白い布
塔を発った朝、馬車は国境を越えた。
街道の脇に石の柱が一本立っていた。こちら側に翼を広げた鳥の紋。向こう側に花の紋。それだけだった。壁も、堀も、なかった。
「……これで、別の国?」
ベルが荷台から身を乗り出した。
「柱一本じゃない」
「国と国の間に、壁を置く理由がないもの」
フィールが言った。
「壁が要るのは、砂漠の側だけよ」
柱を過ぎて半刻ほどで、関所が見えた。街道をまたぐ木の門。その前に兵が四人立っていた。
四人とも左の腕に白い布を巻いていた。
蓮はその布を覚えていた。北の外壁で、一行を出迎えた若い兵の腕にも同じ布があった。回復の国の兵の印だった。
兵たちは馬車の幌を見上げた。三百十二羽の紙の鳥を。それから、フィールの胸の徽章を。
「『移動』の方々ですか」
年かさの兵が進み出た。
「第二部隊、フィール。当主キネシス様の名代として、サナトス様のもとへ参ります」
兵はフィールの顔を見た。それから、荷台の顔を端から順に見た。
ロイ。ヴァイス。ミラ。リアム。
蓮の所で目が止まった。
「……北門の」
兵は言った。
「サナトリアの北門でうちの者と並んで立ってくださった方々だ」
後ろの三人が顔を見合わせた。
「私の甥が、あの時、外壁の警備隊におりました。帰ってきて、言っておりました。『移動』の従士が、最後まで逃げなかった、と」
兵は右の拳を左の胸に当てた。白い布が朝の風に揺れた。
「お通りください。町の施療院には、もう知らせを走らせます。お怪我の方がおいでのようだ」
目が、ロイの両腕の布を見ていた。
「……見ただけで、分かるのか」
ロイが言った。
「回復の国の兵ですので」
年かさの兵は初めて少し笑った。
国境の町は小さかった。通りが二本。井戸が三つ。
町の真ん中に白い壁の建物があった。施療院だった。
ロイは寝台に座らされていた。向かいに小柄な老女が腰かけていた。腕に、やはり白い布。手のひらに小さな石を載せていた。
「筋を三本。それと、肘の中に小さな裂け目」
老女はロイの腕に触れもせずに言った。
「重いものを、高い所から受けたね」
「……子どもを一人」
「そりゃあ、腕の一本や二本、安いもんだ」
老女は石を握った。ロイの腕の上に、手をかざした。
淡い光が布の上から染みていった。十、数える間もなかった。
「はい。布を取っていいよ」
ロイはおそるおそる布をほどいた。右腕を曲げた。伸ばした。拳を握った。開いた。
「……痛くねえ」
「三日は重いものを持たないこと。治ったのは筋で、癖は治ってないからね」
老女は石を小さな箱に戻した。
「体は治せるんだよ。体は、ね」
独り言のような声だった。蓮はその言い方が少し耳に残った。
リアムが背負っていたロイの荷をどさりと床に下ろした。
「よし。パンの礼は、ここまでだ」
「三日は持つなって言われたぞ」
「聞こえなかった」
「聞こえてたろ」
ヴァイスが黙ってロイの荷を持ち上げた。自分の小さな荷と一緒に片方の肩に担いだ。そのまま、何も言わずに出ていった。
ロイとリアムは、顔を見合わせた。
「……あいつ、いい奴だよな」
「今ごろ気づいたのか」
施療院の奥に寝台がもう二つ埋まっていた。
一つには、足を吊った若い兵。もう一つには小さな男の子が寝ていた。五つか、六つ。額に濡れた布を載せて、ぐずぐずと泣いていた。
「熱だよ」
老女が言った。
「石で下げるほどじゃない。寝てれば治る。ただ、母親が畑に出ててね」
ベルがその寝台の前で足を止めていた。
男の子はベルを見上げた。泣きながら手を伸ばした。
ベルは困った顔をした。きょろきょろと周りを見た。誰も助けてくれないと分かると、おずおずとその手を握った。
「……な、何よ。泣かないでよ」
男の子はぐず、と鼻を鳴らした。ベルの指をぎゅっと握った。
泣き声が少しずつ小さくなった。やがて、止んだ。寝息に、変わっていた。
「あら」
老女が目を丸くした。
「朝から誰が抱いても泣き止まなかったのに」
「し、知らないわよ。勝手に寝たのよ、この子が」
ベルは小声で言った。手は離さなかった。離せないまま、寝台の縁にそっと腰を下ろした。
蓮は紙を一枚出して、折った。男の子の枕元に鳥を一羽置いた。
目が覚めた時に見えるように。
町の鳥舎は関所の裏にあった。
蓮宛ての紙が一通、届いていた。塔から飛ばした報せへの返事だった。迷いのない、短い字だった。
――線の件、読んだ。
――ヘルガに見せた。泣いた。二度目だ。
――交わる所へは、行くな。私が行けと言うまで、誰も近づけるな。
――他の塔の日誌を集めさせている。線を、三本目、四本目と増やす。
――東は静かだ。篝火、零。
――都の子どもが、鳥の続きを折っている。四百を越えたそうだ。数えに帰れ。
署名はなかった。なくても、誰の字かは分かった。
蓮は最後の一行を二度読んだ。それから、紙をたたんで帳面に挟んだ。
「何て?」
フィールが訊いた。
「東は静か。線は増やす。交わる所へは、まだ行くな」
「そう」
「それと、鳥が四百を越えた」
フィールは瞬きをした。それから、口元を押さえた。
「……キネシス様が、それを書いたの」
「書いてある」
「あの方が、子どもの鳥の数を」
フィールは少しの間、肩を震わせていた。笑い終えると背筋を伸ばした。
「行きましょう。もう一つ、用があるわ」
関所の詰所で年かさの兵はフィールの話を黙って聞いた。篝火の決まりのことだった。
外れの村に火の台を置く。悪魔を見たら火を焚く。一体なら、一つ。三体なら、三つ。火を見た隣の村が、同じ数だけ焚く。そうやって、数が館まで届く。
「『移動』の東の村では、これで間に合いました」
フィールは言った。
「攫われた者は、零です。回復の国の北の村々にも、同じ決まりを置いていただきたいのです。国が違っても、火の数の意味が同じなら、隣の国の村も助けに動けます」
兵は頷きながら聞いていた。聞き終えて穏やかに笑った。
「ありがたいお話です。サナトス様にも、必ずお伝えします」
「お願いします」
「ただ」
兵は少し首を傾げた。
「そこまで、要りますかな」
フィールの眉が動いた。
「悪魔は遠い話でしょう。北の村のことも、もう一年も前の古い話だ。貴族様方が守ってくださる。『移動』のご当主は先日も悪魔を砂にされたと聞きました」
にこにこと、笑っていた。
北門で甥が戦った、と言った男だった。『移動』の従士が最後まで逃げなかった、と言った男だった。
その同じ口が、遠い話でしょう、と言っていた。
蓮は広場の白い衣を思い出していた。
――悪魔は、遠い。
――夜は、安らかに眠りなさい。
あの声は、十四の国を全部回る。この町にも、もう来たのだ。
フィールは蓮を見なかった。胸の徽章に指を当てた。
「それでも、置いてください」
静かな声だった。
「これは『移動』の当主キネシス様の願いです。名代として、お願いします」
兵は徽章を見た。笑みが少しだけ改まった。
「……承りました。台だけは、すぐに組ませましょう」
「ありがとうございます」
詰所を出ると日が傾いていた。フィールはしばらく黙って歩いた。
「蓮」
「うん」
「あの人、嘘はついていなかったわね」
「ついてない」
「北門のことを覚えていた。感謝もしていた。それなのに」
フィールは言葉を探していた。
「怖がって、いなかった」
「うん」
「台は置いてもらえる。でも、火を焚く人が怖いと思っていなかったら」
その先は、言わなかった。
蓮は帳面を開いた。歩きながら書いた。
国境の町。
ロイの腕。治った。
都の鳥、四百。
篝火の決まり。置けた。
その下に、もう一行。
怖さは、置けなかった。
施療院の前を通ると、窓の中に、ベルが見えた。寝台の縁に座ったまま、舟を漕いでいた。小さな手が、まだその指を握っていた。
枕元で、紙の鳥が、夕日を受けていた。
サナトリアまで、あと三日だった。




