悪魔
ホーンラビットを狩った日から数日後、小隊に次の任務が下りた。
国境沿いの集落で、家畜が次々に殺されている。ここ十日ほどで、村人も三人いなくなった。何がやっているのかを確かめて、できるなら片付けてこい、という任務だった。
ロイが言っていた集落だった。
「家畜は殺されて、そのまま。なのに、人だけが消えてる」
道中、フィールが歩きながら言った。
眉を寄せていた。
「何か、引っかかるのか」
「魔物なら、まず家畜を食べるわ。それに、傷口が綺麗すぎるの。噛みちぎったんじゃない。刃物で切ったみたいに」
フィールはそれきり黙った。
剣の柄に置いた手に、力が入っていた。
小隊はこの前と同じ十五人だった。ダインもヴァイスもいた。魔法を使える者も一人いた。第四部隊で習って、火の球を撃てるのだという。
十五人いれば大抵の魔物は何とかなる、とダインが言った。
蓮もそう思っていた。
集落で被害を確かめてから、その夜、小隊は森の外れに潜んだ。何かが出るのはいつもそのあたりだと、村の者が言っていた。
十五人が、月明かりの下で息を殺した。
誰も口をきかなかった。夜風が梢を揺らした。遠くで虫が鳴いていた。
自分の心臓の音が、うるさかった。
何を待っているのかも分からないまま待つのは、蠍に追われるより疲れた。
そして。
それは、前触れもなく現れた。
人の形をしていた。
人ではなかった。
黒い肌。赤く光る目。背中から伸びた、歪な翼。
森の外れの空き地に立って、こちらを見ていた。
見ていた、と蓮には分かった。暗がりに潜んだ十五人を、一人ずつ。
「フィール」
「……悪魔」
フィールの声がかすれていた。
「話でしか聞いたことがない。でも、間違いない。……国境に出るような奴なら、下級でしょうけど」
フィールは息を吸った。
「戦っちゃ駄目。全員、今すぐ引くわよ。音を立てずに、急いで集落まで」
迷いのない声だった。
小隊が、踵を返そうとした。
その瞬間。
悪魔の姿が、消えた。
ドッ!!
一番端にいた隊員の体が、宙を舞った。
ドガッ!!
バキィッ!!
二人目。
三人目。
悲鳴も上がらなかった。木の幹に叩きつけられる音。地面にめり込む音。骨の砕ける音。それだけが、立て続けに闇を裂いた。
「撃て!! 撃てぇっ!!」
誰かが矢を放った。
カンッ。
弾かれた。
魔法を使える隊員が、両手を突き出した。手の先に、赤い光の陣が浮かんだ。一つ。二つ。三つ。数えるほどの間をかけて陣が閉じ、火の球が放たれた。
ボウッ!!
当たった。
炎は悪魔の肌の上で、霧のように散った。
焦げ跡一つなかった。
次の瞬間、その隊員の首が、あり得ない方を向いていた。
「あああああああっ!!」
誰かが剣を振りかぶって突っ込んだ。
ガキィンッ!!
刃が弾かれた。岩を斬りつけたような音だった。
矢も。
魔法も。
剣も。
何一つ、効かない。
瞬き数回の間だった。
十五人いた小隊の、ほとんどが地に伏していた。
立っているのは、蓮と、フィールと、ヴァイスと、もう一人。
四人。
蓮は数えていた。
数えたくなかった。
夕方、広場でフィールが一人ずつ数えた十五の顔が、浮かんだ。
悪魔がゆっくりとこちらへ向き直った。
笑っていた。
爪の先から、赤黒いものが滴っていた。
「くっ……!!」
蓮は剣を構えた。
次の瞬間、景色が真横に流れていた。
ザッ!!
脇腹を何かが掠めた。
そう分かったのは、地面に叩きつけられてからだった。焼けるような痛みが走った。息を吸うたびに、裂けた脇腹から痛みが突き上げてきた。目の端が赤く滲んだ。
それでも、蓮は立った。
立たなければ。
次に狙われるのは――。
「フィール!!」
悪魔の間合いに、フィールがいた。
フィールが剣で受けた。
ガキンッ!!
剣が、紙切れのように弾き飛ばされた。
フィールの体勢が崩れた。
悪魔の爪が、振り上がった。
――駄目だ。
頭の中が、真っ白になった。
あれが当たれば、フィールは死ぬ。
砂漠で、見ず知らずの自分を拾ってくれた人が。
貴重な石を一つ使って、跳んできてくれた人が。
今、目の前で。
――何とかしないと。
――何とか。
――何とか、何とか、何とかしないと!!
考えにもなっていなかった。叫びだけが、蓮の中を駆け巡っていた。剣を握る手に力が入っているのかも分からなかった。
助けたい。
それだけだった。
勝てるかどうかも、自分がどうなるかも、全部吹き飛んでいた。
――届いてくれ。
――頼むから、届いてくれ!!
蓮は残った力を全部一振りに込めて、悪魔とフィールの間に飛び込んだ。
その瞬間。
パキィン。
何かが、弾けた。
目に見えるものではなかった。悪魔の体を包んでいた、硬い硝子のような何か。それが蓮の剣と触れた刹那、音もなく粉々に砕けた。
蓮はそれを、手のひらで感じた。
ザシュッ!!
刃が、通った。
「――は?」
声を漏らしたのは、悪魔だった。
自分の腕を見下ろしていた。
深い傷が一本、刻まれていた。
矢も、火も、剣も、何一つ通らなかった体に。
「……貴様、今、何を……」
悪魔の赤い目が、蓮を見た。
笑っていなかった。
しばらく、蓮を睨んだまま動かなかった。
やがて舌打ちを一つ残すと、翼を大きく広げて、夜の闇へ消えた。
追う力は、蓮にもフィールにも残っていなかった。
静かだった。
虫の声も、もう聞こえなかった。
「……蓮」
フィールが、掠れた声で言った。
蓮を見ていた。
助かったという顔ではなかった。
分からないものを見る顔だった。
ほんの少しだけ、怖がっている顔だった。
「今の……何」
「……分からない」
蓮は自分の右手を見下ろした。
剣を握ったままだった。指が、柄から離れなかった。
何かが、この手で起きた。
それだけは確かだった。
何が起きたのかは、分からなかった。
手のひらに、氷が砕けるような感触だけが残っていた。
どれだけ握り直しても、消えなかった。




