十三の行
ヘルガは泣いていた。
第四部隊の卓の上に革袋が一つ置いてあった。口が開いていて、中の黒い砂が灯りを吸い込むように沈んでいた。
「もう、二度と、手に入らないと思ってた」
ヘルガは袖で顔を拭った。拭ってもすぐに濡れた。
「粉で刻むたびに、半分漏れるのを見て。先生に読む目は三流だって言われて。それでも、砂さえあればって、毎晩」
「ヘルガさん」
「分かってる。泣いてる暇はないのよね。分かってるの」
ヘルガは鼻をすすった。それから、砂を小さな匙で量り始めた。泣きながら、一粒もこぼさなかった。
「火の石なら、十二。盾の石は、上級の石が要るから、二つが限度。……三日で、ミラと二人で刻めるのは、火が九つと、盾が一つ」
「十です」
ミラが卓の向かいで言った。もう、鑿を握っていた。
「寝なければ」
「寝なさい。旅の前でしょう」
「……九つ」
ミラは少しだけ不満そうに言い直した。
蓮は帳面に書いた。
砂の火の石、九。砂の盾の石、一。同盟の三家に、火を二つずつ。六。残りの三つは、特務班に。盾の一つは、行った先で決める。
「それから、これ」
ヘルガが壁の一角を指した。
設計図の壁ではなかった。その隣の古い地図だった。「移動」の国とその外の砂漠が描いてあった。地図の上に小さな印が、いくつも打ってあった。赤い点。
「大物の核が取れた場所。先生が塔へ行く前から、ずっとつけてるの。この十五年で、百と少し」
蓮は地図の前に立った。数えた。
百七。
点はばらばらではなかった。国の内側にはほとんどなかった。外周の砂漠に散っていた。
散っているように、見えた。
蓮は一歩下がった。もう一歩。地図の全体が目に入った。
点は、扇の形をしていた。
国に近い側は、広く、まばらだった。外へ行くほど、狭く、濃くなっていた。
扇の要は、地図の端より、まだ先にあった。南東。紙の外。
「……ヘルガさん」
「何」
「魔物は、砂漠で生まれるんですよね」
「そう言われてるわね。どこで、どうやって生まれるのかは、誰も見たことがないけど」
「砂漠の、どこででも?」
ヘルガは、蓮の隣に来た。蓮の指が点を外側へたどっていくのを見た。
一つ。また一つ。全部が、同じ方へ寄っていった。地図の端で指が止まった。その先には紙がなかった。
ヘルガの口が小さく開いた。
「……十五年、毎日、見てたのに」
「前にも、聞きました。それ」
「うるさいわね」
ヘルガは涙の残った顔で蓮を睨んだ。それから、地図に向き直った。もう、泣いていなかった。
「どこででも生まれるなら、こうはならない。……一つの所から、来てる」
「この地図は、この国の分だけですよね」
「ええ」
「他の国には」
ヘルガは蓮を見た。蓮もヘルガを見た。同じことを考えていた。
十四の国はどれも外周の砂漠に面している。どの国の第四部隊にも、こういう地図があるなら。
「……十三」
蓮は言った。
「回ってきます」
「魔物の、出所か」
キネシスは蓮の写してきた地図を見下ろしていた。赤い点と、蓮が引いた扇の線。線は紙の端で途切れていた。
「あの方は、悪魔の出没と各国の備えを調べよ、と言った。魔物のことは、言っていない」
「はい」
「言われていないことを調べるのは、こちらの勝手だ」
キネシスは地図を机の端に寄せた。三冊の報告書の隣に。
「用が、一つ増えたな。石。篝火。国の端。それに、各国の核の記録」
「四つです」
「数えなくていい」
青年は引き出しを開けた。小さな布の包みを出した。机の上に置いて、フィールの方へ押した。
「フィール」
「はい」
「開けろ」
フィールは包みをほどいた。
銀の徽章だった。翼を広げた鳥の形。「移動」の紋だった。従士の外套についているものより、ひと回り大きかった。縁に細い線が一本彫り込んであった。
フィールの手が止まった。
「……これは」
「貴族付きの徽章だ」
蓮は息を止めた。
「イライザのものだ。エスクーダから、これだけが戻ってきた」
フィールは徽章に触れなかった。触れられずに、いた。
「私には」
「貴族付きにする、とは言っていない」
キネシスは言った。
「あの席は、まだ空けておく。お前たちを館の内に置く気も、ない。お前たちは、外で戦う者だ」
指を組んだ。
「だが、これから行く先は、よその家だ。当主に会い、継承候補に会う。ただの従士の一隊が、他家の当主に物を言うことはできない」
「……はい」
「それを、着けていけ。『移動』の当主の名代として。お前の言葉は、私の言葉として聞かれる」
フィールは徽章を見下ろしていた。長い間。目の縁が少しだけ赤かった。
「イライザさんは、私に、初めて剣を褒めてくださった方です」
「知っている」
「私が、これを」
「先代は、二人しか選ばなかった。私は、まだ一人も選べていない」
キネシスは窓の方を見た。
「だから、貸すだけだ。帰ってきたら、返せ。……全員で、返しに来い」
フィールは徽章を取った。両手で。外套の胸に当てた。留め金が小さく鳴った。
「お預かりします」
声は震えていなかった。震えないようにしていた。
「キネシス様は」
蓮が訊いた。
「私は、残る」
青年は言った。
「東の篝火は、私がいなければ意味がない。お前たちが十三の国を回る間、ここを空けるわけにはいかない」
机の上に石が一つ置かれた。下級の石の、三倍はある石だった。
「上級の『移動』の石だ。伝令の最後の区間にしか使わせない石だが、一つだけ持たせる」
フィールが息を呑んだ。
「握れば、見えている所へ跳べる。七人まとめて跳べば、一度だ。……逃げる時に使え。逃げる時にだけ、使え」
「はい」
「報せは、鳥で送れ。どの国の館にも、町にも、鳥舎がある。十日に一度は、必ず飛ばせ。何もなくても、何もないと書け」
蓮は、石を受け取った。ずしりと、重かった。
一度きりの、帰り道だった。
「返事は、お前たちの次の行き先の鳥舎へ送る。だから、道順を変える時は、先に報せろ」
「はい」
「それから、蓮」
「はい」
「当主たちは、お前を知らない。サナトス殿、テルモ殿、タイタン殿を除いては。……数えるのは構わない。だが、数えていることを、あまり見せるな」
キネシスの口の端がわずかに上がった。
「あれは、よその者が見ると、少し怖い」
「……気をつけます」
フィールが小さく吹き出した。胸の徽章が、灯りを受けて光った。
その夜、井戸のそばで蓮は新しい帳面を開いていた。一から十三まで、数字だけが並んだ頁。その横に国の名を書いていった。
一。回復。
二。炎氷。
三。雷撃。
四。明暗。
五。水。
ペンがそこで少し止まった。
十三のうち、三つは、こちらの味方だった。二つは向こう側、残りは、どちらとも分からなかった。
歩かせたい者と。歩いた分だけ数えて帰る者と。
同じ道を、同じ足で歩く。
蓮は続きを書いた。十三まで埋めた。
その隣の頁に、持っていくものを書いた。
砂の火の石、九。砂の盾の石、一。
粉の石。六角の盾の石。
上級の移動の石、一。逃げる時にだけ。
ゼノの粉と、枠。
白い貝殻。
それから、少し考えて、もう一行。
紙。上質のもの、一束。
十三の国の子どもに折ってやる分だった。
足音がした。フィールだった。外套の胸に、銀の徽章があった。
蓮の隣に腰を下ろした。しばらく、黙って井戸の水面を見ていた。
「国の、端」
フィールが言った。
「キネシス様が言っていたこと。蓮の目で見てこい、と」
「うん」
「何があるの」
蓮は帳面を見ていた。
――海よ。青くて、広いわ。
あの声が、まだ耳に残っていた。
「……口止めされてる」
蓮は言った。
「キネシス様に。フィールにも言うな、って」
フィールは蓮の横顔を見た。怒ってはいなかった。
「そう」
「ごめん」
「謝らなくていいわ。あの方がそう決めたのなら、理由がある」
フィールは水面に目を戻した。
「一つだけ教えて。それは、蓮が一人で抱えていて、大丈夫なもの?」
蓮は答えようとした。大丈夫だ、と言おうとした。
言えなかった。
「……分からない」
フィールは頷いた。
「なら、端へ行く時は、私も行く。見えなくても。隣には、立てるでしょう」
胸の徽章に指が触れた。
「名代だもの。あなた一人を、端に立たせるわけにはいかないわ」
蓮は何も言えなかった。ただ、頷いた。
井戸の水面に、星が映っていた。
やけに近い、星だった。
出発まで、あと二日だった。




