


 寝台の上の人々は老人を目で追っていた。誰も声をかけなかった。すがる者もいなかった。

 ただ、待っていた。今日の三人に、自分が入るのかどうかを。


 老人の足が止まった。通りの中ほどの寝台の前だった。

 痩せた男が横たわっていた。腹に黒ずんだ布が巻いてあった。


「一度目を」


 サナトスが言った。


 手が、男の腹の上にかざされた。淡い光が布の上から染みていった。

 長かった。施療院の老女の石とは比べものにならない長さだった。男の頬に、少しずつ色が戻っていった。


 レミエルが帳簿を開いていた。立ったままペンを走らせた。

 一行。


 二度目は、通りの西の端の、老婆だった。

 三度目は、まだ決めなかった。


「夕刻まで、取っておきます」


 老人は言った。一年前と同じ言葉だった。


 選ばれなかった二百八の寝台の間を老人は、同じ速さで歩いて戻った。一つずつ、顔を見ながら。目を、逸らさずに。


 蓮はそれを数えていた。

 選ばれた者。二。

 取ってある分。一。

 待つ者。二百八。


 一日に三人。二百十一人を癒やすのに、七十日と少し。

 その七十日の間に、新しい寝台が、また増える。


「数えておいでですね」


 声がした。レミエルだった。帳簿を抱えたまま、蓮の隣に立っていた。


「……すみません」


「いえ」


 少女は首を振った。


「私も、毎朝、数えます」


 帳簿を開いて見せた。

 左の頁に日付。その下に三行。名前。傷の様子。癒やした刻限。

 今日の分は二行まで埋まっていた。三行目は、空いていた。


「一日に、三行です」


 レミエルは言った。


「サナトス様が継がれてから、四百五十年。一日も欠けたことがありません。倉に、帳簿が千冊以上あります」


 右の頁は、別の書き方だった。細かい字で名前がびっしりと並んでいた。上から下まで。欄の外にまで、はみ出して。


「こっちは」


「待っておられる方の、お名前です」


 少女の指が頁の上をなぞった。


「二百十一。癒やしを受けられたら、線を引きます。今日は、二本」


 名前の列の中に線の引かれた名が、ぽつぽつとあった。細い、まっすぐな線だった。


 その中に。


 線の引き方が違う名があった。


 まっすぐではなかった。


 震えていた。


 二度、三度、なぞってあった。


 一つではなかった。


 蓮は数えかけて、やめた。


「……これは」


 レミエルは答えなかった。帳簿を抱える腕に力が入っていた。


「間に合わなかった方、です」


 小さな声だった。


「順番が来る前に、朝、冷たくなっておられた方。……線は、私が引きます。サナトス様には、引かせません」


 通りの向こうで、老人が寝台の脇にしゃがんでいた。選ばれなかった誰かの、手を握っていた。

 癒やしてはいなかった。ただ、握っていた。


「あの方は、全部、覚えておいでです」


 レミエルは言った。


「四百五十年分。癒やせた方より、癒やせなかった方を。だから、せめて線だけは」


 少女は帳簿を閉じた。閉じた手が表紙の上で、止まった。


「蓮様は、数える方だと伺いました」


「……様は、要りません」


「では、蓮さん」


 レミエルは顔を上げた。目の縁がもう赤かった。丘の上でもそうだった。

 すぐ泣く人なのだ、と蓮は思った。泣きながら線を引いてきた人なのだ、とも思った。


「一つ、数えていただきたいものがあるのです」


「何を」


「この一年の、震えた線を」


 帳簿が蓮の前に差し出された。


「私は、名前は書けます。線も引けます。でも、数えたことが、一度もありません。……怖くて」


 数えるのが怖かった。


 その言葉を、蓮は前にも聞いた。塔の老人が同じことを言った。

 ミラは怖くても数え続けた。


 蓮は帳簿を受け取った。重かった。一年分の名前の重さだった。


「数えます」


 蓮は言った。


「一人で、じゃなくて。うちに、数えるのが上手いのが、もう一人います」


 レミエルは、瞬きをした。涙が一粒、落ちた。

 それから、深く、頭を下げた。


 通りの寝台の上に、朝の光が、ゆっくりと広がっていった。


 三行目は、まだ空いていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。