三行
サナトスの館は一年前と変わっていなかった。白い壁。薬草の匂い。飾りのない廊下。
謁見の間と呼ぶには狭い部屋だった。椅子が一つと、長い卓が一つ。卓の上に、帳簿が三冊積んであった。
老人は椅子には座らなかった。卓の脇に立って、フィールの差し出した書状を読んでいた。キネシスの字だった。
読み終えると、丁寧に折りたたんで、胸の前で両手を重ねた。
「キネシス殿は、お変わりなく」
「はい。東の篝火に備えて、都に残っておられます」
フィールが答えた。
老人の目がフィールの胸に落ちた。銀の徽章に。縁の、細い線に。
「……あの方の印ですね」
静かな声だった。
「世界会議の折に、ムーヴ殿のお側に立っておられた。一度だけ、お話をしました。私の手を見て、ずいぶんお疲れの手だ、と仰った」
老人は微笑んだ。
「良い方に、お貸しになりました」
「名代として、お預かりしているだけです」
「ええ。それでよいのです」
フィールは蓮を見た。
蓮は革の包みを卓の上に置いて、開いた。黒い陣の埋まった、小さな石が二つ。
「砂の火の石です。握れば、陣を編まずに火が出ます。粉の石の、倍の強さです」
サナトスは石に触れなかった。眺めていた。
「ヨルの村で討たれた悪魔の、砂ですか」
「はい」
「キネシス殿が、お一人で砂にされたと、鳥が運んできました」
老人の目が蓮を見た。
穏やかな目だった。何も訊いていない目だった。訊かなくても知っている、という目でもあった。
「……そう、伝わっているはずです」
蓮は言った。
「ええ。そう伺っております」
サナトスはそれ以上は言わなかった。
「ありがたく、お預かりします。ただ」
皺の深い手が、石の横の卓をそっと撫でた。
「この国には、これを握る手が、あまりないのです」
「握る手」
「回復の国の兵は、戦う兵ではありません。腕に白い布を巻くのは、剣を抜く前に、まず傷を見よ、という印です。火を放つ稽古をした者は、外壁の警備隊に、ほんの幾人か」
「その幾人かに、教えます」
フィールが言った。
「使い方と、使ってはならない時を。窓が開いていない時に撃っても、殻に弾かれるだけです」
「窓を知る者は、この国に七人おります。私が、一人ずつ会って伝えました」
老人は頷いた。
「明日、北の外壁へ使いを出しましょう。隊長を呼びます」
「北の外壁には、俺たちが行きます」
蓮は言った。
「用がもう二つあります。外壁の見張りの日誌を、見せていただきたいんです。魔物が、どの方角から来たのかを」
「魔物の、方角」
「それと」
少しだけ、間が空いた。
「北の、外周の端を」
サナトスは瞬きをした。
「端、ですか。砂ばかりですよ。その先は」
老人はにこりと笑った。
「海です。青くて、広い」
蓮は頷いた。頷くしか、なかった。
メンタルの手を、ただ一人取らなかった貴族だった。
それでも、この人も継ぐ前は広場の側にいたのだ。四百五十年も、前に。
「キネシス様の言いつけです。国の端を、十三、見て回れ、と」
「あの方らしい」
サナトスは言った。
「確かめた事実だけを書く家、でしたね。……どうぞ。日誌も、端も。この国に、お見せできないものはありません」
それから、少しだけ声を落とした。
「見て、楽しいものが少ないだけです」
翌朝。蓮は通りに立っていた。夜明けの白い光だった。
通りの両脇に寝台が並んでいた。端から数えた。
百。二百。
二百十一。
一年前は、通りの端が見えないほど並んでいた。減っていた。減って、まだ、二百十一あった。
館の扉が開いた。サナトスが出てきた。白い長衣。
その半歩後ろに少女がいた。十五か、十六。亜麻色の髪を後ろで束ねて、左の腕に白い布を巻いていた。胸に分厚い帳簿を抱えていた。
レミエルだった。昨日、丘の上で花を抱えていた少女。
老人は通りを歩いた。ゆっくりと。寝台を一つずつ見ていった。
立ち止まらなかった。顔を見て、手を見て、胸の上下を見て、次へ行った。
寝台の上の人々は老人を目で追っていた。誰も声をかけなかった。すがる者もいなかった。
ただ、待っていた。今日の三人に、自分が入るのかどうかを。
老人の足が止まった。通りの中ほどの寝台の前だった。
痩せた男が横たわっていた。腹に黒ずんだ布が巻いてあった。
「一度目を」
サナトスが言った。
手が、男の腹の上にかざされた。淡い光が布の上から染みていった。
長かった。施療院の老女の石とは比べものにならない長さだった。男の頬に、少しずつ色が戻っていった。
レミエルが帳簿を開いていた。立ったままペンを走らせた。
一行。
二度目は、通りの西の端の、老婆だった。
三度目は、まだ決めなかった。
「夕刻まで、取っておきます」
老人は言った。一年前と同じ言葉だった。
選ばれなかった二百八の寝台の間を老人は、同じ速さで歩いて戻った。一つずつ、顔を見ながら。目を、逸らさずに。
蓮はそれを数えていた。
選ばれた者。二。
取ってある分。一。
待つ者。二百八。
一日に三人。二百十一人を癒やすのに、七十日と少し。
その七十日の間に、新しい寝台が、また増える。
「数えておいでですね」
声がした。レミエルだった。帳簿を抱えたまま、蓮の隣に立っていた。
「……すみません」
「いえ」
少女は首を振った。
「私も、毎朝、数えます」
帳簿を開いて見せた。
左の頁に日付。その下に三行。名前。傷の様子。癒やした刻限。
今日の分は二行まで埋まっていた。三行目は、空いていた。
「一日に、三行です」
レミエルは言った。
「サナトス様が継がれてから、四百五十年。一日も欠けたことがありません。倉に、帳簿が千冊以上あります」
右の頁は、別の書き方だった。細かい字で名前がびっしりと並んでいた。上から下まで。欄の外にまで、はみ出して。
「こっちは」
「待っておられる方の、お名前です」
少女の指が頁の上をなぞった。
「二百十一。癒やしを受けられたら、線を引きます。今日は、二本」
名前の列の中に線の引かれた名が、ぽつぽつとあった。細い、まっすぐな線だった。
その中に。
線の引き方が違う名があった。
まっすぐではなかった。
震えていた。
二度、三度、なぞってあった。
一つではなかった。
蓮は数えかけて、やめた。
「……これは」
レミエルは答えなかった。帳簿を抱える腕に力が入っていた。
「間に合わなかった方、です」
小さな声だった。
「順番が来る前に、朝、冷たくなっておられた方。……線は、私が引きます。サナトス様には、引かせません」
通りの向こうで、老人が寝台の脇にしゃがんでいた。選ばれなかった誰かの、手を握っていた。
癒やしてはいなかった。ただ、握っていた。
「あの方は、全部、覚えておいでです」
レミエルは言った。
「四百五十年分。癒やせた方より、癒やせなかった方を。だから、せめて線だけは」
少女は帳簿を閉じた。閉じた手が表紙の上で、止まった。
「蓮様は、数える方だと伺いました」
「……様は、要りません」
「では、蓮さん」
レミエルは顔を上げた。目の縁がもう赤かった。丘の上でもそうだった。
すぐ泣く人なのだ、と蓮は思った。泣きながら線を引いてきた人なのだ、とも思った。
「一つ、数えていただきたいものがあるのです」
「何を」
「この一年の、震えた線を」
帳簿が蓮の前に差し出された。
「私は、名前は書けます。線も引けます。でも、数えたことが、一度もありません。……怖くて」
数えるのが怖かった。
その言葉を、蓮は前にも聞いた。塔の老人が同じことを言った。
ミラは怖くても数え続けた。
蓮は帳簿を受け取った。重かった。一年分の名前の重さだった。
「数えます」
蓮は言った。
「一人で、じゃなくて。うちに、数えるのが上手いのが、もう一人います」
レミエルは、瞬きをした。涙が一粒、落ちた。
それから、深く、頭を下げた。
通りの寝台の上に、朝の光が、ゆっくりと広がっていった。
三行目は、まだ空いていた。




