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三つの火

 火が三つなら三体。それが東の村々と決めた合図だった。


 キネシスは四度跳んだ。見張り塔。丘。枯れた林の縁。四度目に足の下が硬い土になった。ヨルの村を見下ろす岩の上だった。


 蓮は数えた。

 家が二十と少し。村の入り口で篝火が三つ燃えていた。その明かりの中に黒い影があった。


 一体目は、村の真ん中、井戸の真上の空にいた。翼を広げて家の屋根二つ分の高さに浮いていた。片腕に小さなものを抱えていた。

 子どもだった。泣き声が岩の上まで聞こえた。


 二体目は、村の北の端の大きな納屋の前にいた。両手で納屋の扉を殴っていた。扉の内側から何人もの悲鳴が漏れていた。村の者たちはあそこに逃げ込んでいた。


 三体目は、村の入り口にいた。足元に人が二人倒れていた。従士の鎧を着ていた。キネシスが村に置いた見張りの従士だった。

 もう二人が槍を構えて悪魔の前に立っていた。槍の穂先は震えていた。


 悪魔は、三体。

 捕まっているのは空の一体の腕に子どもが一人。納屋の中に村の者が十数人。入り口に従士が四人。うち二人は動いていない。


 窓を開けられるのは、キネシス一人。


 一度に、一つ。


「空の一体が、先」


 フィールが言った。迷いのない声だった。


「東へ飛ばれたら、もう追えない。子どもを抱えているのはあれだけ」


「空だぞ」


 リアムが言った。


「矢は、殻に弾かれる。窓がなきゃ」


「キネシス様」


 フィールはキネシスを見た。


「あの高さまで、跳べますか。あれの背中へ」


 キネシスは空の影を見上げた。


「跳べる。見えている所なら、空でも同じだ」


「触れたまま、いられるのは」


「一呼吸。足場がない。落ちる前に、もう一度跳んで下りる」


「一呼吸で、窓はどこまで開きますか」


「触れた所から、手のひら二つ分」


「翼の付け根に、触れてください」


 フィールはミラを見た。


「一呼吸。手のひら二つ分。射てる?」


 ミラはもう弓を引いていた。答えなかった。頷きもしなかった。弦が耳の後ろまで引かれていた。


「翼を射抜けば、落ちる。落ちる前に、子どもを放す」


 フィールは蓮とリアムとベルを見た。


「三人は、井戸の下へ。子どもは、屋根二つ分の高さから落ちてくる。そのまま受けたら、受けた方も潰れる」


 蓮は懐の石を握った。二つ、入っていた。粉の火の石と。六角の盾の石と。


「盾は、割れる時に勢いを持っていく」


 蓮は言った。


「一枚で、一撃ぶん」


「三人で、三枚。上から順に」


 フィールは頷いた。


「屋根の高さまで、届く?」


「届かせる」


 リアムが言った。

 腕一本ぶんより先へ盾を張る稽古は、石をもらった日から三人とも続けていた。拳の向く先なら、屋根の高さまでは届く。


「割って、割って、割って。最後に、ロイが受ける」


「おう」


 ロイが剣を鞘ごと背中へ回した。両手を、空けた。


「ヴァイスは、私と納屋へ。扉の前に盾を張る。三枚しかない。三枚のうちに、キネシス様が来る」


 ヴァイスが無言で剣を抜いた。


「入り口の一体は」


 ベルが訊いた。


「……後回し」


 フィールの声が、ほんの少しだけ硬くなった。


「槍の二人に、持たせる。持たなければ」


 その先は、言わなかった。誰も、訊かなかった。


「――行く」






 キネシスの目が井戸の脇を見た。


 跳んだ。


 蓮とリアムとベルとロイが、井戸の脇に立っていた。


 真上に黒い翼があった。


 近くで見ると、大きかった。


 子どもの足が、悪魔の腕の下でばたついていた。


 キネシスだけが、もう一度、上を見た。


 消えた。


 次の瞬間。


 空の悪魔の背中に、人がいた。


 外套が、夜風にはためいていた。


 右手が、翼の付け根を掴んでいた。


 悪魔が、首をねじった。


 赤い目が、背中の貴族を見た。


 一呼吸。


 ヒュッ。


 岩の上から、矢が飛んだ。


 篝火の明かりを、一筋、横切って。


 ドスッ!!


 翼の付け根。


 キネシスの手の、指二本ぶん横。


 矢が、羽根まで埋まっていた。


「ギャアアアアアッ!!」


 悪魔が吠えた。


 片方の翼が、だらりと折れた。


 体が、傾いた。


 キネシスの姿が、背中から消えた。


 悪魔の腕が、開いた。


 小さなものが、宙に放り出された。


 落ちてくる。


 まっすぐに。


 井戸の石組みの上へ。


「リアム!!」


「張るぞおッ!!」


 リアムが拳を真上へ突き上げた。


 握った。


 落ちてくる子どもの真下、屋根一つ半の高さに、六角の光が浮かんだ。


 ガシャァンッ!!


 割れた。


 子どもの体が、一瞬、空中で沈んだ。


 速さが、落ちた。


「蓮!!」


「二枚目!!」


 蓮は握った。


 屋根一つ分の高さ。


 ガシャァンッ!!


 割れた。


 また、遅くなった。


 光の欠片が、雨のように降ってきた。


「三枚目!!」


 ベルが握った。


 屋根の軒の高さ。


 ガシャァンッ!!


 割れた。


 子どもは、もう、落ちているというより、降りてきていた。


 ロイが、両腕を広げた。


 どさり。


 受けた。


 膝が、砂に沈んだ。


 倒れなかった。


 腕の中で、子どもが、火がついたように泣き出した。


 泣いていた。


 生きていた。


「……取った」


 ロイが言った。


 声が、震えていた。


「取ったぞ!!」


 一人。


 蓮は、数えた。


 その後ろで。


 ドオンッ!!


 地面が、揺れた。


 悪魔が、落ちていた。


 井戸の向こう、十歩。


 片方の翼を引きずって、立ち上がった。


 赤い目が、こっちを見た。


 子どもを抱えたロイを。


 その前に立つ、三人を。


 加護のない、人間を。


 牙が、剥き出しになった。


 来た。


 速かった。


 十歩が、一瞬で五歩になった。


 蓮は、剣を抜いた。


 抜いても、通らない。


 窓が、ない。


 殻の上を、刃が滑るだけだ。


 それでも、前に立った。


 後ろに、ロイがいた。


 ロイの腕の中に、子どもがいた。


 三歩。


 悪魔の爪が、振り上げられた。


 その背中に。


 手が、触れていた。


 キネシスだった。


 空から下りて、もう一度跳んで、そこにいた。


 息が、荒かった。


「数えろ、蓮!!」


「一!!」


 窓が、開いていく。


 背中から。


 肩へ。


 悪魔が、振り返った。


 爪が、キネシスへ向かった。


 触れている間は、貴族の加護も消える。


 あの爪は、通る。


「二!!」


 蓮は左の拳をキネシスへ向けて、盾の石を握った。


 キネシスの顔の前に、六角の光。


 紙だった。


 悪魔の爪は、それを、紙のように裂いた。


 だが、紙一枚ぶん、遅れた。


 キネシスの首が、傾いた。


 爪は、頬の横を抜けて、外套の肩を裂いた。


 布が、飛んだ。


 血は、飛ばなかった。


「三!!」


 窓が、胸まで回った。


「ベル!!」


「分かってるわよッ!!」


 ベルの右手が、もう突き出されていた。


 砂の火の石。


 握った。


 ドンッ!!!


 火の玉が、悪魔の胸の真ん中で弾けた。


 殻は、なかった。


 まともに、入った。


 悪魔の体が、くの字に折れた。


 胸の皮が、焼けて裂けた。


 その奥に。


 赤黒く光るものが、見えた。


 核。


 蓮はもう踏み込んでいた。


 一年、振ってきた。


 毎朝、五百。


 フィールに、何百本も取られた。


 木の枝一本に、何度も転がされた。


 その全部を、剣の先に乗せた。


 突いた。


 刃が、焼けた胸の裂け目へ入った。


 硬いものに、当たった。


 押した。


 ぴしり、と。


 手の中に、ひびの入る感触が来た。


「うおおおおおおおッ!!」


 押し込んだ。


 砕けた。


 悪魔の赤い目が、見開かれた。


 爪が、宙で止まった。


 その爪の先から。


 さら、と。


 崩れ始めた。


 指が。腕が。肩が。


 黒い砂になって、夜風に流れていった。


 顔が、最後だった。


 赤い目が、蓮を見ていた。


 驚いている目だった。


 人間に、という目だった。


 それも、砂になった。


 蓮の剣の先に、何もなくなった。


 足元に、黒い砂の山が、一つ残っていた。


 静かだった。


 一呼吸だけ。


「……討った」


 リアムが言った。


 信じられない、という声だった。


「討ったぞ、おい。悪魔を」


「まだ、二体」


 キネシスが言った。


 裂けた肩を、押さえもしなかった。


 北を見た。


 納屋の方を。


 跳んだ。






 納屋の前、フィールは三枚目を張っていた。


 扉の前に青白い盾。


 その前にフィールとヴァイス。


 悪魔の拳が、振り上げられていた。


 盾には、もう蜘蛛の巣のようにひびが入っていた。


 次で割れる。


 割れたら、四枚目はない。


 フィールは、退かなかった。


 ヴァイスも、退かなかった。


 通らない剣を、構えたまま。


 拳が、落ちかけた。


 その背中に。


 手が、触れた。


 悪魔が、振り返った。


 貴族が、いた。


 肩の裂けた外套で。


 荒い息で。


 その後ろ、井戸の向こうに。


 黒い砂の山が、見えた。


 さっきまで、仲間がいた所に。


 赤い目に、怯えが走った。


 ばさり。


 翼が、開いた。


 悪魔は、拳を下ろしもせずに、夜空へ跳び上がった。


 東へ。


 入り口の一体も、それを見ていた。


 槍の二人の前で、足を止めていた。


 黒い砂の山を見た。


 東へ逃げる仲間を見た。


 足元の、倒れた従士を見た。


 担ごうとして。


 やめた。


 翼を広げて、後を追った。


 何も、持たずに。


 二つの影が、東の空に小さくなっていった。やがて、星に紛れて、見えなくなった。


 フィールの前で、三枚目の盾が、ふっと消えた。フィールは、扉に背中を預けて、ずるずると座り込んだ。


 納屋の中から、扉が、おそるおそる開いた。顔が、いくつも覗いた。


 蓮は、数えた。


 納屋から出てきた者。十四人。

 ロイの腕の中の子ども。一人。

 入り口の従士。四人。倒れていた二人は、フィールの回復の石を握らせると、呻いて目を開けた。


 攫われた者。零。

 死んだ者。零。


 それから、もう一つ。


 井戸の脇の、黒い砂の山。一。


 ミラが岩の上から下りてきていた。何も言わずに砂の前にしゃがんだ。革袋の口を開けて砂を両手で掬い入れ始めた。一粒も、こぼさないように。


 ヘルガが泣いて喜ぶ、と蓮は思った。

 悪魔の砂は、もう二度と手に入らないはずだった。






 都の空が、白み始めていた。


 ヤヌスはまだ窓辺に立っていた。一晩、そこにいた。

 鐘はとうに止んでいた。東の火は、いつの間にか消えていた。消えたのが良い知らせなのか、悪い知らせなのか。ヤヌスには分からなかった。


 館の見張り塔は空だった。夜の間、何度見ても空だった。


 机の上に枝が並んでいた。十二本。どれも同じ太さに削ってあった。

 いつ削ったのか、覚えていなかった。手が勝手に動いていた。じっとしていられなかった。


 当主様はこういう夜を待っている。

 その夜を自分は今、何を待って過ごしたのか。


 塔の上に。


 影が、現れた。


 ヤヌスは、窓枠を掴んだ。


 数えた。


 一。二。三。


 四。五。


 六。七。


 八。


 八つ。


 出ていった時と、同じ数だった。


 一人は、誰かに肩を借りていた。一人は、外套の肩が裂けていた。

 それでも、八つ、立っていた。


 ヤヌスの膝から力が抜けた。窓の下の壁に背中を預けて、座り込んだ。

 長い息が出た。自分が息を止めていたことに、初めて気づいた。


「……よかった」


 声に、出ていた。


 出てから、その言葉の意味に気づいた。


 「門」の継承候補が。


 キネシスが帰ってきたことを。


 よかった、と言った。


 ヤヌスは両手で顔を覆った。


 指の間から、机の上の枝が見えた。


 十二本。


 風車は、今日だった。


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