二本の線
四日目の夕方、塔が見えた。
街道の脇の丘の上に石の塔が一本立っていた。国境の監視塔だった。ここから半日で「移動」の国は終わる。その先が回復の国だった。
馬車が丘を上りきる前に塔の門が開いた。兵がばらばらと出てきた。十人と少し。
先頭に白髪まじりの男がいた。片方の足を少し引きずっていた。
男は馬車の幌を見上げた。三百十二羽の紙の鳥を。それから、御者台の横に立つフィールを見た。その胸を。
男の足が止まった。
「……その印は」
かすれた声だった。
フィールは馬車を下りた。右の拳を左の胸に当てた。徽章のすぐ隣に。
「『移動』の第二部隊、フィール。当主キネシス様の名代として、回復の国へ向かう途中です。一晩、塔をお借りしたい」
男は答えなかった。徽章を見ていた。翼を広げた鳥。縁に細い線が一本。
男の膝が砂についた。後ろの兵たちが慌てて同じように膝をついた。
「立ってください」
フィールが言った。
「私は貴族付きではありません。名代として、お借りしているだけです」
「存じております」
男は顔を上げた。目の縁が赤かった。
「その線は、イライザ殿の印です。あの方は、毎年ここへ来られた。先代のお供で、国境を見て回られる時に」
フィールの肩が小さく動いた。
「来るたびに、塔の兵の名を訊かれた。一人残らず。次の年に来られた時、あの方は全員の名を覚えておられた。前の年に入ったばかりの若い者の名まで」
男は立ち上がった。引きずる足で一歩、前へ出た。
「エスクーダの後、ここには誰も来ておりません。貴族付きの席は空いたままだと鳥で聞きました。……その印を着けた方が、この塔の門をくぐるのは、一年ぶりです」
フィールはしばらく黙っていた。胸の徽章に指が触れかけて止まった。
「塔長」
「は」
「お名前を」
男は瞬きをした。
「……ドルフ、と申します」
「ドルフ塔長」
フィールはその後ろの兵たちを見た。
「皆さんの名も、聞かせてください。一人ずつ」
兵たちは顔を見合わせた。端の若い兵がおずおずと口を開いた。一人。また一人。
十二人。
蓮は数えていた。名前も頭の中に並べていた。
だが、フィールは一度も蓮の方を見なかった。
十二人目が名乗り終えた時、フィールは端から順に名を呼んだ。
一人も間違えなかった。前の年に入ったばかりだという若い兵の名も。
ドルフの口が小さく開いた。それから、深く頭を下げた。
「……塔を、お使いください」
ベルが蓮の袖を引いた。
「ねえ。フィール、いつの間にあんなことできるようになったの」
「前からだよ」
蓮は言った。
「号令をかける人は、誰に向かってかけるのかを、覚えてる」
塔の二階に記録の部屋があった。壁の棚に革の表紙の日誌が並んでいた。
「見張りの日誌です」
ドルフが言った。
「塔から見えたものを毎日書きます。天気。街道を通った荷。それから、魔物」
「魔物は、どう書くんですか」
蓮が訊いた。
「見えた日と、数と、来た方角を。この塔は、外周の砂漠にも面しておりますので」
蓮はヘルガの地図の写しを広げた。赤い点と、扇の線。
「十年分、見せていただけますか」
「十年分」
ドルフは少し呆れたように笑った。
「構いませんが。夜が明けますぞ」
「二人でやります」
蓮は振り返った。ミラがもう一冊目を棚から抜いていた。
卓に灯りを二つ置いた。ミラが読んだ。蓮が書いた。
「サンドウルフ、六。東南東」
「東南東」
「スコーピオン、一。東南東」
「東南東」
「サンドウルフ、九。南」
「南」
ミラの声は小さくて平らだった。一度も、詰まらなかった。頁をめくる指が、灰色に汚れていた。
蓮は方角ごとに、升目に線を引いていった。一本。二本。三本。四本。五本目は、斜めに。
リアムが扉から顔を出した。
「飯だぞ」
「後で」
「お前ら、二人並ぶと怖えな」
扉が閉まった。ミラは顔も上げなかった。
「サンドワーム、一。東南東」
「東南東」
一冊。二冊。灯りの油を、一度足した。
十冊目の最後の頁をミラが閉じた。蓮は升目を数えた。
「魔物が見えた日。十年で、二百四十一」
「うん」
「東南東が、百九十三。南が、三十一。東が、十四。あとは、ばらばら」
ミラは升目を覗き込んだ。
「……八割」
「八割が、同じ方から来てる」
蓮は地図に定規を当てた。この塔の場所に点を打った。そこから、東南東へまっすぐに線を引いた。
線は地図の端へ向かって伸びていった。
そして。
都から伸びる扇の線と。
地図の端の少し手前で。
交わった。
蓮の手が、止まった。
ミラの息も、止まっていた。
二本の線が、一つの点で重なっていた。
外周の砂漠のずっと奥。
紙の、いちばん端。
「……一つの所から、来てる」
ミラが言った。ヘルガと同じ言葉だった。
「都から見ても。ここから見ても。同じ所」
蓮はその点に、小さな丸を描いた。
一本の線なら方角しか分からない。二本あれば場所が決まる。
日本にいた頃、何かで読んだ。船が自分の居場所を知るやり方だった。
「十年分、二人で数えた」
蓮は帳面に書いた。
――国境の塔。魔物、二百四十一。東南東、百九十三。
――都の線と、交わる。
――ミラと数えた。
ミラは最後の一行を見ていた。何も言わなかった。
灰色の指先で、紙の上の丸をそっと押さえた。
夜の塔の上は風が強かった。かがり火がごうごうと鳴っていた。
フィールは胸壁に手を置いて、東南東を見ていた。蓮が示した方角だった。
闇しかなかった。砂丘の稜線が星明かりにかすかに浮いているだけだった。
「あそこに、何かがあるのね」
「たぶん」
蓮は隣に立っていた。
「魔物の、出てくる所が」
「誰も、見たことがないのに」
「誰も、行かないから」
――海へ近づこうという気が起きない。
キネシスはそう言った。
あの点は砂が終わる所のすぐ手前にあった。誰も近づかない所に、魔物の出てくる所がある。
それは、偶然なのか。
蓮は口には出さなかった。
「あなたが見に行く端は、あそこ?」
フィールが訊いた。
「そのうちの、一つだと思う」
「そのうちの」
「十四の国に、一つずつあるなら」
フィールは蓮を見た。それから、また闇を見た。
「十四」
小さく繰り返した。
「回る理由が、また増えたわね」
「五つ目だ」
「数えなくていいって、言われたでしょう」
フィールは少しだけ笑った。胸の徽章がかがり火を映して揺れていた。
「さっきの」
蓮は言った。
「名前。一度で、全部」
「……見てたの」
「見てた」
「イライザさんの真似よ」
フィールは胸壁の石を指でなぞった。
「あの人がしていたことを、聞いたから。同じ印を着けて、同じ門をくぐったなら、同じことをしなければと思っただけ」
「俺の方は、見なかったな」
「見たら、あなたが覚えているのを当てにしてしまうもの」
フィールは蓮を見ずに言った。
「数えるのは、あなたとミラに預ける。でも、名前を呼ぶのは、私の仕事よ」
風が外套をはためかせた。蓮は頷いた。
塔の下の鳥舎から、灰色の鳥が一羽、飛び立った。最初の報せだった。
――十日に一度。何もなくても、何もないと書け。
一通目に書くことは、もう、何もないではなかった。
鳥は、都の方へ、夜の空を越えていった。
東南東の闇は、何も言わずに、そこにあった。




