四つの名前
サナトリアの城壁が見えたのは、三日後の昼過ぎだった。
白い壁だった。一年前、あの壁の北の門で蓮たちは悪魔を待った。南の門から入るのは初めてだった。
通りの両脇に簡素な寝台が並んでいた。あの頃と同じだった。数は少し減っていた。
一日に三人。白い髭の老人は、今日もその三度を誰かに使っているはずだった。
馬車が通りの真ん中で止まった。フィールが手綱を引かせていた。
「館は、この先だぞ」
ロイが言った。
「知っているわ」
フィールは通りの先を見ていなかった。街の外れの方を見ていた。家並みの向こうに小さな丘があった。
「先に、あそこへ行く」
誰も、理由を訊かなかった。馬車は向きを変えた。
丘の上は草が伸びていた。一年分の草だった。
その中に木の墓標が四つ並んで立っていた。誰かが周りの草だけを刈っていた。墓標の根元に乾いた花が置いてあった。
七人は馬車を丘の下に置いて歩いて上った。誰も口をきかなかった。風が草を揺らしていた。
トーレ。
ネロ。
オルト。
ユーリ。
蓮は四つの名を左から順に読んだ。文字は少し薄くなっていた。それでも、読めた。
トーレとネロの下には何もない。二人の体は北の丘に置いてきたままだった。オルトの下には、焦げた槍の穂先が一本。
ユーリだけがここに眠っていた。リアムが砂漠の窪地から背負って帰ってきたからだ。
そのリアムが最初に動いた。
背中の荷を下ろした。口を開けて中から何かを出した。
風車だった。三本。
それから、丘を下りていった。馬車の幌の柱からもう一本を抜いて戻ってきた。
四本。
出発の前の日、フィールに荷を開けられた時、底の方に入っていた四本だった。
蓮はあの時、なぜ四本なのかを考えなかった。数えただけだった。
リアムは一本ずつ、墓標の根元に挿していった。トーレ。ネロ。オルト。
ユーリの前で、少し長くしゃがんでいた。
「……よう」
リアムは言った。いつもの声より、ずっと小さかった。
「遅くなった。一年だ。悪い」
風が吹いた。四本の風車がからからと回り始めた。
「俺な、盾、張れるようになったぞ」
リアムは墓標に向かって、拳を握ってみせた。
「握るだけで出るやつだ。お前が見たら、笑うだろうな。十二も数えてた俺がよ」
誰も、何も言わなかった。
「ロイの背中にも、張ってやった。……お前の背中には、間に合わなかったけどな」
声がそこで詰まった。リアムは鼻をすすった。乱暴に袖で顔を拭いた。
「槍、ちゃんと持ってるか。向こうでも、手放してねえだろうな」
立ち上がろうとして、立ち上がれずにいた。
その肩の横に瓶が一本差し出された。
布にくるんだあの瓶だった。フィールが持っていた。
リアムは瓶を見た。フィールを見た。
「……没収、したろ」
「したわ」
フィールは言った。
「旅の無事を祈る水、だったわね」
「……」
「ここまで、無事に着いたわ。祈る相手はここにいるでしょう」
リアムの口が開いた。何も出てこなかった。
瓶を受け取った。手が震えていた。
「……知ってたのかよ」
「風車が四本。椀が五つ。お酒が一本」
フィールは小さく息を吐いた。
「数えるのは、蓮だけじゃないわ」
椀が五つ。
蓮はそこで初めて気づいた。
――割れた時のために。
リアムはそう言った。
一つは、自分の分。
四つは。
リアムは荷から椀を出した。四つ、墓標の前に並べた。栓を抜いた。一つずつ、注いでいった。
ユーリの椀にだけ、なみなみと。
「こいつ、酒だけは強かったんだ」
リアムは泣きながら笑っていた。
「槍と酒だけは、誰にも負けなかった」
五つ目の椀に残りを注いだ。ユーリの椀に、こつん、と当てた。
一息に飲み干した。
ロイが黙って隣にしゃがんだ。リアムの背中に手を置いた。治ったばかりの手だった。
ヴァイスは墓標の後ろに回っていた。伸びた草を素手で抜いていた。一本ずつ。根から。誰かが刈った所のもう一回り外まで。
一度も顔を上げなかった。
ミラは四つの墓標の前に順番に立った。一つの前で指を一本折った。次の前でもう一本。
四本。
声には出さなかった。唇だけが動いていた。
ベルはユーリの墓標の前にいた。
他の三人をベルは知らなかった。ユーリのこともほとんど知らなかった。砂漠で会って、いくらも経たないうちに、その人はベルの前に立って、動かなくなった。
ベルは墓標を睨んでいた。怒っているような顔だった。怒っていなければ、立っていられない顔だった。
「……あたし、まだ生きてるわよ」
小さな声で言った。
「あんたが、庇ったから」
拳が体の横で握られていた。
「だから、返す。あんたには返せないから、他の誰かに。……今度は、あたしが前に立つ番だから」
それだけ言って、ぷいと横を向いた。頬が、濡れていた。
誰も、見ないふりをした。
蓮は紙を四枚出して、折った。四羽。一羽ずつ、風車の根元に置いた。
それから、古い帳面の写しを開いた。折りたたんだ紙に、四つの名前と、日付と、場所が書いてあった。
北の外壁沿い。北の丘。サナトリアの北門。北の外周の砂漠。
――あの人たちが何をしたか。何人いたか。俺が忘れたら、誰も覚えてない。
ヤヌスにそう言った。
あれは半分だけ違っていた。
ここにいる七人は、誰も忘れていなかった。
フィールが四つの墓標の前に立った。
一年前、この丘で、フィールは口を開いて、閉じて、何も言えなかった。言葉の代わりに土をすくった。
今日は土をすくわなかった。
背筋を伸ばした。胸の徽章に、右の拳を当てた。
「トーレ」
まっすぐな声だった。
「ネロ」
一人ずつ。
「オルト」
間を置いて。
「ユーリ」
号令をかける時と同じ声だった。違うのは、誰も答えないことだけだった。
「報告します」
フィールは言った。
「特務班は七人になりました。あなたたちの後に、欠けた者はいません」
風車が、回っていた。
「ヨルの村で悪魔を一体、討ちました。攫われた者は、零です。死んだ者も、零です」
声が、少しだけ揺れた。揺れたまま続けた。
「あなたたちが盾になって開けた窓を、私たちは今も使っています。石ができました。握るだけで、火と盾が出ます。あの時にあれば、と、毎晩思います」
フィールは、目を閉じた。
開けた。
「号令は、今もかけています。二度とかけないと、ここで言いました。……嘘をつきました。ごめんなさい」
ロイが俯いた。ミラの唇が、止まっていた。
「これから、十三の国を回ります。あなたたちの名前は、私が持っていきます。数は、蓮とミラが持っていきます」
拳が徽章の上で、強く握られた。
「帰りに、また寄ります。その時も、七人で」
それで、終わりだった。
フィールは拳を下ろした。誰も動かなかった。
草の音と、風車の音だけがしていた。からから、からから、と。四つとも、同じ速さで回っていた。
日が、傾き始めていた。
丘の下の道に人影が二つ、見えた。ゆっくりと上ってきた。
白い長衣の小柄な老人だった。白い髭が風に揺れていた。その隣で、少女が老人の肘を支えていた。腕に花を抱えていた。
墓標の根元にあった乾いた花と同じ花だった。
草を刈っていたのが誰だったのか、蓮には分かった。
老人は丘の上の七人を見た。回っている四本の風車を見た。皺の深い顔がゆっくりとほころんだ。
「お帰りなさい」
サナトスは言った。ようこそ、とは言わなかった。
「皆様、よくお戻りになりました」
フィールが拳を胸に当てた。皆がそれに続いた。
老人の後ろで、少女の目が、もう赤くなっていた。
丘の上に、五本目の風車はなかった。
蓮はそれを数えた。
これから先も、ずっと四本のままにする。
そのために、十三の国を回るのだと思った。




