六つ目
噂は、朝飯より早かった。
蓮が宿舎を出た時には、もう館の門番が知っていた。
「聞いたぞ。当主様が、悪魔を討ったそうだな」
市場を抜ける頃には、話が少し大きくなっていた。
「三体来たのを、お一人で砂にしたんだと。さすがは『移動』の当主様だ」
宿屋の前では、テオが飛びついてきた。
「兄ちゃん!! 兄ちゃんもお供したって本当か!? 悪魔、見たのか!?」
「誰から聞いた」
「皆言ってる!! 当主様が悪魔を砂にしたって!!」
テオは、目を輝かせていた。
蓮は、頷いただけだった。
討ったのは、当主だ。
ヨルの村を発つ前に、キネシスは皆にそう言い含めていた。
納屋の十四人は、扉の内側にいて、何も見ていない。
見ていたのは、入り口の従士四人と、特務班だけだった。
従士が悪魔を斬った。
その話が外へ出れば、なぜ人間の剣が通ったのかを、誰かが考える。
窓を覚えている者がいると、あの白い衣の女に知られる。
だから、斬ったのは当主でなければならなかった。
蓮の剣の先に残った、あの手応えは。
帳面の中にだけ、あればよかった。
通りの顔は、どれも明るかった。
怯えている者は、一人もいなかった。
悪魔は、遠い。
貴族様方が、守ってくださる。
巡回の言葉は、まだ半月しか経っていなかった。
その言葉の通りのことが、起きた。
人々は、そう受け取っていた。
喜んでいいことだった。
ヨルの村の納屋から出てきた十四人の顔を、蓮は覚えていた。
それでも、胸の奥に、小さな棘が残った。
この都の誰も、東の空を見上げていなかった。
館の裏手の鳥小屋の前で、ギードが伝書鳥を空へ放していた。
一羽。また一羽。
灰色の翼が、朝の空へ散っていった。
「各国への知らせだ」
蓮に気づいて、ギードは言った。
落ち着いた声だった。
「当主様のお手柄は、早く伝えた方がいい」
「……はい」
蓮は、頭を下げて通り過ぎた。
噂は、鳥よりも早く、国の外へ出ていくのだろうと思った。
稽古は、昼からになった。
フィールが、そう決めた。
水路の縁に、七人が座り込んでいた。
誰も、あまり喋らなかった。
リアムは、石にもたれて半分眠っていた。
ロイの両腕には、布が巻いてあった。子どもを受けた時に、筋を傷めていた。
ベルは、珍しく静かだった。
膝を抱えて、水を見ていた。
そこへ、ヤンが来た。
外套の前を、両手で押さえていた。
押さえた所から、細い枝の束が覗いていた。
「……多くない?」
ベルが言った。
「十二本あります」
ヤンは言った。
目の下に、濃い影があった。
寝ていない顔だった。
「削っておいてくれ、と書いてありましたので。……少し、削りすぎました」
蓮は、枝の束を見た。
どれも、同じ太さだった。
一晩かけなければ、削れない数だった。
なぜ一晩起きていたのかは、訊かなかった。
「ちょうどいい」
蓮は言った。
「八人いるから」
紙を、配った。
四隅から、真ん中へ向かって切れ目を入れる。
一つおきに、角を真ん中へ折り寄せる。
小さな釘で、枝の先に留める。
蓮の手の中に、四枚羽根の風車ができた。
「……で?」
リアムが、片目を開けた。
「回るのか、それ」
「風が吹けば」
皆が、空を見た。
風は、なかった。
水路の上の空気は、ぴくりとも動いていなかった。
「回んねえじゃねえか」
「走れば回る」
「走れるか。昨日の今日だぞ」
ミラが、立ち上がった。
何も言わずに、蓮の前に来た。
懐から、灰色の石を出した。
握った。
ふう、と。
ぬるい風が、そよいだ。
前髪を揺らすくらいの風だった。
蓮の手の中で、風車が、からからと回り出した。
「……おお」
ロイが言った。
ミラは、石を握ったまま、端から歩いた。
リアムの風車が回った。
ロイの風車が回った。
ヴァイスの。ベルの。フィールの。
ヤンの風車の前で、ミラは少しだけ長く立っていた。
からからから、と。
いちばんまっすぐな風車が、いちばんよく回った。
ヤンは、それを見ていた。
何も言わなかった。
口元が、ゆっくりと、ほどけていった。
「ミラの風は、蝋燭を消すためにあるんじゃなかったんだな」
リアムが、しみじみと言った。
ミラの手が、止まった。
「……なんで、知ってるの」
「は?」
「蝋燭」
「え、お前だったのか!? あれ!!」
笑い声が、上がった。
昨夜から初めての、笑い声だった。
ヤンも、笑っていた。
風車を持ったまま、背筋を伸ばして。
それから、ミラに向かって、頭を下げた。
「ありがとうございます。いい風でした」
きれいな礼だった。
背中に板の入ったような。
その時。
「――あ」
ベルの声だった。
小さな声だった。
蓮は、ベルを見た。
ベルは、風車を取り落としていた。
目を、いっぱいに見開いて、ヤンを見ていた。
「その礼」
立ち上がった。
「思い出した。二年前。お養父様の館に、お客が来たの。あたし、来たばっかりで、書庫の窓から覗いてた」
ヤンの顔から、笑みが消えた。
「白い襟で。背中に板が入ってるみたいにまっすぐで。お客様の後ろに、ずっと立ってた」
ベルの指が、ヤンを指した。
「あんた、あの時の。『門』の当主様の、後ろにいた人」
水路の縁が、静かになった。
風車だけが、まだ、からからと回っていた。
フィールの左手が、剣の柄に落ちた。
ヴァイスが、音もなく立ち上がっていた。
リアムは、口を開けたまま、ヤンとベルを見比べていた。
ヤンは、動かなかった。
否定しなかった。
逃げようともしなかった。
ただ、手の中の風車を見ていた。
回るのが、だんだん遅くなっていった。
止まった。
ヤンは、蓮を見た。
「嘘は、五つでした」
静かな声だった。
「六つ目は、つきたくありません」
風車を、石の上にそっと置いた。
立ち上がった。
外套の前を、合わせ直した。
右の拳を、左の胸に当てた。
従士の礼ではなかった。
貴族の家の者の礼だった。
「『門』の家の継承候補、ヤヌスと申します」
誰も、声を出さなかった。
「当主ゲートの命で、参りました。『移動』の従士、蓮殿を調べるために」
継承候補。
その言葉の重さを、蓮は知っていた。
いつか、「門」の当主になる者。
十四人の貴族の、次の一人。
「……紙屋の兄ちゃんが」
リアムが、かすれた声で言った。
「貴族様の、跡継ぎ……?」
「レンは、知ってたの」
ベルが、蓮を振り返った。
「紙売りじゃないことは」
蓮は言った。
「誰なのかは、知らなかった」
「斬る、と言ったわ」
フィールの声だった。
剣は、まだ抜かれていなかった。
「帳面に手を出したら、と」
「読みました」
ヤヌスは、目を逸らさなかった。
「石の上に置いてあった方を。一頁目から、五頁目まで」
フィールの目が、蓮に向いた。
「俺が、読ませた」
蓮は言った。
「読まれてもいいことしか、書いてない」
フィールは、長い息を吐いた。
柄から、手は離さなかった。
「……あなたは、本当に」
その先は、言わなかった。
ヤヌスは、蓮に向き直った。
「これから、当主キネシス様の所へ連れて行かれるのでしょう。その前に、一つだけ」
喉が、動いた。
「昨夜、宿の窓から、塔の上を見ていました。出ていく時に、八つ数えました。……夜明けに、また数えました」
蓮は、黙って聞いていた。
「八つ、ありました」
ヤヌスの声が、少しだけ揺れた。
「よかった、と思いました。声に、出ていました。……『門』の者が思っていいことでは、ありません。それでも」
まっすぐに、蓮を見た。
「それは、嘘ではありません」
水路の水が、石の間を流れていた。
蓮は、懐から帳面を出した。
五頁目を、開いた。
線の下の、嘘ではないものの欄。
ペンを取った。
皆の見ている前で、書いた。
――五つ目。八つ数えて、よかったと言った。
嘘が、五つ。
嘘でないものも、五つになった。
書き終えて、帳面を閉じた。
「書いた」
蓮は言った。
ヤヌスは、何か言おうとした。
言葉に、ならなかった。
ただ、もう一度、頭を下げた。
今度の礼は、どちらの礼でもなかった。
紙売りの礼でも。
貴族の家の礼でも。
足元の石の上で、まっすぐな風車が、風を待っていた。




