答えられない
執務室に、五人いた。
机の向こうにキネシス。その前にヤヌス。壁際に、蓮とフィール。扉の脇にはヴァイスが立っていた。剣の柄に手を置いたまま。
キネシスは長い間何も言わなかった。机の上で指を組んで目の前の男を見ていた。肩の裂けた外套はもう替えてあった。
「『門』の継承候補」
やがて、青年は言った。
「ヤヌス殿、と呼べばいいか」
「お好きなように」
「紙売りのヤンの方が、呼びやすかったのだが」
ヤヌスの口の端がわずかに動いた。
「私も、そちらの方が気に入っておりました」
「座れ」
「立ったままで」
「そうか」
キネシスは椅子の背にもたれた。
「一年前まで、私もそこに立っていた」
静かな声だった。
「先代の後ろに。背中に板を入れたような顔をして。何を命じられても、はい、と答えた」
ヤヌスは黙って聞いていた。
「当主の命を疑ったことは、一度もなかった。疑う前に、先代は死んだ」
キネシスの目がヤヌスを見た。
「お前は」
ヤヌスはすぐには答えなかった。喉が、一度動いた。
「……あります」
「何を」
「申し上げられません」
「なぜ」
「私は、『門』の家の者です」
ヤヌスは言った。声は震えていなかった。
「名を偽って、この都に入りました。その非は、認めます。斬られても、文句は申しません。ですが、当主を売ることは、できません」
フィールの眉が少し動いた。
キネシスは頷いた。
「売れとは、言っていない」
懐から帳面を出した。机の上に置いた。開かなかった。
「訊くだけだ。答えるかどうかは、お前が決めろ」
「……はい」
「何を調べに来た」
「蓮殿が、何者かを。なぜ、キネシス様がお側に置かれるのかを。帳面に、何を書いているのかを」
「分かったか」
「数を数え、紙を折る方です。お側に置かれる理由は、四日でよく分かりました。帳面には、舟の順番と紙の値と、私の嘘が五つ、書いてありました」
「そう報告するのか」
「そう報告します」
キネシスは蓮をちらりと見た。それから、ヤヌスに目を戻した。
「昨夜のことは」
「噂を、聞きました」
ヤヌスは言った。
「キネシス様が、ヨルの村で悪魔を討たれた、と」
「そうだ。私が討った」
執務室が静かになった。
ヤヌスの目がほんの一瞬だけ、蓮の右手に落ちた。剣だことペンのたこのある、手に。
すぐに、戻った。
「私は、戦いを見ておりません」
ヤヌスは言った。
「宿の窓から、塔の上の影を数えただけです。見ていないものは、書けません。……キネシス様が討たれた、と書きます」
見ていないものは書けない。
それは蓮の帳面の書き方だった。
キネシスもそれに気づいたようだった。指が机の上で一度だけ鳴った。
「もう一つ」
声が少し低くなった。
「お前の当主は、私に何を望んでいる」
ヤヌスの肩がかすかに強張った。
「従士一人を調べるために、継承候補を寄越した。メンタル殿は、二度、私の手を取ろうとした。……『門』は、『移動』をどうしたい」
蓮は息を止めた。フィールも動かなかった。
ヤヌスは、キネシスを見ていた。目を、逸らさなかった。逸らさないまま、長い間、黙っていた。
額に、汗が浮いていた。
「……答えられません」
かすれた声だった。
キネシスはその顔を見ていた。怒ってはいなかった。ただ見ていた。
それから、帳面を開いた。ペンを取って、書いた。蓮の位置から、その字が見えた。
――「門」は「移動」に何を望むか、と問うた。
――「門」の継承候補は、答えられないと答えた。何も望んでいないとは、言わなかった。
――移動のキネシス、自ら確かむ。
ヤヌスはその手元を見ていた。自分の言葉が紙になっていくのを。
「確かめた事実だけを書く。私の家の決まりだ」
キネシスは帳面を閉じた。
「お前は、嘘をつかなかった。それも、事実だ」
ヤヌスは何も言わなかった。ただ、小さく息を吐いた。
「帰れ」
キネシスは言った。
「お前をここに留めれば、門が開く。私は、まだあの方と事を構える気はない」
「……よろしいのですか」
「よその家の継承候補を斬った当主は、一人もいない。私が最初になる気もない」
青年は窓の外を見た。
「迎えが来るまでは、紙売りでいろ。水路までは、許す。それより内へは、入るな」
「はい」
「ヤヌス殿」
「はい」
「一つだけ、訊かずに言っておく」
キネシスは振り向かなかった。
「疑ったまま、はい、と答え続けるのは、疑わずに答えるより、ずっと重い。……私は、それを知らずに継いだ。お前は、知った上で継ぐことになる」
ヤヌスは長い間、その背中を見ていた。
それから拳を胸に当てた。
深く、頭を下げた。
夕方の水路に二人だけがいた。
少し離れた石の上にフィールが腰を下ろしていた。今日は腕を組んでいなかった。
ヤヌスは外套の内側から包みを出した。上質の紙が、一束。
「荷車に残っていた分です。紙屋は、今日で店じまいですので」
「八枚じゃ、足りないな」
「銀貨一枚から、でしたね」
ヤヌスは笑った。
「お代は結構です。今度こそ」
蓮は受け取った。いい紙だった。
「一つ、訊いてもいいですか」
「うん」
「なぜ、あの頁を見せたのですか」
蓮は水路を見た。
「隠すと、長引くから」
「長引く」
「前にいた所でも、調べに来る人がいた。隠すと、相手はもっと掘る。こっちも、隠すために嘘を重ねる。見せられるものを先に見せた方が、早く終わる」
それから、少し黙った。
「……それと、嘘をつくのは、もう十分やってる」
ヤヌスは蓮の横顔を見ていた。何に嘘をついているのかは訊かなかった。
「私は、あなたが何者かを調べに来ました」
「うん」
「四日では分かりませんでした。数を数え、紙を折る方だ、としか」
ヤヌスは手の中の風車を回した。指で、ゆっくりと。
「あなたは、何者なのですか」
任務の問いではなかった。ただ、知りたい、という声だった。
蓮は答えようとした。
答えが、なかった。
別の世界から来た。洗脳が効かない。砂漠の向こうに、何もないものが見える。窓のない殻を、この手が貫いた。
どれも、答えではなかった。答えの手前にある、数だった。
「分からない」
蓮は言った。
「俺も、それを調べてる」
ヤヌスは瞬きをした。それから、声を出して笑った。肩の力の抜けた笑い方だった。
「……それは、報告に書けませんね」
「書いていいよ。嘘じゃないから」
「では、書きます。本人にも分からないそうです、と」
風車が指の先で止まった。
「戻ったら、どうなるんだ」
蓮は訊いた。
「正体がばれた、って報告して」
「叱られはしません」
ヤヌスは言った。
「あの方は、笑う方です。笑って、面白いね、と言って、次の手を考える。……叱る方より、ずっと怖い」
「怖いな」
「ええ。とても」
日が傾いていた。水路の水が赤く光っていた。
「風車を、持って帰ってもいいですか」
「うん」
「鳥と、舟と、箱も」
「全部、持っていけ」
ヤヌスは風車を外套の内側にしまった。胸の、いちばん近い所に。
「あの頁は」
立ち上がりながら言った。
「嘘でない方の欄は、まだ下が空いていました」
「空いてる」
「六つ目を書いていただける時が、来るでしょうか」
蓮はヤヌスを見上げた。
背筋のまっすぐな男だった。
板が入っているのではなかった。そうやって立っていなければ、折れてしまうのだ、と思った。
「来いよ」
蓮は言った。
「次は、紙売りじゃなくていいから」
ヤヌスは答えなかった。答えられない、という顔だった。
それでも、頷いた。
一度だけ。
その夜、宿の二階の窓辺に灰色の鳥が戻っていた。
ヤヌスは足の筒から紙を抜いた。今度の紙は短かった。笑っているような字で、二行だけ。
――聞いたよ。キネシスが、悪魔を砂にしたんだって? 面白いね。
――夜明けに、広場へおいで。迎えに行く。
ヤヌスの指が止まった。
こちらの報告は、まだ送っていなかった。正体が露見したことも。帰れと言われたことも。あの方はまだ知らないはずだった。
それなのに、迎えに来る、と書いてあった。
噂の方が、先に届いていた。
ヤヌスは紙を机に置いた。
迎えに行く。
使いを寄越す、ではなかった。
あの方が、自分で、来る。
窓の外で、都は寝静まっていた。軒先で、紙の鳥が、夜風に揺れていた。




